朝ドラ「べっぴんさん」のモデルはどんな人だった?〈dot.〉(dot.) - Yahoo!ニュース
dot. 10月3日(月)7時0分配信
NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」が10月3日に放送が始まる。ヒロイン・坂東すみれを演じるのは、2013年にデビューした芳根京子(19)。すみれの母親役は、昨年8月に第1子を出産した菅野美穂(39)が演じる。「あさが来た」、「とと姉ちゃん」に続き、ヒロインのモデルは女性実業家だ。子ども服を扱うアパレルメーカー「ファミリア」を創業した坂野惇子(ばんの・あつこ)の生涯に着想を得て、物語は展開される。
坂野惇子とはどんな人物だったのか。評伝などから彼女の人生をたどってみた。
惇子は1918年4月11日に神戸市で生まれた。父の佐々木八十八(やそはち)は、舶来好みのハイカラ好きだったらしい。アパレルの老舗・レナウンの創業者で、貴族院議員を務めたこともある名士だった。惇子は三男三女の末娘で、山の手のお嬢様として大切に育てられたようだ。長姉と次兄が幼いころに他界したこともあってか、父は幼い娘の健康に神経質なくらい気を配った。
1935年に甲南女子高等女学校を卒業し、2年間を東京女学館高等科の聴講生として過ごす。東京に遊学するとは、当時の女子教育ではかなり進歩的だ。惇子は大いに学び、見識を深めたはずだが、日本が国際連盟を脱退して国際的に孤立し、第2次世界大戦に向かっていたころである。重苦しい社会情勢のなかで抱いた理想は、現実とかけ離れていたかもしれない。
結婚は? というと、お家柄が重要視された時代であった。まだ自由恋愛とはいかない。男女は紹介をきっかけに出会い、家同士のつり合いなども勘案して相手を決めていく。惇子は1940年に京都帝国大学の学生だった坂野通夫(みちお)と婚約、夫が卒業し大阪商船(現・商船三井)へ入社したタイミングで同年に結婚した。惇子23歳、通夫25歳である。
新居は神戸市内の岡本に構えた。当時も現在も人気の住宅地である。1942年に長女光子が生まれ、その翌年には通夫が軍属としてインドネシア・ジャワ島へ赴くことになる。戦況が悪化する中、新婚生活の幸せは不安と隣り合わせだったに違いない。
「英米は敵」という風潮にもかかわらず、惇子は西洋式の育児法を取り入れている。近所に住む英国人女性から外国人専用のベビーナースを紹介してもらい、教えを受けた。乳幼児をおんぶして家事をこなすのではなくベビーベッドに寝かせておいたり、離乳食を導入したり……。のちに「ファミリア」でのさまざまな商品を開発するにあたり、子育ての経験を生かしている。
惇子が60代か70代と思われる写真を見ると、見るからに仕立ての良さそうなジャケットを着て、ポケットにはチーフ、首元にブローチ。化粧も手抜きがなく、眉をくっきりと描き、髪をきれいに染めている。“神戸生まれ”というのがおしゃれな生き方のベースになっていると拝察する。
関西エリアに住む女性のファッションを見るに、神戸っ子はアニマルプリントが流行しても、大阪のおばちゃんのようにヒョウ柄を全面に出すことはしない。靴やスカーフなどの部分使いや、色味を抑えて「流行、ちゃんと取り入れていますよ」とさりげなく装う。とりわけ靴へのこだわりは、関西エリアに住む女性のなかで群を抜いている。靴の製造が神戸の一大産業だからだろう。
惇子の人生においても靴は重要なアイテムであった。戦後、生活が困窮し、戦火をくぐり抜けた新品のハイヒール数点を靴屋に持ち込んで「売ってほしい」と依頼した。するとかつて靴を作った職人は「特別注文品だから売れない」という。困っていると、たまたま惇子が持っていた手芸小物の精巧さに感心した職人が、「店舗の一角を貸すから、手芸品を売ってみれば」と提案してくれた。そこで友人に声を掛け、子ども服や小物を売ることになったらしい。
惇子の呼びかけで始まった女性4人による取り組みは人気を集め、扱う商品や、店舗の面積をどんどん拡大する。1950年には「良心的な育児用品を、子どもと母親の立場で作りたい」との思いを込めて「ベビーショップ・ファミリア」を創業した。戦後、「女性も働かねば」という意識の変化と、夫の後押しが多分にあったようである。
通夫は戦後、ファミリアを大いに支える存在となっていく。海軍仕込みの厳しさで惇子や社員を叱咤激励し、1956年以降は社長として頼もしい経営手腕を発揮した。ヒロインのよき理解者としては「あさが来た」の新次郎様のような優しい夫でありながら、時には「とと姉ちゃん」の花山編集長のような厳しい上司でもあったというわけだ。
「べっぴんさん」の主人公、坂東すみれはどんな人生を歩んでいくのだろう。新しい朝ドラのヒロインへの興味は尽きない。(ライター・若林朋子)
