「どぶ川の都・パリ」での五輪、夏の風物詩「熱闘甲子園」も滞りなく終了。
とは云え、未だまだ暑い日々は続きそうな雰囲気漂う今日この頃・・・・・。
それでは前回からの続きです。
清王朝は英に「華夷思想」を具現化対応しますが、
英側はしっかり清の内情を知り得ます。
ここで、英は驚きの策に打って出ます。植民地印生産の麻薬の一種・阿片を清に密輸。
この結果、英は銀を回収することに成功。
清は銀の消失と阿片中毒患者の蔓延で大きな打撃を受ける事に。
清朝は英側密売人、及び、清阿片密貿易秘密結社から、阿片を没収、焼却に動きます。
七つの海を制する英はこの状況を見過ごしません。
英は「貿易を守る」と云う口実で艦隊を派遣(1840年)。
英はこの戦争に勝利、清との自由貿易・香港島・賠償金を獲得(1842年南京条約)。
翌1843年追加条約として治外法権・関税自主権放棄など不平等条約を押しつけます。
又、「互市(ゴシ)=私貿易管理制度→朝貢貿易以外の交易認可、日本・西洋諸国用」の瓦解。
それ迄、「互市」では西洋諸国の交易可の港は「広州」一つだけで現地取引のみ。
貿易港は新たに厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海が開港される事に(英人居住権も)。
英の帝国主義と資本主義経済制度はアジア随一を誇った清を揺るがすのです。
ところが、それ迄の天下覇者・清王朝はこの状況・世界認識観を把握・掌握できず
「攘夷」から「撫夷(えびすをなだめ・なつかせる)」思想に転換して矛を収める顛末。
やがて、敗戦清王朝は米・仏とも英と同じ条約を結ばされ屈する羽目に。
一方、英はこれだけで満足できず次なる秘策を捻り出します。
たまたま、清役人が広東沖に漂っていた不審船(アロー号)を臨検した事に
英はいちゃもんをつけ、現地駐留の艦船で広州沿岸設置砲台を破壊(1856年)。
翌年英は仏軍をも誘い本国から海軍を広東に派遣、圧倒的な軍事力で広州を占領。
一時、天津にて清軍の抵抗(1859年)で撤退、体制を立て直し再度進軍、北京占領(1860年)。
結果、英・仏に北京条約を結ばされ、香港島に隣接する九龍を獲得(英)北京駐在(英・仏)
等々、又々軍事力で清朝にとって不利で一方的な約束事を強いられたのです。
この二つの条約で南から広州+厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海+天津港が
清朝が管理する港から(出入り)自由貿易港、
及び、港湾地域一部を租界(治外法権外国人居留地区)にされてしまったのです。
更に「撫夷・互市⇒夷務(えびすのあしらい)」から「洋務」体制へ余儀なくされる事に。
*洋務・・・あくまでも華夷思想が中心なれど、西欧近代技術を取り入れる政策
この「英」の振る舞い、どう考えても、誤魔化しきれない「侵略」になりません事?
とは云え、未だまだ暑い日々は続きそうな雰囲気漂う今日この頃・・・・・。
それでは前回からの続きです。
清王朝は英に「華夷思想」を具現化対応しますが、
英側はしっかり清の内情を知り得ます。
ここで、英は驚きの策に打って出ます。植民地印生産の麻薬の一種・阿片を清に密輸。
この結果、英は銀を回収することに成功。
清は銀の消失と阿片中毒患者の蔓延で大きな打撃を受ける事に。
清朝は英側密売人、及び、清阿片密貿易秘密結社から、阿片を没収、焼却に動きます。
七つの海を制する英はこの状況を見過ごしません。
英は「貿易を守る」と云う口実で艦隊を派遣(1840年)。
英はこの戦争に勝利、清との自由貿易・香港島・賠償金を獲得(1842年南京条約)。
翌1843年追加条約として治外法権・関税自主権放棄など不平等条約を押しつけます。
又、「互市(ゴシ)=私貿易管理制度→朝貢貿易以外の交易認可、日本・西洋諸国用」の瓦解。
それ迄、「互市」では西洋諸国の交易可の港は「広州」一つだけで現地取引のみ。
貿易港は新たに厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海が開港される事に(英人居住権も)。
英の帝国主義と資本主義経済制度はアジア随一を誇った清を揺るがすのです。
ところが、それ迄の天下覇者・清王朝はこの状況・世界認識観を把握・掌握できず
「攘夷」から「撫夷(えびすをなだめ・なつかせる)」思想に転換して矛を収める顛末。
やがて、敗戦清王朝は米・仏とも英と同じ条約を結ばされ屈する羽目に。
一方、英はこれだけで満足できず次なる秘策を捻り出します。
たまたま、清役人が広東沖に漂っていた不審船(アロー号)を臨検した事に
英はいちゃもんをつけ、現地駐留の艦船で広州沿岸設置砲台を破壊(1856年)。
翌年英は仏軍をも誘い本国から海軍を広東に派遣、圧倒的な軍事力で広州を占領。
一時、天津にて清軍の抵抗(1859年)で撤退、体制を立て直し再度進軍、北京占領(1860年)。
結果、英・仏に北京条約を結ばされ、香港島に隣接する九龍を獲得(英)北京駐在(英・仏)
等々、又々軍事力で清朝にとって不利で一方的な約束事を強いられたのです。
この二つの条約で南から広州+厦門(アモイ)・福州・寧波(ニンポー)・上海+天津港が
清朝が管理する港から(出入り)自由貿易港、
及び、港湾地域一部を租界(治外法権外国人居留地区)にされてしまったのです。
更に「撫夷・互市⇒夷務(えびすのあしらい)」から「洋務」体制へ余儀なくされる事に。
*洋務・・・あくまでも華夷思想が中心なれど、西欧近代技術を取り入れる政策
この「英」の振る舞い、どう考えても、誤魔化しきれない「侵略」になりません事?