賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

今夜 息子帰省予定

2024-12-27 18:21:19 | 日記
今夜、息子が帰省してきます。

奥さんはすっかりと待ち構えてます。

夕飯の準備もしっかりと気持ちがこもってますなぁ。

掃除も一生懸命です。

やはり母親の心理というのはそうなのでしょうね。

感心します。
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不景気なのに、コストコで

2024-12-27 07:02:04 | 日記
コストコに夫婦で買い物に行っても節約にはなりませんな

激安だからと言って、大量に商品を買って冷蔵庫に詰め込んでく
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お前がやった

2024-12-27 06:59:09 | メンタル
私のこと?

何かすると失敗する。

問題を起こす。

私の生活にはほぼそういうことが付き纏う。

責任を取れ、と言われる。

自ら行動するとそうなる。

支持されてやったことでもそうなる。

結局は自己の意識がないものでもそうなる。

だから、責任者ではなくても私が問題を起こすとそうなる。

何もしなければイイと、何もしない。

そうすると、何もしなかったお前のせいだ、となってしまう。

何もしなかったお前のせいだ、責任をとれ、となる。

既に、重くのしかかる責任。

生きてるだけで責任を取らせられる。

死んでもおそらく私のせいにされる。

この世は全て自分のせいになってる。

生きることは他者から詰められることなのだろうか。

それが人生なら開き直ってしまわざるを得ない。

どうせ私のせいなんだろ。

今日の天気も、交通事故が多いのも、世界の戦争も。

全て、全てが私のせい。

ならば、開き直るしかない。

開き直るって、どういうことだ?

受ける。

私は誰の挑戦でも受ける、って言ったのは誰だっけ?

そういうことかもしれないな。

逃げない、ではなく、逃げられない。

どこまでも追いかけてくる。

例え死んでも、地獄の沙汰でも追いかけてくる。

生まれた以上は自分の好むと好まざるも無く、追いかけてくる。

ならば、追いかける方が楽なんだろうか?

仏教は無心。

ユングも似たようなことを言ってるのか?

考えるだけ無駄なのか?

そうかもしれないな。

いずれにしても逃げてても始まらない。

でも、いずれは終わる。

終わるまで責任を取らせられる。

取らせられるのは好きじゃない。

嫌だと思う心と気持ちは受け身では出てこない。

自分の意志だ。

意志は肉体から発生する、と養老先生言っていた。

とにかく動け。

自分の身体が全てだと言っていた。

身体から意識が生まれる。

責任とはな何?

そもそもそういうモノは存在するのか?

存在してるのか?

騙されてるんじゃないのか?

そうかもしれない。

そもそも責任などというのは人を扱うための造語であり、本来存在しない。

他人に対する攻撃用語。

想像の副産物でしかない。

わしゃあ知らん。

その辺で片付けてても自分には関係ない。

関係あるのは他人だから。

私の問題ではない。

責任を取れ!

知ったことか!

今日もグルグル魔法神だな。

頭の中は空っぽなのにねぇ。
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受け身は責任転嫁行為

2024-12-27 06:36:25 | メンタル
命の置き場はどこか?

命を受け入れることをしてるか?

最近の印象として、受け身の日本人的な意識がある。

それは責任転嫁したいという意識があるから。

「私が決めたことではない」

そういうところからの考え方。

しかし、行動したものは責任を避けられない。

イスラムの人が「神によって支持されたのだ。私の意思ではない」と、責任から逃れようとした犯罪行為の言い訳を新聞で読んだことがあった。

同類かもしれない。

決めなければ、或いは決定権が無ければ「私は責任者ではない」と言える。

だから、決定権を拒否する。

もしそこに「自己の人生」或いは「自己の命」を置いたらどうか?

それでも、決定権を放棄するか?

最近の日本人はそれでも尚受け身で居ようとしてる気がする。

ここの国はあなたの国ですよ。

それでもそこに自分の意志を置こうとしない。

それを一言で言うと「無責任」と言う。

受け身な日本人的意識。

幼児、小児、まるであかごだな。

生きることを放棄してる。

この国から若者が居なくなっているという錯覚は実は錯覚ではない気がする。

拒否。

それは存在拒否なのだろう。

受け身もそこまで行くとまるで死人だ。

老人の国というより既に存在を拒否したモノの国だ。

ではどうしたらイイ?

戦うしかない。

ただ生きるために。
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受け身なのは安心感のためか

2024-12-27 06:19:09 | メンタル
受け身的な心理を持つ者である。
何者かに行動を決められる。
そういう受け身でいられることになぜか安心感を持つ。
安心する。
押し付けられる。
何かに。
押し付けられたもの。
それは、宗教的な何か。
あるいは、それは、ただの作業。
あるいは、強制的に押し付けられた支配者からの労働。
あるいは、ただの動物的な行動様式。

しなければならないと言うことをやっていると言う安心感がある。
しなければならないことというのは、自分で自由に決めたことからくる身勝手な印象ではなく、他者から合法的に認められた何か。
だから、許されるという。
だから認められるという。

自分以外の何かに対する依存性から来るものかもしれない。
しかし、それで良いのだと言う安心感が存在する。
例え押しつけられたものだとしても安心できる。
これでいいんだと言う安心感。
しかして、窮屈な心は残る。
それに対して文句を言ったとしても、深層心理の中では納得できている。

逆にやりたいことができたとしても、他者から認められなければ非常に大きなストレスとなる。
世の中から認められない。
往々にして自由と言うのは、そういうストレスとともに存在する。
抑制とか、抑圧とかがあっても、そこになんだかの安心感が存在する。
仕方がなかった、と。
そういう言葉は、安心感とともに歩み寄ってくる。

しかし、そこに精神的な隙ができる。
そこに付け入るのが悪党だ。
それを詐欺という場合もある。
それは絶対に回避しなければならない。

思考の中心が、受け身の思考である人は抑制を持った生き方の方が楽であろう。
アメリカのドナルドトランプのように、自己決定欲を強く持った人間は自由で身勝手な方が快楽を得られるのかもしれない。
しかしながら、それは個人個人によって違いがあるようだ。

自分自身を考えると、受動的な精神的安心感を求めようとする。
したがって、支配する側ではなく、支配される側の生き方の方が楽なのだろう。
純粋な日本人と言う印象もある。
ただし、心の中はそうであっても、実際の行動は食い違いが存在している。
人に言われた通りにやっている。
ところが、自分ではそのつもりなのに、客観的に他人から見ると全く言うことを聞かないと言う印象を与えているようだ。

それはそれで生きると言うテクニックの問題かもしれない。
自由奔放に生きていても、他人から従順な人間であると認識される人もいる。
やはり生き方の会得、そのための勉強はきっと重要なのだろう。

生き方の勉強とは宗教なのか。
たぶん少し違うと思う。

多くの場合必要なのは、コミュニケーションの習得だろうと思う。
人と人とのコミュニケーションの取り合い方によって自己満足感は高くなるようだ。
自己満足感が高いと言う事は、結果として安心できると言うことになるのか。
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