先日、アメリカの若い女性が安楽死を選択した問題について書いた。(安楽死のニュースをもう少し考えてみよう)
この「事件」が日本でセンセーショナルに報道された翌日、今度は脳腫瘍で余命2ヶ月と言われている少女が、大学バスケットボールの大会に出場したというニュースが大々的に取り上げられた。このことを批判する人はいない。それは当然だとしても、なぜ彼女が賞賛されるのか、ちゃんと考えている人はどれだけいるのだろうか。
この少女は高校時代にバスケットボールの才能を認められて大学にスカウトされた。しかしその直後、脳腫瘍が発見され、しかも治療が不可能であることが分かった。それでも少女は大学でバスケットボールを続け、現在では体に麻痺が出てきている状態だが、両親はどうしても大会に出してやりたいと運動し、大会主催者が特別に開催日を早めて、彼女は今シーズン最初の試合に出場し、最初のゴールを決めた選手となった。
彼女は「自分はあきらめない」「自分が死んだ後も治療法が進歩し、多くの人が救われることを望む」とメッセージしている。彼女のメッセージはひとつの運動として広がっており、今回の大会もそうした運動と連携しているようだ。
賞賛されるべき人である。しかしその意味を理解しないで、ただ「良いこと」にしてしまうのはあまりにも軽薄だ。
彼女が賞賛されるのは、様々な選択が出来る権利を持ちながら、あえて「あきらめない」、バスケを続けるという選択をしたからである。その前提に、自分の命に対する自己決定権が存在するからこそ、彼女の行為は尊いのである。またアメリカ社会もそうした個人の決断に対してそれを最大限尊重し、実現できるようにサポートするよう機能した。そのことを忘れてしまったら、この決断をただのメロドラマとして消費することにしかならない。
ジャーナリストの岩上安身は、「安楽死」「尊厳死」について強く批判をしている。(【岩上安身のツイ録】安楽死をめぐる日本の政治家の思惑~「死の自己決定権」の美名のもと、寝たきり老人殺しが進みかねない)
岩上氏の主張は、尊厳死と言ってもそれは殺人である、また社会福祉予算、医療費の削減を目論む政治家の中には、それを悪用しようとしている者がいるというものである。
ぼくもこの文章中に出てくるテレビ番組を見ていたが、岩上氏が一番言っていたのは自分の父親の死をめぐる葛藤のこと、決断を家族に迫る医療側への批判、その後の家族間に問題が発生する可能性、そして医者を守るための尊厳死法案は認められないということであった。
しかしそれはやはり少し違う。
当日の番組に出演した日本尊厳死協会の副理事長である鈴木裕也氏は、現状においても最終的には尊厳死を認めた医師も裁判では無罪になるのだが、法律が存在しないために検察は起訴せざるを得ない。そうすると裁判の間、その医師は様々な制約を受けることになり、またその後にも支障が出てくるので大変な負担になる、それを回避するために尊厳死法が必要だ、そうでないと尊厳死を実行する医師の数が増えず、尊厳死を求める人や家族にとっても不利益であるという主張だった。ちなみに日本尊厳死協会の顧問には、この番組の他の曜日のレギュラーである作家の吉永みち子も名を連ねている。
この主張自体には十分説得力があると思う。岩上氏の当日の発言を聞く限りでは、むしろ延命治療の打ち切りの決定の責任を回避し、医師にすべて押しつけたいという風にも聞こえた。前掲の記事の中でも岩上氏は「結局、家族が生死の境を決めなくてはならない。その心の負担の大きさは並大抵のものではない」「医師からの「延命治療をやめていいですね?」という問いに、「わかりました」と承諾した負い目は、そう簡単に消えない」と書いている。
ぼくも父の延命治療をしない決断をした経験がある。その時はある程度はやい段階から医師が確認してきたので、最初から延命装置を付けないで済んだ分、精神的な負担は少なかったかもしれない。家族と相談する時間もあった。また両親の死生観について、若い頃からよく聞いていたことも参考になった。
ただ、やはり誰かが誰かの死の決定をしなくてはならないのであれば、それはやはり医師でも国家や法律でもなく、本人か、それが出来なければ家族がその責任を負うべきだと思う。
