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あなたから一番遠いブログ

自分が生きている世界に違和感を感じている。誰にも言えない本音を、世界の片隅になすりつけるように書きつけよう。

安楽死のニュースをもう少し考えてみよう2

2014年11月06日 21時52分17秒 | Weblog
 先日、アメリカの若い女性が安楽死を選択した問題について書いた。(安楽死のニュースをもう少し考えてみよう
 この「事件」が日本でセンセーショナルに報道された翌日、今度は脳腫瘍で余命2ヶ月と言われている少女が、大学バスケットボールの大会に出場したというニュースが大々的に取り上げられた。このことを批判する人はいない。それは当然だとしても、なぜ彼女が賞賛されるのか、ちゃんと考えている人はどれだけいるのだろうか。
 この少女は高校時代にバスケットボールの才能を認められて大学にスカウトされた。しかしその直後、脳腫瘍が発見され、しかも治療が不可能であることが分かった。それでも少女は大学でバスケットボールを続け、現在では体に麻痺が出てきている状態だが、両親はどうしても大会に出してやりたいと運動し、大会主催者が特別に開催日を早めて、彼女は今シーズン最初の試合に出場し、最初のゴールを決めた選手となった。
 彼女は「自分はあきらめない」「自分が死んだ後も治療法が進歩し、多くの人が救われることを望む」とメッセージしている。彼女のメッセージはひとつの運動として広がっており、今回の大会もそうした運動と連携しているようだ。

 賞賛されるべき人である。しかしその意味を理解しないで、ただ「良いこと」にしてしまうのはあまりにも軽薄だ。
 彼女が賞賛されるのは、様々な選択が出来る権利を持ちながら、あえて「あきらめない」、バスケを続けるという選択をしたからである。その前提に、自分の命に対する自己決定権が存在するからこそ、彼女の行為は尊いのである。またアメリカ社会もそうした個人の決断に対してそれを最大限尊重し、実現できるようにサポートするよう機能した。そのことを忘れてしまったら、この決断をただのメロドラマとして消費することにしかならない。

 ジャーナリストの岩上安身は、「安楽死」「尊厳死」について強く批判をしている。(【岩上安身のツイ録】安楽死をめぐる日本の政治家の思惑~「死の自己決定権」の美名のもと、寝たきり老人殺しが進みかねない
 岩上氏の主張は、尊厳死と言ってもそれは殺人である、また社会福祉予算、医療費の削減を目論む政治家の中には、それを悪用しようとしている者がいるというものである。
 ぼくもこの文章中に出てくるテレビ番組を見ていたが、岩上氏が一番言っていたのは自分の父親の死をめぐる葛藤のこと、決断を家族に迫る医療側への批判、その後の家族間に問題が発生する可能性、そして医者を守るための尊厳死法案は認められないということであった。

 しかしそれはやはり少し違う。
 当日の番組に出演した日本尊厳死協会の副理事長である鈴木裕也氏は、現状においても最終的には尊厳死を認めた医師も裁判では無罪になるのだが、法律が存在しないために検察は起訴せざるを得ない。そうすると裁判の間、その医師は様々な制約を受けることになり、またその後にも支障が出てくるので大変な負担になる、それを回避するために尊厳死法が必要だ、そうでないと尊厳死を実行する医師の数が増えず、尊厳死を求める人や家族にとっても不利益であるという主張だった。ちなみに日本尊厳死協会の顧問には、この番組の他の曜日のレギュラーである作家の吉永みち子も名を連ねている。
 この主張自体には十分説得力があると思う。岩上氏の当日の発言を聞く限りでは、むしろ延命治療の打ち切りの決定の責任を回避し、医師にすべて押しつけたいという風にも聞こえた。前掲の記事の中でも岩上氏は「結局、家族が生死の境を決めなくてはならない。その心の負担の大きさは並大抵のものではない」「医師からの「延命治療をやめていいですね?」という問いに、「わかりました」と承諾した負い目は、そう簡単に消えない」と書いている。

 ぼくも父の延命治療をしない決断をした経験がある。その時はある程度はやい段階から医師が確認してきたので、最初から延命装置を付けないで済んだ分、精神的な負担は少なかったかもしれない。家族と相談する時間もあった。また両親の死生観について、若い頃からよく聞いていたことも参考になった。
 ただ、やはり誰かが誰かの死の決定をしなくてはならないのであれば、それはやはり医師でも国家や法律でもなく、本人か、それが出来なければ家族がその責任を負うべきだと思う。

