あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

国家と国民、非難と責任

2014年11月23日 15時54分04秒 | Weblog
 11月18日、西エルサレムのシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)を武装したパレスチナ人数名が襲撃し、礼拝に来ていた4人が死亡、8人が負傷したという。アムネスティは「過去6年間にエルサレムで起きた民間人襲撃の中で最悪」として、この襲撃を非難している。
 アムネスティによれば、この数ヶ月、イスラエルではパレスチナ人によるイスラエル人襲撃が多発しているとのことだ。一方でイスラエル人によるパレスチナ人への攻撃も国際法に違反した形で続けられており、アムネスティは双方に対して自制を求めている。

 当ブログでは繰り返し無差別テロを批判してきた。なんであれ非武装の一般人を狙ったテロ攻撃は恐怖政治の行使であり、許されない。
 もちろんパレスチナ人の怒りは理解できる。やられたらやりかえせ、目には目をという等価報復の考え方は分かりやすい。しかし、それでも恐怖によって誰かの行動をコントロールしようとするやり方は、人間文化の腐敗しか招かない。やるべきではないのである。

 おそらく一般化して言えば、問題は自分と他者と国家権力の関係性に対する省察が足りないところにある。
 自分もそして相手側も、まるでその国の国民が国家権力とイコールであるかのように考えてしまう。しかしそれは全くの間違いだ。9.11アメリカ同時多発テロで多数の人々が犠牲になったが、その全ての人がアメリカの侵略行為の加担者だったのか。中にはアメリカの対外戦略に反対していた人、パレスチナやイスラムに対する味方であった人もいたかもしれない。そういう人まで巻き込んで殺しても良いと言う考え方は、カルト的であり、野蛮である。

 これは決してよその国の問題ではない。日本や周辺諸国でもいつも起こっている問題だ。北朝鮮や中国、韓国と日本の間の拉致問題や歴史問題では、しばしば国家の犯罪と国民の責任がごっちゃにされる。
 それは批判する側だけの問題ではなく、批判される側も全く同じ混乱、混同を犯しているから、いつまでたっても本質が整理されないのだ。

 まずもって国家権力に対する非難をその国民への非難にしてはならない。そして非難される国の国民も、それを自分への非難として捉えるのは間違っている。従軍慰安婦問題は、戦前の日本政府や日本軍が批判されているのであって、現代の日本国民が直接的に批判されているわけではないのだ。そのことを冷静に受け止めなければならない。
 批判する側もされる側も国家と国民を安易に同一視してはならない。ナショナリズムを克服する基本はそこにこそある。

 国民と国家は一心同体ではない。しかしここが肝心なところだが、責任は存在する。国家の犯罪は国民の犯罪ではないが、犯罪を犯す国家を見逃すのは国民の責任である。ここの関係がいつも逆転してしまうのだ。
 国家が攻撃されると自分と同一視して怒ったりするのに、自分の国家に対する不満は政治家の責任にしてしまう。それは全く逆である。まずもって国家に瑕疵があるなら、それは(少なくとも民主主義国家を標榜するなら)主権者たる国民の責任だ。
 別にあなたが他国を侵略したわけではない。だからその非難を直接自分のこととして感じる必要はない。しかし侵略を肯定するような政治家を国の代表として置いていることは、あなた自身の責任だ。
 このことを理性的にしっかり整理しておくべきである。