もちろん岩上氏が指摘するような、権力者による安楽死・尊厳死の悪用は論外である。また岩上氏は番組上では「尊厳死」がある一方「見苦しい死」があるということになる、死をそのように価値づけることによって、無言の圧力として人に死の選択を迫ることの問題性にも触れていた。それもまた無視できない問題だと思う。
ぼくは冒頭に紹介した記事の中で、死を司る者を、神、自分、第三者と分類したが、実はそんなに単純に分けられるものでもない。他者に強要された自死というものも多いのだ。この場合、外形的には自殺だが、事実上は他殺である。それはたとえば太平洋戦争末期の玉砕指令があるし、今日はこんなネット記事(英会話講師自殺:持ち帰り残業で労災認定 金沢労基署)もあった。
しかしそのことと、自分の命に対する自己決定権の容認とは別問題である。たとえば学習塾やスポーツクラブに子供を通わせるとき、それが親の強制であったり、格差の問題が起きたりなど様々な問題がある。しかしそれだからと言って、即座に学習塾やスポーツクラブ自体を否定するのは、いささか乱暴であろう。問題は問題として考えるべきだ。
死への強制や、作られた死への誘惑というのは社会の問題である。もっとはっきり言えば社会制度、社会構造、社会のシステムの問題である。
その構造を暴き出し、厳しく批判することは大変重要だ。そしてその仕事を担うのがジャーナリズムであろう。
社会が健全であったとしたら、それでも死への自己決定権がどのような問題になるのかということも、考えてみる必要がある。
見落としてはならないのは、結局のところ、いくら自殺を批判したところで最終的に止めることは出来ないということだ。それはある意味で究極の人間の自分自身への支配権の行使である。ただ死の床にある人にはその自分への支配権を行使できない。そのことをどう考えるかである。
ぼくは別に自殺を推奨しているわけではない。しかし良くも悪くも近代は自己決定の世界なのだ。誰かに(それは神も含めて)何かをゆだねるのかどうか、それとも徹底的に自己決定にこだわるのか。そのことはどうしても考えざるを得ないのである。
この「事件」が日本でセンセーショナルに報道された翌日、今度は脳腫瘍で余命2ヶ月と言われている少女が、大学バスケットボールの大会に出場したというニュースが大々的に取り上げられた。このことを批判する人はいない。それは当然だとしても、なぜ彼女が賞賛されるのか、ちゃんと考えている人はどれだけいるのだろうか。
この少女は高校時代にバスケットボールの才能を認められて大学にスカウトされた。しかしその直後、脳腫瘍が発見され、しかも治療が不可能であることが分かった。それでも少女は大学でバスケットボールを続け、現在では体に麻痺が出てきている状態だが、両親はどうしても大会に出してやりたいと運動し、大会主催者が特別に開催日を早めて、彼女は今シーズン最初の試合に出場し、最初のゴールを決めた選手となった。
彼女は「自分はあきらめない」「自分が死んだ後も治療法が進歩し、多くの人が救われることを望む」とメッセージしている。彼女のメッセージはひとつの運動として広がっており、今回の大会もそうした運動と連携しているようだ。
賞賛されるべき人である。しかしその意味を理解しないで、ただ「良いこと」にしてしまうのはあまりにも軽薄だ。
彼女が賞賛されるのは、様々な選択が出来る権利を持ちながら、あえて「あきらめない」、バスケを続けるという選択をしたからである。その前提に、自分の命に対する自己決定権が存在するからこそ、彼女の行為は尊いのである。またアメリカ社会もそうした個人の決断に対してそれを最大限尊重し、実現できるようにサポートするよう機能した。そのことを忘れてしまったら、この決断をただのメロドラマとして消費することにしかならない。
ジャーナリストの岩上安身は、「安楽死」「尊厳死」について強く批判をしている。(【岩上安身のツイ録】安楽死をめぐる日本の政治家の思惑~「死の自己決定権」の美名のもと、寝たきり老人殺しが進みかねない)
岩上氏の主張は、尊厳死と言ってもそれは殺人である、また社会福祉予算、医療費の削減を目論む政治家の中には、それを悪用しようとしている者がいるというものである。
