社会的閉塞感、経済の停滞、将来への不安等によって、政治に対する不満が膨らむ中で、強いリーダーシップを望む声は多い。
しかし、それは日本人の特性として、一つの目標なり目的を明確にしたいという焦燥感の表れであって、ひとりの人間が日本を変えてくれるであろう幻想はあまりにも危険であると思われる。
歴史を振り返れば、民主主義の胎動は、いつもその時代の一つの宝庫間を求める全体主義の中に埋没してきたような気がしてならない。明治の民権運動、戦前の大正デモクラシーしかりである。結局、現在も、戦後のお任せ民主主義でしかない民主主義ではないかと疑問に思う。だが、お任せ民主主義であってもいかに私たちの中に本来のまた日本なりの民主主義が定着することが重要になってくる。
ここで昨年読んだ月刊誌「世界」に掲載された湯浅誠氏の小論からの抜粋を紹介したいと思う。民主主義の基本をとリーダーシップの考えを表しているので抜粋によって紹介する。
● 『・・・「強いリーダーシップ」を求める人は多い。しかしそれは、錯綜する多様な利害関係の中から一つを選びとり、他を切り捨てる。・・・したがって、「強いリーダーシップ」を空想的に求めるのではなく、現実的な調整を求め、それを擁護すべきだ。なぜなら、「強いリーダーシップ」のもとでは、現実に切り捨てられるのは、「わたしたち」だから。・・・したがって、実際の問題は、あくまで現実の調整過程である。』
● 『政治的・社会的シニシズム(排除されているという認識構造の下、調整過程全般に不信感を募のらせる態度ー浅野要約)から見れば、(私たちの)疎外感に基づく不信感が政治家個人から政党、そして政党政治に及ぶ時、議会制民主主義システムは機能停止する。「強いうリーダーシップ」による議会制民主主義システムの機能停止は「私たち」の利益に反する。それゆえに「私たち」は、調整当事者として、調整の次元に主体的にコミットし、社会的・政治的領域を貫く調整=政治=を活性化させる必要がある。
・・・・したがって調整の当事者として、私たちはその調整結果に対して、幾分なりとも結果責任を負う。』
それでは、私たちはどのように政治に参画していくべきなのかについて、
● 『政治的・社会的力関係の総体を視野に入れながら、社会的領域及び政治的領域における調整過程に積極的に介入し、主権車として結果に対する責任を自覚し、何かを全否定したくなる衝動を抑えながら、地道に調整を重ねて相反する利害関係者との合意形成を図る。』
単なる政治批判や官僚批判ではなく、大きなことから身近な小さなことまで、こうした地道な活動があってこそ、ベストではなくベターな民主主義が機能していくことになる。
しかし、それは日本人の特性として、一つの目標なり目的を明確にしたいという焦燥感の表れであって、ひとりの人間が日本を変えてくれるであろう幻想はあまりにも危険であると思われる。
歴史を振り返れば、民主主義の胎動は、いつもその時代の一つの宝庫間を求める全体主義の中に埋没してきたような気がしてならない。明治の民権運動、戦前の大正デモクラシーしかりである。結局、現在も、戦後のお任せ民主主義でしかない民主主義ではないかと疑問に思う。だが、お任せ民主主義であってもいかに私たちの中に本来のまた日本なりの民主主義が定着することが重要になってくる。
ここで昨年読んだ月刊誌「世界」に掲載された湯浅誠氏の小論からの抜粋を紹介したいと思う。民主主義の基本をとリーダーシップの考えを表しているので抜粋によって紹介する。
● 『・・・「強いリーダーシップ」を求める人は多い。しかしそれは、錯綜する多様な利害関係の中から一つを選びとり、他を切り捨てる。・・・したがって、「強いリーダーシップ」を空想的に求めるのではなく、現実的な調整を求め、それを擁護すべきだ。なぜなら、「強いリーダーシップ」のもとでは、現実に切り捨てられるのは、「わたしたち」だから。・・・したがって、実際の問題は、あくまで現実の調整過程である。』
● 『政治的・社会的シニシズム(排除されているという認識構造の下、調整過程全般に不信感を募のらせる態度ー浅野要約)から見れば、(私たちの)疎外感に基づく不信感が政治家個人から政党、そして政党政治に及ぶ時、議会制民主主義システムは機能停止する。「強いうリーダーシップ」による議会制民主主義システムの機能停止は「私たち」の利益に反する。それゆえに「私たち」は、調整当事者として、調整の次元に主体的にコミットし、社会的・政治的領域を貫く調整=政治=を活性化させる必要がある。
・・・・したがって調整の当事者として、私たちはその調整結果に対して、幾分なりとも結果責任を負う。』
それでは、私たちはどのように政治に参画していくべきなのかについて、
● 『政治的・社会的力関係の総体を視野に入れながら、社会的領域及び政治的領域における調整過程に積極的に介入し、主権車として結果に対する責任を自覚し、何かを全否定したくなる衝動を抑えながら、地道に調整を重ねて相反する利害関係者との合意形成を図る。』
単なる政治批判や官僚批判ではなく、大きなことから身近な小さなことまで、こうした地道な活動があってこそ、ベストではなくベターな民主主義が機能していくことになる。