 もちろん岩上氏が指摘するような、権力者による安楽死・尊厳死の悪用は論外である。また岩上氏は番組上では「尊厳死」がある一方「見苦しい死」があるということになる、死をそのように価値づけることによって、無言の圧力として人に死の選択を迫ることの問題性にも触れていた。それもまた無視できない問題だと思う。
 ぼくは冒頭に紹介した記事の中で、死を司る者を、神、自分、第三者と分類したが、実はそんなに単純に分けられるものでもない。他者に強要された自死というものも多いのだ。この場合、外形的には自殺だが、事実上は他殺である。それはたとえば太平洋戦争末期の玉砕指令があるし、今日はこんなネット記事(英会話講師自殺:持ち帰り残業で労災認定 金沢労基署)もあった。

 しかしそのことと、自分の命に対する自己決定権の容認とは別問題である。たとえば学習塾やスポーツクラブに子供を通わせるとき、それが親の強制であったり、格差の問題が起きたりなど様々な問題がある。しかしそれだからと言って、即座に学習塾やスポーツクラブ自体を否定するのは、いささか乱暴であろう。問題は問題として考えるべきだ。

 死への強制や、作られた死への誘惑というのは社会の問題である。もっとはっきり言えば社会制度、社会構造、社会のシステムの問題である。
 その構造を暴き出し、厳しく批判することは大変重要だ。そしてその仕事を担うのがジャーナリズムであろう。
 社会が健全であったとしたら、それでも死への自己決定権がどのような問題になるのかということも、考えてみる必要がある。

 見落としてはならないのは、結局のところ、いくら自殺を批判したところで最終的に止めることは出来ないということだ。それはある意味で究極の人間の自分自身への支配権の行使である。ただ死の床にある人にはその自分への支配権を行使できない。そのことをどう考えるかである。
 ぼくは別に自殺を推奨しているわけではない。しかし良くも悪くも近代は自己決定の世界なのだ。誰かに(それは神も含めて)何かをゆだねるのかどうか、それとも徹底的に自己決定にこだわるのか。そのことはどうしても考えざるを得ないのである。


違和感

2014年11月05日 21時08分49秒 | Weblog
 今日のNHKのお昼のニュースには驚いた。15分の全国ニュースのうち11分がアメリカ合衆国の中間選挙の途中経過だっだ。全米各地からの中継を次々つなげ、その後も15分間ずっと画面下に速報結果を表示し続けた。
 いったいどこの国の放送局なのか。本当に日本はアメリカの属国になってしまったのか。国内に対しては強面のナショナリスティックな発言を繰り返す会長の籾井サンや経営委員の百田サンはこれで良いのか? ポチだからこれで当然なのか。

 国会だって会期中だ。急激な円安、株高で日本経済に大きな影響が起きているのではないか? もっと優先すべきニュースがあるのではないのか。
 その国会では安倍総理が答弁拒否をした。七年前の週刊誌記事を持ち出されて、脱税疑惑について問われたからだ。ただの週刊誌記事、しかもずっと前の話なのに激高して答弁を拒否するとは、まあみっともない。「なかが痛くなってやめた」あの子供じみた本性は変わっていない。
 というより、実はこの週刊誌の報じた疑惑について安倍氏はちゃんと回答、釈明していない。つまり時効は成立しているとしても問題は本当は終わっていないのだ。普通に考えれば、ここで激高するというのは、痛い腹を探られてしまったからだと推察するしかない。

 安倍氏は「国民はもうこんなことに飽き飽きしている」と発言したそうだが、まったくである。しかしそれは大臣が国会で追及されるからではない。いつまでたっても政治家とカネの問題が繰り返し起こることに対してである。
 安倍氏は「自分を犯罪者扱いした」と怒ったが、相応の権威を持つマスコミである朝日新聞のことを「国益を害した」とか「安倍政権を倒すことを社是としている」などと度を超して「犯人」扱いしながら、よくそんなことを言えたものだと思う。
 政治家である以上、誰かを批判するのは当然だが、それなら自分のことも答弁拒否などせず、ちゃんと釈明するのが当然だろう。それが出来ない安倍氏はやはりどこまでいってもだだっ子の「お子ちゃま」でしかない。

