賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

怖くて線路を走れない電車(意味不明?)

2025-01-30 05:15:30 | エッセイ
線路の上は本来誰も横切らない
だから電車は安心して突っ走れる
往々にして、人間というものが、絡むと不確定要素が増える

道路を車で走っていると、犬や猫やたまに子供も飛び出してくる
ややもすると、乱暴な大人も飛び出してくる
自転車やバイクも飛び出してくる
同じように走っている車が突然に曲がったりする
不確定要素が多い
だから、道路の上では、交通ルールというものが出来上がる
交通ルールがないと困る
そしてそれに従って、歩行者や自転車や車が通行しないと困る
ところが、交通ルールがあっても、誰も通らないような山の中では、自然に従って、危なくないと思えるところは、交通ルール通りに走らないケースがある
その場合、感覚優位になる
つまり、誰も通らないと言う感覚がそこに出てくる
誰も通らないんだから、交通ルールもへったくれもない
「それでも交通ルールをきちんと守る」と言うことにどういう意味があるのか

本来修正されなければならない感覚優位の自然的なものを無視して放置されているから、無意味な交通ルールが存在するのだろう
したがって、結論は本来は感覚優位に従って、本当に誰も通らないのであれば、そこの信号を止まる必要は無い

ところが、街中ではそうはいかない
怖くてしょうがないから、交通ルールがあったとしても、それ以上に安全運転をする
歩行者のほうもあまりに危険ならば、感覚的に危ないと思ったら、そこを通らない
どんなに危険でも、交通ルール通りだからと言って、車の前に飛び出すと
立ち死んでしまう

電車の話に戻る
電車は絶対に人が通らないと言うルールになっているし、まず通らないな
ところが電車だから良いものの、そこを「電車は一般的な人間の感覚で考える」とすると、いつ誰か線路に飛び出してくるかわからないと言う疑心暗鬼を持つだろう
ここに感情が出てくる
怖いと言う感情である
電車が人の感情を持ったのと同じである

何度も言うが、
もしかして「人が飛び出してきたら怖い」と言う感情を電車が持った場合、あの超高速で走っている電車は走ることができなくなる
なぜなら不安で不安でしょうがないから

絶対に人が飛び出してこない
自転車やバイクも飛び出してこないと言う、そういう絶対条件を信じきっているからだ
そこに信じると言うのは、肉体の本能が持つ感覚だからであろう
感覚が良いなら、人の姿が見えたら、電車でも止まる
ところが、感情優位で動いていたら「人はいない」それが「正しい」と言うそういう意識にたどり着く
正しいか正しくないかでは不自然になる

自然は感覚優位である
あるべきものがある
ないべきものはない
突然に存在するものは突然に出てくる
消えるものが消えゆく
あるものはある
ないものはない
電車だから線路の上を走れる

人が飛び出してこないと言うルールは、人が決めたルールである
人が決めたルールは人によって破られる
人の感情はそういう部分を支配する
だから、あるはずがないはずの線路の上に、人が飛び出す

もっと突き詰めて言えば、電車ですら信用できない
でも、そこに不安がある人間の感情を入れてしまうと、電車は走れなくなると言うことなのだ
怖くてしょうがない

それが、人の感情の世界だ
感覚の世界ではない

言いたいことがなかなか解りづらいと思うが、、
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計画性が実は無かったのは自分

2025-01-30 05:08:19 | メンタル
計画性のないやつを見ると、腹が立つ。
もう少しきちんとやれよと言いたくなってくる。
あまりにも雑然としていて人に迷惑をかけてるように感じるからだ。
ところが最近それは自分自身だと言うことに気がついた。

いろいろ計画を立てて行動しているつもりだった。
絵に描いてみたり、図式にしてみたり、数をいっぱい使ったり、たくさんメモをした。
ところが結果を見てみると、はっきり言ってうまく物事が進んでいない。
なぜなんだろうかと疑うことが多い。
計画性とは計画表を作ることではない。
例えば、目標を立てた通りにことが運ぶように、様々なものやことをあるいは概念や思いや感情や情熱そういった様々な感覚を使い切って進めていくことなのであろう。

自分はそういった情熱は少ない。
ほとんどの事に対して、人の目を気にしてなかなかうまく進められない。
結局は、そのあたりを計画性とは違う観点で見てい流。

人間を相手にする。
この世の中では、そういう部分がしっかりと見据えた上で進めていかないと物事は進まない。
そういった人との応対部分を計画の中に入れていないと、きちんと計画ができたことにはならない。

