スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

小田原北条氏の足跡をたずねて①

2009-10-17 | 神奈川

「小田原北条氏」の史跡を訪ねるツアーに参加しました。

鎌倉幕府執権の北条氏についてはその昔に教科書で習った記憶が
おぼろげにありますが、「小田原北条氏」については殆ど知識が
なかったので、説明がちんぷんかんぷんで置いていかれないように
大急ぎで、ちょっとだけ泥縄のおベンキョをして・・


「小田原北条氏」
本姓は平氏で、室町幕府の幕臣伊勢氏一門の伊勢盛時(北条早雲)に
始まります。鎌倉北条氏の遠い血縁になるそうですが、区別するために
「後北条氏」、小田原を居城としたので「小田原北条氏」と呼ばれます。

伊勢氏は幕臣で身分はありましたが、関東を支配するのに鎌倉北条氏の
影響力を利用しようとして改姓したのではないかと考えられています。
(早雲は北条姓を名乗っていませんが、小田原北条の祖とされています。)

「玉縄城」
1523(大永3)年 早雲が相模国鎌倉郡玉縄村に築いた平山城で
のちに、豊臣秀吉の小田原征伐で徳川家康軍に敗れ開城しました。
城主は:①北条氏時・②為昌・③綱成・④氏繁・⑤氏舜・⑥氏勝


さて、
JR東海道線「大船」駅を出て柏尾川を渡り少し行ったところに
玉縄首塚


    

碑に記された説明によると、1526(大永6)年 安房の里見氏が鎌倉に
攻めてきた時、戸部川(現・柏尾川)近くで玉縄初代城主 北条氏時が
家臣や福原氏・甘粕氏らと共に戦い、戦のあと里見氏と双方死者の
首を交換し、ここに埋葬し塚を築いて供養したといいます。
現在も、毎年8月19日に供養祭が行われているそうです。



「龍寶寺トンネル」を抜けてR402 を行くと、右手に
陽谷山 龍寶寺

曹洞宗のお寺で、玉縄北条氏の菩提寺です。 
開山:泰恕宋栄禅師 開基:北条綱成
創建:1503(文亀3)年 本尊:宝冠阿弥陀如来


玉縄城3代城主 北条綱成(つなしげ)が山居という別の場所に
建てた瑞光院に始まり、1575(天正3)年 6代氏勝によって
現在地に移されました。龍寶寺の名は氏勝の父である
4代氏繁の戒名に由来するそうです。源実朝の位牌や
裏山に綱成・氏繁・氏勝の墓と伝わる石塔があります。

朝散大夫新井源公碑

ここ植木地区は新井白石の知行地だったことがあり、
白石はこのお寺に
200石を寄進しているそうです。
1725(享保11)年に室鳩巣が撰したという碑文は摩滅して
読めませんが、新井白石に関する碑だということです。

境内は広々としていて、幼稚園や民族資料館もあります。

旧石井家住居

元禄時代の農家で、国指定重要文化財です。
石井家は代々名主を務めた家柄だとか。



龍寶寺を出てさらに歩いて行くと、道路から少し奥まった山裾に
諏訪神社

ご祭神は建御名方命。早雲が築城の際に勧請したもので
3代綱成によって城内で一番高い諏訪壇に築かれましたが、
開城後に関谷にあった御霊社と共に現在地に移されたので
正式には「諏訪御霊両太神」となっています。



「玉縄トンネル」を通って「清泉女学院」の校門前へ


学院のご好意で、今は敷地内にある階段を通らせて貰って
玉縄城で一番高い「諏訪壇跡」へと向かいます。


諏訪壇跡

小高い丘の上は草木が茂り、昔を偲ぶよすがもありません。
往時はさだめし見晴らしのきく良い場所だったのでしょうが・・

反対側に少し下った眺望のきく場所から、南西に小高い丘が見えます。

「二伝寺砦」と呼ばれた場所で、これからそこへ向かって行きます。
(続)

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2 コメント

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オベンキョウの成果あり (kikyo)
2009-10-18 14:05:48
オベンキョウをして参加されたことで、難しい人名や地名などもすんなり入って、理解が深まったことでしょうね。

歴史に疎いkikyo姫(?)には、北条氏・小田原と聞いてもあのお城が出てくるの?ぐらいしか思い浮かびませんが、名所・旧跡も多いようですし、景色のよい道も歩かれたようですね。

続編「乞うご期待」ですね。
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好奇心だけで (夜猫子)
2009-10-18 22:54:16
猫も歴史は(「歴史も」かな)ヨワくて・・

折角の機会なので近隣のことも知りたいと思って参加したのですが
にわか仕込みはダメですね~皆さんについて行くのがやっとでした。

まだまだ知らないことだらけで、猫は好奇心がムクムク(笑)
でも、読んでくださる方はおもしろくないかもね~ごめんなさい
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