 そんな中、京都大学構内に潜入してスパイ活動をしていた公安刑事が摘発されて、吊し上げられたうえ退去させられた。また共産党の赤旗祭りの会場では、参加していたアーチストのパフォーマンスの中で、ヒトラーに見立てた安倍総理の写真を貼った太鼓を叩いたとしてネットが炎上した。
 昔なら別によくある話だったが、世の中の右傾化と「空気を読む」社会化が進む中で、ここしばらくこういう騒ぎは少なかった。しかしどうやら少し雰囲気が変わってきたような気がする。いよいよ人々の怒りが抑えきれなくなっているのではないだろうか。
 何かが違う。自分たちの生きてきた社会の価値観とは違う価値観が、世の中を覆うように垂れ込めてきた。違和感を口にしても完全に無視されてしまう。得体の知れない重苦しさに締め付けられる。そんな鬱々とした気分がついに破裂し始めたのではないのか。

 それはある意味でアラブ社会のジャスミン革命のようなものかもしれない。絶対的・圧倒的・強圧的な権力に対して人々の怒りがいっぺんに吹き出した、なんとなくだが今の日本のあちこちに、あんな雰囲気を感じてしまう。
 しかしそうであるなら、人々の怒りは暴走するしかない。しっかりとした中心軸がないまま、ただ現状に対する怒りが爆発するだけだからだ。いずれにしても安倍政権は、安倍氏の思惑に沿うものかどうかはともかく、パンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。

安楽死のニュースをもう少し考えてみよう

2014年11月04日 09時56分51秒 | Weblog
 アメリカの女性がインターネットで宣言してから安楽死した。日本でトップニュースになるくらい大騒動になっている。人の死くらい静かに見守ってやればいいのにと思うのだが。そこには何か人の心を揺さぶるものがあるのだろう。ただ実はもっと暗くて深い「何者か」の思惑も反映しているかもしれない。

 安楽死と尊厳死は必ずしも同じではないが、先進国の中で尊厳死について法制化されていないのは日本くらいだという主張がある。一方で国際社会が死刑廃止の原則で動いている中、日本は頑なに死刑を存続しようとしている。もうひとつ、日本は脳死移植医療の発展拡充を狙ってもうずいぶん以前から脳死を法制化し、今では子供にまでその範囲を広げている。
 人の死とは何か、ということについては、以前に少しだけ書いたことがあるが(鎮魂の月に「死」を考える)、今回は「死を司る者」という観点から考えてみたい。

 死を司る者には三者いると思う。神と自身と第三者だ。
 はるか昔から人は神が死を司ると考えてきた。詳しくはないがたいていの宗教では自殺も他殺も禁じていると思う。つまり人が勝手に人の死をもてあそんではいけないということだ。アメリカで今回の安楽死に反対する人々も、キリスト教の戒律に反するからという理由が大きいらしい。
 自分自身が死を司るということは、もちろん今回のようなケースを含めて広い意味での「自殺」の肯定である。そして第三者が司る死とは「殺人」であり、そこには犯罪的なものだけではなく戦争や死刑など公的な殺人も含まれる。
 もちろん簡単に単純化するのは難しいが、それをあえて単純化してみると、神が優先されるのは古代的思想であり、個人を優先するのは近代的思想が背景にあると考えられる。それでは第三者の優先とは何か。封建主義、もしくは近代国家主義ということになろう。

 こういう視点から見てみると、アメリカの死の制度はそうした各者の思惑の「いいとこどり」である。それぞれの力関係の中で、それぞれが一番自分に都合の良いところを取り合っているように見える。
 日本はどうかといえば、民衆の中にある広い思想的背景は「日本宗教」とも呼べる古来から続く自然宗教的死生観、つまり自然にゆだねるという考え方であるように思われるが、こと制度上から見ると、ほぼ完全に死を第三者によって支配させようとするあり方だ。

 現代の日本人はおそらく死について思うところはあると思うが、それを制度として考えることは不得意なのだろう。それは論理的に思考するべきことであり、そのためには論理の基準点としての自分自身の思想を見定めなくてはならないからかもしれない。
 欧米人はその点、たとえばキリスト教というようなはっきりした原点が存在する。それに沿って行くにしても反発するにしても、中心点がはっきりしているからそのパースペクティブが取りやすく、論理化しやすい。日本人も実は「日本宗教」を根底に持っているのだが、それは明文化されたものではないので、そこから論理を広げることが難しく、結果的に外側から入り込んだ文章化された「思想」をついつい受け入れてしまうのだ。
 それは古くからの朝鮮や中国文化の取り入れや近代における西洋文化の取り入れとして表れ、それは明治維新におけるキリスト教と絶対王政を国家神道・皇国史観・天皇制としての密輸入する背景ともなった。