dot. 10月3日(月)7時0分配信
NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」が10月3日に放送が始まる。ヒロイン・坂東すみれを演じるのは、2013年にデビューした芳根京子(19)。すみれの母親役は、昨年8月に第1子を出産した菅野美穂(39)が演じる。「あさが来た」、「とと姉ちゃん」に続き、ヒロインのモデルは女性実業家だ。子ども服を扱うアパレルメーカー「ファミリア」を創業した坂野惇子(ばんの・あつこ)の生涯に着想を得て、物語は展開される。
坂野惇子とはどんな人物だったのか。評伝などから彼女の人生をたどってみた。
惇子は1918年4月11日に神戸市で生まれた。父の佐々木八十八(やそはち)は、舶来好みのハイカラ好きだったらしい。アパレルの老舗・レナウンの創業者で、貴族院議員を務めたこともある名士だった。惇子は三男三女の末娘で、山の手のお嬢様として大切に育てられたようだ。長姉と次兄が幼いころに他界したこともあってか、父は幼い娘の健康に神経質なくらい気を配った。
1935年に甲南女子高等女学校を卒業し、2年間を東京女学館高等科の聴講生として過ごす。東京に遊学するとは、当時の女子教育ではかなり進歩的だ。惇子は大いに学び、見識を深めたはずだが、日本が国際連盟を脱退して国際的に孤立し、第2次世界大戦に向かっていたころである。重苦しい社会情勢のなかで抱いた理想は、現実とかけ離れていたかもしれない。
結婚は? というと、お家柄が重要視された時代であった。まだ自由恋愛とはいかない。男女は紹介をきっかけに出会い、家同士のつり合いなども勘案して相手を決めていく。惇子は1940年に京都帝国大学の学生だった坂野通夫(みちお)と婚約、夫が卒業し大阪商船(現・商船三井)へ入社したタイミングで同年に結婚した。惇子23歳、通夫25歳である。
新居は神戸市内の岡本に構えた。当時も現在も人気の住宅地である。1942年に長女光子が生まれ、その翌年には通夫が軍属としてインドネシア・ジャワ島へ赴くことになる。戦況が悪化する中、新婚生活の幸せは不安と隣り合わせだったに違いない。
「英米は敵」という風潮にもかかわらず、惇子は西洋式の育児法を取り入れている。近所に住む英国人女性から外国人専用のベビーナースを紹介してもらい、教えを受けた。乳幼児をおんぶして家事をこなすのではなくベビーベッドに寝かせておいたり、離乳食を導入したり……。のちに「ファミリア」でのさまざまな商品を開発するにあたり、子育ての経験を生かしている。
惇子が60代か70代と思われる写真を見ると、見るからに仕立ての良さそうなジャケットを着て、ポケットにはチーフ、首元にブローチ。化粧も手抜きがなく、眉をくっきりと描き、髪をきれいに染めている。“神戸生まれ”というのがおしゃれな生き方のベースになっていると拝察する。
関西エリアに住む女性のファッションを見るに、神戸っ子はアニマルプリントが流行しても、大阪のおばちゃんのようにヒョウ柄を全面に出すことはしない。靴やスカーフなどの部分使いや、色味を抑えて「流行、ちゃんと取り入れていますよ」とさりげなく装う。とりわけ靴へのこだわりは、関西エリアに住む女性のなかで群を抜いている。靴の製造が神戸の一大産業だからだろう。
惇子の人生においても靴は重要なアイテムであった。戦後、生活が困窮し、戦火をくぐり抜けた新品のハイヒール数点を靴屋に持ち込んで「売ってほしい」と依頼した。するとかつて靴を作った職人は「特別注文品だから売れない」という。困っていると、たまたま惇子が持っていた手芸小物の精巧さに感心した職人が、「店舗の一角を貸すから、手芸品を売ってみれば」と提案してくれた。そこで友人に声を掛け、子ども服や小物を売ることになったらしい。
惇子の呼びかけで始まった女性4人による取り組みは人気を集め、扱う商品や、店舗の面積をどんどん拡大する。1950年には「良心的な育児用品を、子どもと母親の立場で作りたい」との思いを込めて「ベビーショップ・ファミリア」を創業した。戦後、「女性も働かねば」という意識の変化と、夫の後押しが多分にあったようである。
通夫は戦後、ファミリアを大いに支える存在となっていく。海軍仕込みの厳しさで惇子や社員を叱咤激励し、1956年以降は社長として頼もしい経営手腕を発揮した。ヒロインのよき理解者としては「あさが来た」の新次郎様のような優しい夫でありながら、時には「とと姉ちゃん」の花山編集長のような厳しい上司でもあったというわけだ。
「べっぴんさん」の主人公、坂東すみれはどんな人生を歩んでいくのだろう。新しい朝ドラのヒロインへの興味は尽きない。(ライター・若林朋子)