解散総選挙はもう既定事実のようだ。「野党」は選挙協力が間に合わないとか、いろいろ愚痴が出ているが、どのみち思想的、本質的に自民党と対決しうる野党は社・共しかないわけで、そんな「ゆ党」がいかに選挙戦術で頭を悩ませようが、一般の人にとってはたいした問題ではない。おそらくこのままで行けば投票率は低くくなるだろう。まあそれが与党の狙い目ではあるのだが。
こういう与党の思惑で、自分たちに都合の良い選挙で権力を握るというやり方を民主主義と言って良いものかどうか、釈然としない。
日本の「お手本」であるアメリカ合衆国の先般の中間選挙では露骨に共和党有利の制度が導入されていたという。前回の大統領選挙の頃から、とりわけ共和党知事の州で導入された「有権者ID法」が、民主党支持基盤である大量の「弱者」から投票権を奪ったと言われている。これはようするに写真入りの身分証明書を持たない人の投票権を認めないという法律で、たとえば自動車免許を取得できない貧困層や移民、高齢者にとって非常に不利になっているそうだ。
また、アメリカでは政治資金の上限に規制が無く、個人献金が建前であるため、出所のよく分からないカネが大量に候補者に集まってくる。そしてその多額の資金が、いわゆるネガティブキャンペーンに使われているのが実情だ。日本の選挙も相当にひどいと思うが、アメリカの選挙はそれ以上にぐちゃぐちゃらしいのだ。
これが民主主義なのだろうか。中国はあからさまに権力者優位の形式的選挙をやっているが、陰湿な金と権力によってコントロールされる選挙で、堂々と権力を握る日本や米国の選挙がそれよりどれほど公正なのか、疑問に思わざるを得ない。
真面目に投票しようと思っても、選ぶべき候補がいない。誰を選んでもたいした違いはない。確かにそうだ。それで投票率が下がる。結果的に現在の権力者に都合の良い結果となる。なんだか理不尽な話だ。
しかし、ひとつには日本の選挙制度がそういう風に出来ているのも現実である。たとえば国会議員に立候補する場合、供託金は300万必要だ。その上にポスターやビラの費用がかかる。宣伝カーや事務所を借りるとなればそれにもお金がかかる。選挙運動員は原則的に無償ボランティアでなくてはならないが、それを集めるのも非常に大変だ。だが、実際の政治家が使っているカネはそんなものではない。こんな風に表に出る以外にかかるカネが莫大なのである。
ただ表向きの、合法的にかかるカネだけでも大変なものだ。そのへんの若者がこの社会を変えようと思って選挙に出ようとしても、供託金とポスター、ビラの代金すら捻出するのは容易ではない。
もちろん供託金制度にそれなりの根拠があることはわかるけれど、カネと組織ではなく、熱意と能力によって政治家が選ばれる制度がなければ、民主主義という極めてデリケートな政治体制は簡単に腐敗するだろう。
新しい選挙の仕組みが本当に必要なのである。
マスコミ評論家たちは、民衆の政治家不信をテコにして、こんな無能で自分の利益ばかり追求する政治家はいらない、政治家の数を減らせと叫ぶ。しかし本当のことを言えば、政治家の数を減らすより、良質な政治家を増やすことを考えた方がずっと建設的だ。
評論家は訳知り顔に政治のコストが高いと指摘するが、本質的にはそこが問題ではないはずだ。本質的には政治家の質を高めることこそが課題なのである。もちろん政治家の数を単純に減らせば質が高まるなどということにはならない。
もちろん政治家が一般の生活者よりはるかに高い報酬を得られるというのは問題だが、だからと言って別にコストが安ければ何でもよいわけではない。そこのところを間違えないようにするべきだ。
一番の問題は、有権者がわざわざ「ろくでなし」を選ぶところにこそある。
なぜなのか? もちろんそれは簡単に騙されるからだ。本心でない、やる気もやり様もないことを、いかにもやります、やれますと言う候補者に騙されるのである。しかしそれにしても、なぜ騙されるか?
