賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

不適切な時代を過ごしたオジイが許される時代は終わった

2025-01-26 17:14:08 | メンタル
昔の世間はいい加減な暮らしでよかった。
しかし、今はみんな同じ目線で生きねばならない。

平等
公平
みんなが同じ幸せに暮らす

ならばみんな同じなら優遇制度もオカシイじゃあないか?
あの人は特別はオカシイ
大統領の特別警護もオカシイ
みんな同じ顔でないとオカシイ
そう感じるのだが。

そもそも同じであるわけがない。
あなたとわたし、で、ほら、すでに違う。
違うならみんな同じはあり得ない。

平等とは?
何に関して?という。
しかし、そこも人によってこだわりが違う。
だから、あれは良いけどこれはダメ、が発生する。

あれとこれ。
ほら、すでにあれとこれとは違う。
だから同じではない。

平等というけれど、そもそも何に対して平等か、で違う。
そこを意識すると、すでに無理難題になる。

だけれども、今の時代はそれで良い時代ではない。
今の時代がかつての時代とは違う。
そこが違う。
昔のオジイが生き易い時代は終わり、今のオジイは生きにくい。
それでもそういう時代で育った今のオジイは今の時代を昔の感覚で生きねばならない。
生活方法は変わっても、人の感覚はなかなか変えられない。
だから、そこでバトンタッチをせねばならんのだろう。

人はいずれ死ぬ。
死に時がわからない。
それでも薄々解り始める。
もう感覚が違うのだ、と。
今の時代に合わせられる感覚が無い。
老害と言われる由縁もそこらあたりなのだろう。

長寿を祝う、というのは少数の見せ物的には良いかも知れない。
こぞって長寿は暮らしを妨害する可能性が高い。
適応能力が高いオジイくらいだけ残って、あとはさっさとトンズラするのが良いように思えてきてる。
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川面の岩に乗る

2025-01-26 04:39:34 | 日記

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焦りは感情から・焦りは人と比較することから

2025-01-26 04:33:45 | メンタル
車でついつい急いでしまうのは人と比較するからである。
道を走っていて馬や豚や牛がいても、これは危ないから止まらねばと思う。
けれども、前をトロトロ走っている車がいるとイライラする。
そこには人が関与するところに違いがある。
つまり他の人と比較をするからである。
他の人と比較するという事は、他の人の感情を意識するからである。
押しボタン信号を誰かが押して車を止めればならなくなった時、その時に押しボタンを押した人がお菓子を食いながらゆっくりと横断歩道を渡っていたりすると腹が立つ。
たとえ急いでいなくても、スムーズに前に進めないと言うことに感情的になり、怒りがこみ上げてくることがある。
つまりは人、他人を意識することから発生している感情だろうと思う。
それは他人の感情を察知し、比較しようとするその辺に原因がありそうな気がする。
例えば、他人が面倒なことに遭遇をして困っている人だと助けてあげたくなる。
それは自分と他人を比較して、自分の方が優位に感じるからである。
逆に、他人の方が優位に感じると、そこに怒りがこみ上げてくることがある。
焦りの感情もそういうところから来るような気がする。
車を運転しているときに、他の車がどんどん先に行ってしまっていても、その車を運転しているのが人ではなく、ただの風の流れだとか木の葉が飛んでいるとか、牛や馬が走っているとか、そういう別のものであれば まぁ感情的になる事はないと思う。
つまり、そこに人がいるからであり、その人の感情を自分が察知するからであろう。
自分の車をどんどん追い越す人がイカつくて、人相の悪い凶暴な人だったとしたら、別の感情になるような気もする。

日本には他人の気持ちを察知しろ、という社会的な風潮がある。
しかし、それは諸刃の剣である。
おそらく他人の感情を察知するというのは、少し目的とずれている気がする。
他人の希望を察知したとしても、それを感情として受け取ってしまうと、結局は自分のためにならないと思う。
他人の希望を察知するのを、そこに人ではなく、自然の脅威を察知するのと、同じような次元で捉えた方が良いような気がする。
人の感情を自分の感情で察知してはならないということになる。
人の感情から希望することを読み取り、その上で自らするべきこと、あるいはできることを考える。
そこまでのことで完結する方が良いと思う。
大自然の脅威はとても大きい。
大地震が来て、自分が身を滅ぼすようなことになったとしても、それを感情で捉える事はないと思う。
そういう場合は感情ではなく、やむを得ない身の危険や肉体的な恐怖にたどり着くと思う。
大地震が起きて、その地震に対して「このやろう!」「なんてやろうだ!」と思う事は無い。
あぁ怖い大変だ、いやだいやだ、で終わる。
感情に対して、感情で答えてはならない。
そこにあるのは、大自然と、同じく、いわゆるやむを得ない自然現象であり、成り行きでしかない。

焦りが生じたときに、そういう感覚を持つべきであろうと思うのである。
つまりは、感情ではなく、感覚で受け取ろうと言うことにつながる。
養老猛司さんが言ったように、意識優位ではなく、肉体優位が結論になる。
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感情が優先する時と感覚が優先する時

2025-01-26 04:29:48 | メンタル
感覚優先は何も考えなくて、ぼーっとしていてイライラしない。
感情優先はイライラして焦りにつながっている。

しょっちゅうイライラしている自分にとって、感情優先の時は非常に苦しく、社会的にも困難な環境になることが多い。

感覚優先の時は、世間に対しては、ほぼ無頓着で、どうでもいいことのように思える。
それは非常に過ごしやすい。

感情優先になる時というのは、どういう時なのかを分析する。
客観的にそうなっているのか、あるいは肉体的に、どうにも避けられない体の機能であるのか?
そこがポイントになると思う。

世間で言われる所の宗教に関して、あるいはメンタルトレーナーとかに言わせると、感情優先はシャットアウトできると言う。
本当にそうなのだろうか?

ただ、そういう操作が本当にできることであるならばやってみたいと思う。
しかし、感情的になる事は(アドラー心理学で言う所の怒りは)怒ろうと言う意思が決定された後で起こっているらしい。
環境や他のものから怒りの原因となるものを受けているわけではないと言う。
自分の意思で「怒ると決めている」動作が先に発生しているらしい。
そうであるならば、感情のコントロールはできるということになる。
しかしながら、「感情を動かそうと思っている」と言う現実がある。

順番としてそ動作を見る。
1、殴られる
2、怒ろうと決める
3、怒る、という感情が湧く
のだそうだ。

感情を持つことは意志なのだそうだ。
感情は意志で決める。
ならば、感覚で行動する、という意思も可能だ、という。
「嫌われる勇気」のポイントは、まず決めること。
勇気が必要なのは感情のコントロールをする。
つまり感覚優位の身体のすることになる。
身体は感覚だ。
植物も感覚を持ってる。
豊かな感情を持つのは人だけだ。
他人と自分を同一視することが感情になる。

従って、個別に生きる。
他人は他人だ、と。
他人の痛みを知れ、という社会から別行動になる。
相手の痛みは知り得ない、と。
そこに辿り着く。

悪い表現だが「他人のことなんて知ったことか」とも言えるかも知れない。
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