人が嫌い。
人が苦手。
人とは関わりたくない。
そういう感情が優先した行動がほとんどである。
わりとそういう人はいるのだろうが、多くはそこを努力で乗り越えているのだろう。

自分自身を振り返ってみて、どうやらそれを避けてきたし、そういう努力もしていない。
どこまで行っても人の世は人間関係を避けて通れない。
そこが解っていない。
理解できていないから乗り越えられない壁がある。
物事を成し遂げる為の壁なのだろう。
それも含めて計画しなければ到達できない事がほとんどだから、である。

結果、自分自身は計画性はないと言う結論に至っている。
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嘘の報道をしてもゴメンで済む文春 そこにも差別は有る

2025-01-29 17:09:07 | 暴言
文春には何故処罰が無いのか?

人権侵害は文春にもありそうな印象を持つ

なのにスルーされる

朝日新聞然り

朝日は国家を奈落に落とす行為をしてても罰則は無し

きっとそこに何かあると感じる

理由を知りたい
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昨朝は空が暗かった

2025-01-29 05:16:49 | 日記
朝方雨が降ってるような印象で目が覚めた。

カーテンを開けると暗い中に見える道路が少し湿っていた。

寒さはここ数日の中では一番寒い。

暖房を効かせてもなかなか暖かくならなかった。

朝食を済まして、玄関のドアを開けて外に出ると、少し雨模様の天候だった。

外は真っ暗。

職場に着く頃には、みぞれ混じりの空になった。

仕事中はみぞれが降るようになった。

朝の寒さはその後一向に変わらなかった。

昼近くになっても気温はほぼ変わらない。

昼ごろから日が差してみたり、曇ってみたり、薄雲の中から青空が見えたり
コロコロ変わる天候である。

昼過ぎ頃、雪こそ降らないが、少しだけ小雨が降っているような状態がずっと続いている。

寒さは朝からずっと同じだな。

一月後半、まだまだ冬である。

二月の初旬には、もっと冷え込むらしい。

もう老人の身体。

この寒さは身体に応えるな。

本来なら、夕方図書館まで歩いて行くのだけれども、さすがにこの寒さは身体に悪いからと昼頃に車に乗って行った。

CDを返し、新たにCDを借りて帰ってきた。

今日の午後の時間はCDを聴く時間にしよう。
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地球が狭くなり人生が長くなった

2025-01-28 05:35:56 | 暴言
その結果人間の活動範囲が広くなった。

あらゆるところで活動範囲が広がったのだ。

人間は地球全体を我が物顔で侵食していく。

食いつぶしていく。

おかげで、化石燃料が見つかり、それをものの見事に加工して、あらゆる毒素にしてばらまく。

人類の生活はとても便利になった。

体を動かさずに、飛行機に乗って、地球全体あちこちに移動できる。

地球上すべてのものを食いつぶしていける。

貴重なものだろうが、ゴミだろうが同じように食いつぶしていく。

それは最終的にゴミではなく、得体の知れないヘドロになって蓄積されていく。


おかげで、人類は寿命が伸びた。

老人になってもなかなか死なない。

本来の哺乳類の動物の「生きているはずの生命体としての寿命」をはるかに超えてきている。

くたばってもいい身体になっても、さらに生き延びている。

人としてゴミになろうが、ヘドロになろうが、なかなか死なない。

人類が他の生き物を悪く言う言葉に「ゴキブリのようだ」と言う言葉を使う。


ゴキブリは生命力が強いいから、なかなか死なないのだ。

しかし、今や人類の方がゴキブリを凌駕するほど死ななくなった。

肉体を持つ哺乳類の動物としては、そろそろ死んでも良いような肉体状態になっても死なないのだ。


むしろ、精神的に苦しい状態になっても「死ねなくなっている」と言い換えられる。

とにかく死なない。

死ねない。

とにかく死なないで地球全体を食いつぶしていく。


こういう状態になっている我々の生活環境を眺める宇宙。

例えば宇宙全体に意識があるとして、現在の地球環境を見た場合にどう思うか?


もしそれを神の意志と考えるならば、何が正しくて何が間違っているのかはうすうす気がつく。


「正しい」とか「正しくない」は主観によって変わる。

そこには感情がある。

感情は自分中心である。

そう思うと、自ずと結論は出る。

以前から「客観的に見るとどうなのか?」という言葉を使う議論を時々聞く。

しかし、客観的に見て出した答えは、客観的ではありえないことが多い。

なぜなら、そこで出た「正しい答え」と言うその「正しさ」は自分の評価であり、自己の主観的な意識によって決まるからである。

以上終わりである。
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