それは「騙されたいから」である。
有権者は自分にとって一番都合の良いことを求める。そして候補者は、有権者が喜びそうな耳当たりの良い甘い言葉を言い立てる。本当は嘘かもしれない。しかし有権者はその言葉に抗うことが出来ない。
つまり有権者が政治の問題を、ただ自分の利益の問題として考えるから、社会全体の問題として、人類の歴史の問題として考えないから、どんなに嘘くさいことであっても、自分にとって都合の良い甘い言葉にすがり、騙されてしまうのである。
日本において普通選挙が始まって90年、民主主義選挙が始まって70年が経とうとしている。人ひとりの一生分の期間が経過した。それでもなお、なぜ未だにちゃんとした選挙が出来ないのか。このような低次元の選挙が横行しているのか。
それはそういう風に教育されているからだとも言えよう。選挙の意味を権力者はちゃんと国民に教えていない。その意味とは、一般の人々=人民が主権者だということである。
なぜ有権者が候補者から「お願い」されねばならないのか。本来なら有権者が政治家に自分の代弁をすることを命じるべきなのである。政治家は文字通り我々の代わりの代議士であるはずだ。
なぜか政治家はエライ人で、民衆はただの人ということになっている。政治家は威張って権力を欲しいままにし、庶民はただその支配に従うだけだ。これは民主主義ではない。そのくせ選挙の時だけは、政治家は候補者として有権者に平身低頭の「お願い」をする。いったい彼らは何を「お願い」しているのか。自分が支配者として有権者の上に君臨する権利を与えてくれるよう「お願い」しているのだろうか。それこそ悪い冗談である。
とは言え、我々はこの社会の主権者が実のところ我々ではないことに気づいている。自分は誰かに支配されているのだと、うすうす感づいているはずだ。それは絶対に民主主義ではない。自分の意志が社会の中で代弁されない民主主義などあり得ないのだから。
ここに書いたことは単純な話である。ただ民主主義の原則について書いただけだ
だがそうは言っても、このことは現実の社会では大変に難しい問題であり、多くの人が受け入れない内容である。それはなぜか。
それは自分を否定しなくてはならないからだ。現状の社会は、いくらひどい社会、不満の鬱積した社会であるとしても、それは人民=民衆=有権者が、その場その場で自分にとって一番有利、一番都合の良い方向性を求めた結果としてある。「ろくでなし」の指導者を選んでしまったのは、それがその時、自分にとって一番都合の良いことを言っていたからだ。
政治の問題を、ただ自分の利益の問題としてのみ考え、社会全体の問題、人類の歴史の問題として考えることが出来ないから、永遠に「ろくでなし」を自分の代弁者に選んでしまうのである。
それを脱するためには自己否定しなくてはならない。誰かに対して(もくしは世界全体に対して)譲歩しなくてはならない。それはつまり自分自身との闘いである。
だから、単純だけれど難しいのである。
こういう与党の思惑で、自分たちに都合の良い選挙で権力を握るというやり方を民主主義と言って良いものかどうか、釈然としない。
日本の「お手本」であるアメリカ合衆国の先般の中間選挙では露骨に共和党有利の制度が導入されていたという。前回の大統領選挙の頃から、とりわけ共和党知事の州で導入された「有権者ID法」が、民主党支持基盤である大量の「弱者」から投票権を奪ったと言われている。これはようするに写真入りの身分証明書を持たない人の投票権を認めないという法律で、たとえば自動車免許を取得できない貧困層や移民、高齢者にとって非常に不利になっているそうだ。
また、アメリカでは政治資金の上限に規制が無く、個人献金が建前であるため、出所のよく分からないカネが大量に候補者に集まってくる。そしてその多額の資金が、いわゆるネガティブキャンペーンに使われているのが実情だ。日本の選挙も相当にひどいと思うが、アメリカの選挙はそれ以上にぐちゃぐちゃらしいのだ。
これが民主主義なのだろうか。中国はあからさまに権力者優位の形式的選挙をやっているが、陰湿な金と権力によってコントロールされる選挙で、堂々と権力を握る日本や米国の選挙がそれよりどれほど公正なのか、疑問に思わざるを得ない。
真面目に投票しようと思っても、選ぶべき候補がいない。誰を選んでもたいした違いはない。確かにそうだ。それで投票率が下がる。結果的に現在の権力者に都合の良い結果となる。なんだか理不尽な話だ。
しかし、ひとつには日本の選挙制度がそういう風に出来ているのも現実である。たとえば国会議員に立候補する場合、供託金は300万必要だ。その上にポスターやビラの費用がかかる。宣伝カーや事務所を借りるとなればそれにもお金がかかる。選挙運動員は原則的に無償ボランティアでなくてはならないが、それを集めるのも非常に大変だ。だが、実際の政治家が使っているカネはそんなものではない。こんな風に表に出る以外にかかるカネが莫大なのである。