ぼくもこの文章中に出てくるテレビ番組を見ていたが、岩上氏が一番言っていたのは自分の父親の死をめぐる葛藤のこと、決断を家族に迫る医療側への批判、その後の家族間に問題が発生する可能性、そして医者を守るための尊厳死法案は認められないということであった。
しかしそれはやはり少し違う。
当日の番組に出演した日本尊厳死協会の副理事長である鈴木裕也氏は、現状においても最終的には尊厳死を認めた医師も裁判では無罪になるのだが、法律が存在しないために検察は起訴せざるを得ない。そうすると裁判の間、その医師は様々な制約を受けることになり、またその後にも支障が出てくるので大変な負担になる、それを回避するために尊厳死法が必要だ、そうでないと尊厳死を実行する医師の数が増えず、尊厳死を求める人や家族にとっても不利益であるという主張だった。ちなみに日本尊厳死協会の顧問には、この番組の他の曜日のレギュラーである作家の吉永みち子も名を連ねている。
この主張自体には十分説得力があると思う。岩上氏の当日の発言を聞く限りでは、むしろ延命治療の打ち切りの決定の責任を回避し、医師にすべて押しつけたいという風にも聞こえた。前掲の記事の中でも岩上氏は「結局、家族が生死の境を決めなくてはならない。その心の負担の大きさは並大抵のものではない」「医師からの「延命治療をやめていいですね?」という問いに、「わかりました」と承諾した負い目は、そう簡単に消えない」と書いている。
ぼくも父の延命治療をしない決断をした経験がある。その時はある程度はやい段階から医師が確認してきたので、最初から延命装置を付けないで済んだ分、精神的な負担は少なかったかもしれない。家族と相談する時間もあった。また両親の死生観について、若い頃からよく聞いていたことも参考になった。
ただ、やはり誰かが誰かの死の決定をしなくてはならないのであれば、それはやはり医師でも国家や法律でもなく、本人か、それが出来なければ家族がその責任を負うべきだと思う。
もちろん岩上氏が指摘するような、権力者による安楽死・尊厳死の悪用は論外である。また岩上氏は番組上では「尊厳死」がある一方「見苦しい死」があるということになる、死をそのように価値づけることによって、無言の圧力として人に死の選択を迫ることの問題性にも触れていた。それもまた無視できない問題だと思う。
ぼくは冒頭に紹介した記事の中で、死を司る者を、神、自分、第三者と分類したが、実はそんなに単純に分けられるものでもない。他者に強要された自死というものも多いのだ。この場合、外形的には自殺だが、事実上は他殺である。それはたとえば太平洋戦争末期の玉砕指令があるし、今日はこんなネット記事(英会話講師自殺:持ち帰り残業で労災認定 金沢労基署)もあった。
しかしそのことと、自分の命に対する自己決定権の容認とは別問題である。たとえば学習塾やスポーツクラブに子供を通わせるとき、それが親の強制であったり、格差の問題が起きたりなど様々な問題がある。しかしそれだからと言って、即座に学習塾やスポーツクラブ自体を否定するのは、いささか乱暴であろう。問題は問題として考えるべきだ。
死への強制や、作られた死への誘惑というのは社会の問題である。もっとはっきり言えば社会制度、社会構造、社会のシステムの問題である。
その構造を暴き出し、厳しく批判することは大変重要だ。そしてその仕事を担うのがジャーナリズムであろう。
社会が健全であったとしたら、それでも死への自己決定権がどのような問題になるのかということも、考えてみる必要がある。
見落としてはならないのは、結局のところ、いくら自殺を批判したところで最終的に止めることは出来ないということだ。それはある意味で究極の人間の自分自身への支配権の行使である。ただ死の床にある人にはその自分への支配権を行使できない。そのことをどう考えるかである。
ぼくは別に自殺を推奨しているわけではない。しかし良くも悪くも近代は自己決定の世界なのだ。誰かに(それは神も含めて)何かをゆだねるのかどうか、それとも徹底的に自己決定にこだわるのか。そのことはどうしても考えざるを得ないのである。