線路の上は本来誰も横切らない
だから電車は安心して突っ走れる
往々にして、人間というものが、絡むと不確定要素が増える
道路を車で走っていると、犬や猫やたまに子供も飛び出してくる
ややもすると、乱暴な大人も飛び出してくる
自転車やバイクも飛び出してくる
同じように走っている車が突然に曲がったりする
不確定要素が多い
だから、道路の上では、交通ルールというものが出来上がる
交通ルールがないと困る
そしてそれに従って、歩行者や自転車や車が通行しないと困る
ところが、交通ルールがあっても、誰も通らないような山の中では、自然に従って、危なくないと思えるところは、交通ルール通りに走らないケースがある
その場合、感覚優位になる
つまり、誰も通らないと言う感覚がそこに出てくる
誰も通らないんだから、交通ルールもへったくれもない
「それでも交通ルールをきちんと守る」と言うことにどういう意味があるのか
本来修正されなければならない感覚優位の自然的なものを無視して放置されているから、無意味な交通ルールが存在するのだろう
したがって、結論は本来は感覚優位に従って、本当に誰も通らないのであれば、そこの信号を止まる必要は無い
ところが、街中ではそうはいかない
怖くてしょうがないから、交通ルールがあったとしても、それ以上に安全運転をする
歩行者のほうもあまりに危険ならば、感覚的に危ないと思ったら、そこを通らない
どんなに危険でも、交通ルール通りだからと言って、車の前に飛び出すと
立ち死んでしまう
電車の話に戻る
電車は絶対に人が通らないと言うルールになっているし、まず通らないな
ところが電車だから良いものの、そこを「電車は一般的な人間の感覚で考える」とすると、いつ誰か線路に飛び出してくるかわからないと言う疑心暗鬼を持つだろう
ここに感情が出てくる
怖いと言う感情である
電車が人の感情を持ったのと同じである
何度も言うが、
もしかして「人が飛び出してきたら怖い」と言う感情を電車が持った場合、あの超高速で走っている電車は走ることができなくなる
なぜなら不安で不安でしょうがないから
絶対に人が飛び出してこない
自転車やバイクも飛び出してこないと言う、そういう絶対条件を信じきっているからだ
そこに信じると言うのは、肉体の本能が持つ感覚だからであろう
感覚が良いなら、人の姿が見えたら、電車でも止まる
ところが、感情優位で動いていたら「人はいない」それが「正しい」と言うそういう意識にたどり着く
正しいか正しくないかでは不自然になる
自然は感覚優位である
あるべきものがある
ないべきものはない
突然に存在するものは突然に出てくる
消えるものが消えゆく
あるものはある
ないものはない
電車だから線路の上を走れる
人が飛び出してこないと言うルールは、人が決めたルールである
人が決めたルールは人によって破られる
人の感情はそういう部分を支配する
だから、あるはずがないはずの線路の上に、人が飛び出す
もっと突き詰めて言えば、電車ですら信用できない
でも、そこに不安がある人間の感情を入れてしまうと、電車は走れなくなると言うことなのだ
怖くてしょうがない
それが、人の感情の世界だ
感覚の世界ではない
言いたいことがなかなか解りづらいと思うが、、