雑にゃん日記<俺ってズレてる?>

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あらら「鋼の錬金術師 完結編 最後の錬成」見ましたよーの感想

2022-07-03 11:27:18 | 映画

全開の「復讐スカー」編を見たので、完結の方も見ないと失礼かなと。

という事で、見てきました

 

映画『鋼の錬金術師 完結編』オフィシャルサイト

映画『鋼の錬金術師 完結編』オフィシャルサイト

「最後の錬成」大ヒット上映中!原作の最終話まで描き切る、堂々の完結編。求め続けた身体と引き換えに、兄弟が出した答えとは?

映画『鋼の錬金術師 完結編』オフィシャルサイト

 

前回も書いたけど、「原作と違う」と語っても仕方がないですよね。

予算の問題もあれば、実写という制限もあるので、実現できる・できないは絶対あるでしょう。

なので、工夫を凝らして「見ごたえ」のある表現に変えるというのは、アリだと思いますし、腕の見せ所ですね。

逆に作り手の立場として

「よく頑張っている」

という評価は、うれしいのでしょうか?プロとしてどうなんでしょう?

「すげーの作ったぜ!どうだ!」

って思いで作っているはずであり、「努力は認めるよ」的な評価は逆に恥なのでは?と思うわけです。

と、どんよりした言葉でブログを始めてしまいましたね。。。

 

本当に原作と2つのアニメーションを意識し、テイストを盛り込み、オマージュし、外さないように作ろうとする気持ちが感じられます。

手本にするものがたくさんあるので

「トレースすれば、真似すればいいよね~」

という逆のとらえ方もできます。

映画のフォーマットは、約140分。

率直な感想は「長い」長すぎる。

起承転結もない、盛り上がりに欠ける、このシナリオでは「長い」以外に感じられません。

手本を盛り込んで、ダラダラトレースすることを目的にしたと思われるので、この140分という時間を起承転結のウェーブとして作りこんでいないのかもしれません。

それゆえに、後半になるにつ入れて「盛り上がる」という視聴者の気持ちが・・・なえてしまいます。

 

感じたのは、この作品のシナリオなり脚本なりを考えた人たちは、プロットとキャラクタの移動を紙に書いて会議したのかな?

と思うわけです。

シーンの移り変わりが唐突に行われ、何の説明もありません。

この人たちは「伏線」とか「誘導」というものを知っているのかな?と感じるわけです。

つまり、「次は~~へ行く」とか「すぐ戻るぞ」とか、あえてセリフで話すことで視聴者を誘導するのですが、これが無い。

そのため、シーンが変わると遠くに移動していたりします。

見た人から見ると「えっ?どこ?何故ここにいるの」なんて感じられるわけです。

たしかにワザとらしいセリフですが、このセリフが伏線につながったり、視聴者を誘導することになります。

手本をトレースすることに注力しすぎて、この「実写映画」の中でのキャラクターの動きや時間の経過を示す事を忘れちゃってます。

手本を無視してでも、キャラクターが自然に動き、時間経過が自然になるようにすると良かったのにね。

昔の火曜サスペンスを見習ってほしいですね。

何も言わずに移動する場合は、電車に乗っているシーンを1シーンだけBGMで差し込むとかって奴。

こうすると、演技不要で視聴者に印象付けられ、自然な流れになります。

こういう細かいところが、「お話」では必要なのです。

そもそも、エドは何を目標に140分走っているのでしょうか?

そして、この中でサブシナリオがありますが、それらは何をするシナリオなのでしょうか?

結果140分は、何を目的にしたものなのでしょうか?