 死刑は保持しながら、尊厳死は認めず、しかし脳死は合法化するという日本における死の制度は、はたして自然に生まれてきたのか。それは本当にあなたの考え方に沿っているのか。誰かにとって都合の良い制度を気づかぬうちに押しつけられているではないのか。
 今回のニュースをただのエピソードに終わらせるのではなく、自分の「常識」がどこから来ているのか、そうした思想的な訓練、演習として、もう一段深く考えてみてもよいのではないだろうか。

ヘタレの卑怯者に負けないために

2014年11月01日 21時51分19秒 | Weblog
 朝日新聞のいわゆる「従軍慰安婦報道」に関わったとされる元記者が非常勤講師を務めている北海道の大学に、今度は白い粉の入った脅迫状ととれる封書が届いたという。そこには言論の自由を揶揄するような文言が書かれていたようだが、まさに言論の自由の封殺を目論む許し難い暴挙である。

 そもそも、なぜ郵便なのか。そんなに気にくわないのなら堂々と自分から大学に乗り込み、学長でも襲ったらどうなのか。この犯人は、最低の人間と卑下される無差別通り魔の犯人よりもさらに勇気がない、まさに人間以下のクズである。
 ぼくは別に三島由紀夫を美化するつもりはないが、三島や森田必勝、野村秋介などは、自分の意志を伝えるために命までかけた。もっと言うなら、ネトウヨであっても在特会のように顔と名前をさらし体を張って活動している連中もいる。それなのになんだ封書って? しかも白い粉は無毒のなんでもない粉だったそうだ。これなら万一捕まってもたいした罪にならないというヘタレの計算か?

 ようするに言葉では勝てないと思っているのだ。日本で生まれて育った者なら本来ならまず言論で闘おうと思うだろう。現代の日本では基本的に言論の自由がある。はじめから暴力を使わざるを得ないのは言論の自由がない状況だからだ。
 もちろんそうは言っても、確かに世の中はいくら言葉で言っても話にならないことも多い。だから時に実力行使することもあるだろう。しかしそれは脅迫になってはいけない。なぜならそれは恐怖政治であり、人間を精神的に痛めつけ拘束する行為だからだ。そんなことに人々が最終的に共感するわけがない。その意味で新左翼運動の実力闘争はいつかただのテロリズムに堕してしまい、やがて零落した。
 香港の学生たちも、香港政府、中国政府にいくら言葉を発しても通じない。だからデモと座り込みを行うしかなかった。しかし彼らはまずもって自分の体をそこに投じているし、さらに言葉も放棄していない。
 もちろん、そんな人々と今回の犯人は比べることすらけがらわしい。自分を危険にさらさず、安全なところから人を脅かそうなど、本当にろくでなし以外の何者でもない。

 似たような輩は当ブログにもしばしば現れる。当ブログは何の宣伝もしていない。ランキングサイトなどにも登録していない。基本的に読むことを強要・誘導するような「仕掛け」は何もしていないつもりだ。読みに来てくれる人はとても少ない。それでもわざわざこのサイトを探し出してきて、批判めいたコメントを書き込み、そのまま書き捨てて消えてしまう輩がいる。
 わざわざ来てコメントを書くくらいなら、論争くらいするべきだろう。もちろんそういう奇特な方もいらっしゃる。そのように議論しようとする方なら、ぼくは右翼であっても敬意を感じる。
 ただ、偶然このブログを見つけて、しかもわざわざ批判コメントを書くというのは、何かしらぼくの記事にその人の心の琴線に触れるところがあったのだろう。もしくは死ぬほど暇なのか。出来れば前者であって欲しいが。それはそれでブログを書いている意味があるとも言えるけれど。

 批判や非難を書くだけ書いてそれきりになる輩は、根性もないし真剣さもない。そういう奴にかぎってハンドルネームさえ書くことが出来ない。いったいどこまでヘタレなのか。そんな奴らに「愛国心」とか言われたら、三島も野村もうかばれまい。

 結局この北海道の大学の講師はクビになりそうだ。大学も学生を守らなくてはならず、難しいところだと思うが、思想と言論の自由の牙城であるべき大学がこのような卑劣な攻撃に負けてしまって良いのかとも思う。
 卑劣、卑怯な上にヘタレの根性無しに、真面目で真剣な言論・思想が負けてしまうことは、どうしても道理に反するとしか思えない。不条理としか思えない。それは誰かひとりが頑張ってもどうしようもないことだ。普通のただの人達がほんの少しだけ不条理に抵抗する、そうした小さな小さな「闘い」が重なることによってしか、勝つことは出来ないのだと思う。