大橋巨泉さんが死去 12日、急性呼吸不全 82歳(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース
日刊スポーツ 7月20日(水)9時31分配信
がんの手術を繰り返し、闘病中のタレント大橋巨泉さんが12日午後9時29分、千葉県内の病院で、急性呼吸不全ため死去した。82歳。
体力の落ち込みが激しく、3月27日に入院し、いったん4月5日に退院、在宅介護に切りかえたが、容体が悪化し、再び4月11日に緊急入院していた。6月27日には関係者が「容体はよくない。体力がもうない」と深刻な状況とし、5月下旬に集中治療室に入ったと説明していた。
「趣味と実益を兼ねた人物」という意味において、サラリーマン族には「憧れの人物」だった。
「遊びながらカネを儲けられる人物」って、高度経済成長期においては、巨泉さんぐらいしかいなかったからね。
もちろん、趣味と実益が入り混じっているので、論評は総じて厳しかった。
とりあえず、競馬だけ例に挙げておこう。
1983年の日本ダービー。このレース、ミスターシービーが二冠を達成したレースだったが、巨泉さんはシービーは少なくとも4回は斜行しており、欧米だったら降着の対象になると厳しく言い放った。つまりは、日本の競馬における降着制度導入のきっかけは、このレースだったのだ。
その後、1987年の春の天皇賞において、ニシノライデンが2着入線ながらも、直線で大きく斜行したということで、ここでは「失格」となり、
「だったら何でシービーはセーフにしたのか?」
という意見も少なからずあったため、中央競馬会はついに、欧米に倣って降着制度を導入した。
また、競馬解体新書という本に書かれた提言は、その後、ほとんど中央競馬会が取り入れた。中でも、秋の天皇賞の距離短縮については、多くの競馬関係者、評論家の反対があったが、
「古馬の強い馬は大抵、春の天皇賞を勝ちあがるので、秋の天皇賞は『敗者復活戦』みたいなものだ。」(当時、傾向的に見て、春のほうは比較的配当が平穏で収まる年が多かったのに対し、秋は荒れる年が少なくなかったのは事実)
「こんな風習が続く限り、古馬の長距離戦を1年に2度やる意味は全くない」
と言い放って一歩も引かず、また、一部の馬主や調教師の賛同を得てついに中央競馬会を動かした。
ところで、秋の天皇賞が2000mとなった最初の優勝馬がミスターシービーだったというのは「皮肉な巡りあわせ」である。
また、野平祐二との親交もあったことから、当時の日本の競馬評論家とは一線を介した「海外競馬通」としても名を馳せた。今や「ごく当たり前」の海外競馬動向を、巨泉さんは1960年代あたりから意識し、かつ、日本の競馬サークルに広めていたということになる。ある意味、競馬評論家のパイオニア的存在でもあった。
日刊スポーツ 7月20日(水)9時31分配信
がんの手術を繰り返し、闘病中のタレント大橋巨泉さんが12日午後9時29分、千葉県内の病院で、急性呼吸不全ため死去した。82歳。
体力の落ち込みが激しく、3月27日に入院し、いったん4月5日に退院、在宅介護に切りかえたが、容体が悪化し、再び4月11日に緊急入院していた。6月27日には関係者が「容体はよくない。体力がもうない」と深刻な状況とし、5月下旬に集中治療室に入ったと説明していた。
「趣味と実益を兼ねた人物」という意味において、サラリーマン族には「憧れの人物」だった。
「遊びながらカネを儲けられる人物」って、高度経済成長期においては、巨泉さんぐらいしかいなかったからね。
もちろん、趣味と実益が入り混じっているので、論評は総じて厳しかった。
とりあえず、競馬だけ例に挙げておこう。
1983年の日本ダービー。このレース、ミスターシービーが二冠を達成したレースだったが、巨泉さんはシービーは少なくとも4回は斜行しており、欧米だったら降着の対象になると厳しく言い放った。つまりは、日本の競馬における降着制度導入のきっかけは、このレースだったのだ。
その後、1987年の春の天皇賞において、ニシノライデンが2着入線ながらも、直線で大きく斜行したということで、ここでは「失格」となり、
「だったら何でシービーはセーフにしたのか?」
という意見も少なからずあったため、中央競馬会はついに、欧米に倣って降着制度を導入した。
また、競馬解体新書という本に書かれた提言は、その後、ほとんど中央競馬会が取り入れた。中でも、秋の天皇賞の距離短縮については、多くの競馬関係者、評論家の反対があったが、
「古馬の強い馬は大抵、春の天皇賞を勝ちあがるので、秋の天皇賞は『敗者復活戦』みたいなものだ。」(当時、傾向的に見て、春のほうは比較的配当が平穏で収まる年が多かったのに対し、秋は荒れる年が少なくなかったのは事実)
「こんな風習が続く限り、古馬の長距離戦を1年に2度やる意味は全くない」
と言い放って一歩も引かず、また、一部の馬主や調教師の賛同を得てついに中央競馬会を動かした。
ところで、秋の天皇賞が2000mとなった最初の優勝馬がミスターシービーだったというのは「皮肉な巡りあわせ」である。
また、野平祐二との親交もあったことから、当時の日本の競馬評論家とは一線を介した「海外競馬通」としても名を馳せた。今や「ごく当たり前」の海外競馬動向を、巨泉さんは1960年代あたりから意識し、かつ、日本の競馬サークルに広めていたということになる。ある意味、競馬評論家のパイオニア的存在でもあった。