これらが全く語られません。視聴者が置いてけぼりです。

なぜ伏線として、セリフで「ちょっとだけ」でも話させないのでしょうか?視聴者への印象操作は、限られた時間で語る場合の必須事項です。

これが無いので、何にも目的感を共有しないまま進んでしまっています。

まあ、鋼の錬金術師を知っている人向けに作っている?のかもしれませんが、物語としての最低限の誘導は必要ですよ。

ざっくりいうと、アルが「エドの体と自分の腕と足を取り戻す」という目標が事の発端。

ですが、「この世界、何かに操られている。それに立ち向かう」事がサブシナリオ(というか、ハガレンの全体構成)になっていて、それらが1つになってエンドを迎える。

これが流れです。

これを、ところどころでキャラクターに話させるんです。わざとらしいですが、印象操作です。

 

それから「動かないカメラワーク」。

とにかく全編「役者のアップ」と「向き合った会話の横から俯瞰」で構成されます。

これ一辺倒。

中世っぽい世界観なのですから、引きの絵や背景のみの絵を使って「世界観」を出すべきなんだと思います。

それが、常に役者のアップのみ。

そして背景が動かない。もう紙芝居状態です。

カメラワークやら画角やら、アングルってなに?って感じです。

役者との契約で「アップ9割」って契約になっているのかな?

あとは、CGには金がかかるので、壮大な背景は作りたくないって事なのかな?と深読みしてしまいます。

今公開中の「バクテン」これのCGを見てほしいです。

「バクテン」をTVシリーズで見た時は、衝撃を受けました。

「美しく、自然でかっこいい。こんなCGが作れるのか!」

と。

背景をブラックアウトし、とにかくキャラクターの動きだけを印象的に、また躍動的に見せる。

そしてカメラを縦横無尽に動かすことで、実際には撮れない映像を迫力満点で見せるCG。

これこそが「視聴者に見せる。どうだ!すごいだろ!」につながっています。

演出とはこうだ!と言わんばかりの、製作者の心意気が伝わってきます。

なぜ、実写はこういう心意気が伝わってこないのでしょうかね。。。

 

役者のアップは「もういいわ。。。」ってぐらい。

表情で演技ができるのならまだいいのですが、やっぱり「学芸会」演技。怒鳴りあう奴ですよ。

ジャニーズでは、ああいう演技教育なのでしょう。

そういう演技は舞台でちょうどいいのかもしれませんが、アップでやる演技では無いです。

芝居やたたずまいで演技してほしいです。

アップばかりなので、「鋼の錬金術師」という作品の躍動感や爽快感が、完全に失われてしまっています。

やっぱり邦画は、動きのない学園ドラマしか作れないのですね。。。

全編、眉間にしわ、上目遣いで睨むような演技。

それも、全員。

キャラクターの心情なんて、無視の無視。

もっと表情豊かな役者を使うべきだった。。。というか、こういう演出なのかな?

 

舞台は右(上手)から、左(下手)へ風が吹くと、何かで読んだことがあります。

つまり、下手へ移動すると「希望を持った」ポジティブな移動になり、上手にを動くとネガティブな移動になります。

ゲームでも右に移動することで緊張感を演出します。

他に使われる演出に、カメラに向かって移動することで「緊張感」を、奥に向かって移動することで「希望」に向かうという演出。

アメリカ映画でよく使われます。

アメリカの映画は、この方程式を忠実に守っているように感じます。

つまり、役者の演技以外、カメラワークでキャラクターや、このシーンの心情を語るのです。

邦画は、見事に無視。

そのため、シーンで視聴者に感じてほしいというメッセージが皆無、もしくは逆の印象を与えてしまっています。

最後のシーン、アルは右向きになって終わります。

なぜ、左に歩かせなかったのでしょうか?

奥に向かって移動させても良かった。

希望を持った終わり方なのに、緊張感だけが残り・・・ただただスッキリしない感じになってしまいます。

作品は良い。

一つ一つの見せ方、印象操作が雑なだけに、全てがスッキリしない、爽快感が無い話になっています。

 

それゆえに140分長い。

そう感じました。

 

あとは、何かの記事で読みました。

役者の記事で「作品に恵まれない」って書いてあったのですが、これは良くないですね。

あなたも作品の一部です。


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