賃貸住まいの高齢者

単身赴任生活が終わり、定年。でも生活できないから、、どうしよう。。

善悪は感情であり、ありのままが感覚である

2025-01-28 05:31:46 | 暴言
良いとか悪いとか、判断をするのは感情の方であろう。

ありのまま、感じたままによる判断が感覚であろう。

判断と言うよりも、感覚自体は判断をしない。

ありのままだから感じたままそのままである。

気持ちが良いとか気持ちが悪いと言うのは感情である。

気持ちが良いも悪いもなく、そのまんまを受け止めるのが感覚である。

感覚は善悪の判断をしない。

良いとか悪いとかの判断をしない。

それが感覚である。

感覚の場合は、善悪がない。

良い悪いがない。

したがって、気分が良いも悪いもない。

落ち込むこともないし、悩むこともない。

逆に楽しいとか嬉しいとかもおそらくあまりないだろう。

ただ、受けたまま感じたままである。

痛いものは痛い。

熱いものは熱い。

くすぐったいものは、くすぐったい。

しかし、穏やかなものは穏やかである。


穏やかで居たいと思う。

それが感情なのか感覚なのかわからないけれども、穏やかでいたいと思う。

従って急がない。

焦らない。

そこにあるがままに受け止める。

とことん受け止める。

受け止められないものは受け止められない。

だから、受け止めようと思ったら、受け止められるまで受け止める。

受け止めるためには、そこにとどまる。

一旦停止以上のそのまま停止も辞さない。

受け止められるだけ受け止める。

とにかく認知をしっかりする。

ありのままを認知する。

認知、判断、操作

その場合の認知のみで全てが完結する。

判断しない。

まずは認知のみする。

操作もありのままにするが。

しかしそれは認知して、そして前に進むだけだ。

操作と言うほどのものは必要ない。

ただ、前に進むだけだ。

時間の流れと同じだ。


時間の流れは認知するのかしないのかわからないけれども、前に飲み進む。

たったそれだけの事しかない。

そこに近づけば近づくほど、物事は解決する。

この世の統一理論は、おそらくその辺にあるような気がする。

ただ、前に進むのみの時間と同じ。

時間は光の成長。

宇宙が膨張しようが、時間が前に進もうがあるものはある。


以上終わりである。
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東京と中国・上海の一極集中の同意点

2025-01-27 05:49:08 | 暴言
日本国内で東京一極集中することと世界で経済や権力が中国に一極集中する事は同じである。

経済的に大きいところに物事が集中するというところが共通である。
物事というのは資金や資産と権力や軍事力のこと。

日本国内で言えば、東京に人口が集中し、そこに富や経済力や権力が集中している。
東京がいわゆる一人勝ち状態になっている。
そして、東京がいろいろな物事を優位に進めることができるようになる。
したがって、権力も支配力も東京に集中している。
国の機関も東京に集中している。
それを強引に地方に移そうとしているが、現状では到底不可能な進行状況であろう。

世界に目を向けてみると、中国に資産や資金や権力が集中しつつあり、同時に軍事力もそこに集中しつつある。
したがって、支配力も中国に集中しつつある。
そうなると、隣の国である日本国は当然、それに対して支配されていく存在となる。
日本としては滅亡の危機と言って良い状況に陥って行きつつある。
それを何とかしてアメリカに阻止してもらおうと考えているけれども、日本国内でも資金や資産や権力に魅力を感じ、そちらに加担する人が増えている。
個人単位でそう考えるのは理解できる行為だろう。
当然、中国に転出する人が増えているとまでは言わないにしても、日本国から海外に流出している人間たちが増加傾向にあるのではないか。

それを阻止するためには、一人ひとりの人の意識を変えるしかないと思われる。
しかし、個人個人は、自分自身の資産や資金や経済力や生活が重要であるから、なかなか協力的にはなれない。
そういう気持ちは理解できる。

日本の国を存続するために、自分が犠牲になっていいとは思えないからだ。
もしそれを強引に押し進めるならば、太平洋戦争時における一億玉砕的な意識を強制するに等しい。
そこは人道的ではないと言う世界的、現代的な意識が働くだろう。
個人が大事であり、一人ひとりが重要であると言う。
そうなると、日本国と言う「国」を維持する力はどんどん阻害されていく。