ただ表向きの、合法的にかかるカネだけでも大変なものだ。そのへんの若者がこの社会を変えようと思って選挙に出ようとしても、供託金とポスター、ビラの代金すら捻出するのは容易ではない。
もちろん供託金制度にそれなりの根拠があることはわかるけれど、カネと組織ではなく、熱意と能力によって政治家が選ばれる制度がなければ、民主主義という極めてデリケートな政治体制は簡単に腐敗するだろう。
新しい選挙の仕組みが本当に必要なのである。
マスコミ評論家たちは、民衆の政治家不信をテコにして、こんな無能で自分の利益ばかり追求する政治家はいらない、政治家の数を減らせと叫ぶ。しかし本当のことを言えば、政治家の数を減らすより、良質な政治家を増やすことを考えた方がずっと建設的だ。
評論家は訳知り顔に政治のコストが高いと指摘するが、本質的にはそこが問題ではないはずだ。本質的には政治家の質を高めることこそが課題なのである。もちろん政治家の数を単純に減らせば質が高まるなどということにはならない。
もちろん政治家が一般の生活者よりはるかに高い報酬を得られるというのは問題だが、だからと言って別にコストが安ければ何でもよいわけではない。そこのところを間違えないようにするべきだ。
一番の問題は、有権者がわざわざ「ろくでなし」を選ぶところにこそある。
なぜなのか? もちろんそれは簡単に騙されるからだ。本心でない、やる気もやり様もないことを、いかにもやります、やれますと言う候補者に騙されるのである。しかしそれにしても、なぜ騙されるか?
それは「騙されたいから」である。
有権者は自分にとって一番都合の良いことを求める。そして候補者は、有権者が喜びそうな耳当たりの良い甘い言葉を言い立てる。本当は嘘かもしれない。しかし有権者はその言葉に抗うことが出来ない。
つまり有権者が政治の問題を、ただ自分の利益の問題として考えるから、社会全体の問題として、人類の歴史の問題として考えないから、どんなに嘘くさいことであっても、自分にとって都合の良い甘い言葉にすがり、騙されてしまうのである。
日本において普通選挙が始まって90年、民主主義選挙が始まって70年が経とうとしている。人ひとりの一生分の期間が経過した。それでもなお、なぜ未だにちゃんとした選挙が出来ないのか。このような低次元の選挙が横行しているのか。
それはそういう風に教育されているからだとも言えよう。選挙の意味を権力者はちゃんと国民に教えていない。その意味とは、一般の人々=人民が主権者だということである。
なぜ有権者が候補者から「お願い」されねばならないのか。本来なら有権者が政治家に自分の代弁をすることを命じるべきなのである。政治家は文字通り我々の代わりの代議士であるはずだ。
なぜか政治家はエライ人で、民衆はただの人ということになっている。政治家は威張って権力を欲しいままにし、庶民はただその支配に従うだけだ。これは民主主義ではない。そのくせ選挙の時だけは、政治家は候補者として有権者に平身低頭の「お願い」をする。いったい彼らは何を「お願い」しているのか。自分が支配者として有権者の上に君臨する権利を与えてくれるよう「お願い」しているのだろうか。それこそ悪い冗談である。
とは言え、我々はこの社会の主権者が実のところ我々ではないことに気づいている。自分は誰かに支配されているのだと、うすうす感づいているはずだ。それは絶対に民主主義ではない。自分の意志が社会の中で代弁されない民主主義などあり得ないのだから。
ここに書いたことは単純な話である。ただ民主主義の原則について書いただけだ
だがそうは言っても、このことは現実の社会では大変に難しい問題であり、多くの人が受け入れない内容である。それはなぜか。
それは自分を否定しなくてはならないからだ。現状の社会は、いくらひどい社会、不満の鬱積した社会であるとしても、それは人民=民衆=有権者が、その場その場で自分にとって一番有利、一番都合の良い方向性を求めた結果としてある。「ろくでなし」の指導者を選んでしまったのは、それがその時、自分にとって一番都合の良いことを言っていたからだ。
政治の問題を、ただ自分の利益の問題としてのみ考え、社会全体の問題、人類の歴史の問題として考えることが出来ないから、永遠に「ろくでなし」を自分の代弁者に選んでしまうのである。
それを脱するためには自己否定しなくてはならない。誰かに対して(もくしは世界全体に対して)譲歩しなくてはならない。それはつまり自分自身との闘いである。
だから、単純だけれど難しいのである。