力の理論は、そういう一つの国単位だけでは為し得ないと思われる。
反対に EUや西側諸国の協力体制が整えば中国よりも大きい力となる。
しかしながら「そういうわけにはいかない」中国はロシアや北朝鮮やイランと協力的に物事を進めていっている。
それと同時に、アフリカや南アメリカにも協調関係を工作している。
西側諸国はそれを阻止しないといけないのだけれども、トランプ大統領の政策は、それとは逆にアメリカ単独のことを考えるようになっているのが現状だ。
おもて向きはそうなっていても、裏できちんと工作をされているのであれば、物事に違う変化がある。
けれども、現状ではアメリカは孤立しようとしていく方向に向いている。

ここに大きな問題がある。

その孤立主義のアメリカに同調する日本はたちまち蹴散らされる存在となる可能性が高い。

「表面上見えるもの」と「水面下で動いているもの」とは大きく違う。
しかし、水面下で動いているものは、ある程度はおぼろげながら見えてくるものである。
歴史を振り返るとだいたいそうだった。
ところが現状、そういうものはあまり見えてきていない。

そこに大きな不安要素が残っている。
が、それが今の世界の現状であり、日本の現状である。
なかなか不透明で、物事は進みにくい。
何千年も昔から続いている人間の創り上げた文化の在り方はあまり大きく変わっていない。
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不適切な時代を過ごしたオジイが許される時代は終わった

2025-01-26 17:14:08 | メンタル
昔の世間はいい加減な暮らしでよかった。
しかし、今はみんな同じ目線で生きねばならない。

平等
公平
みんなが同じ幸せに暮らす

ならばみんな同じなら優遇制度もオカシイじゃあないか?
あの人は特別はオカシイ
大統領の特別警護もオカシイ
みんな同じ顔でないとオカシイ
そう感じるのだが。

そもそも同じであるわけがない。
あなたとわたし、で、ほら、すでに違う。
違うならみんな同じはあり得ない。

平等とは?
何に関して?という。
しかし、そこも人によってこだわりが違う。
だから、あれは良いけどこれはダメ、が発生する。

あれとこれ。
ほら、すでにあれとこれとは違う。
だから同じではない。

平等というけれど、そもそも何に対して平等か、で違う。
そこを意識すると、すでに無理難題になる。

だけれども、今の時代はそれで良い時代ではない。
今の時代がかつての時代とは違う。
そこが違う。
昔のオジイが生き易い時代は終わり、今のオジイは生きにくい。
それでもそういう時代で育った今のオジイは今の時代を昔の感覚で生きねばならない。
生活方法は変わっても、人の感覚はなかなか変えられない。
だから、そこでバトンタッチをせねばならんのだろう。

人はいずれ死ぬ。
死に時がわからない。
それでも薄々解り始める。
もう感覚が違うのだ、と。
今の時代に合わせられる感覚が無い。
老害と言われる由縁もそこらあたりなのだろう。

長寿を祝う、というのは少数の見せ物的には良いかも知れない。
こぞって長寿は暮らしを妨害する可能性が高い。
適応能力が高いオジイくらいだけ残って、あとはさっさとトンズラするのが良いように思えてきてる。
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川面の岩に乗る

2025-01-26 04:39:34 | 日記

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焦りは感情から・焦りは人と比較することから

2025-01-26 04:33:45 | メンタル
車でついつい急いでしまうのは人と比較するからである。
道を走っていて馬や豚や牛がいても、これは危ないから止まらねばと思う。
けれども、前をトロトロ走っている車がいるとイライラする。
そこには人が関与するところに違いがある。
つまり他の人と比較をするからである。
他の人と比較するという事は、他の人の感情を意識するからである。
押しボタン信号を誰かが押して車を止めればならなくなった時、その時に押しボタンを押した人がお菓子を食いながらゆっくりと横断歩道を渡っていたりすると腹が立つ。
たとえ急いでいなくても、スムーズに前に進めないと言うことに感情的になり、怒りがこみ上げてくることがある。
つまりは人、他人を意識することから発生している感情だろうと思う。
それは他人の感情を察知し、比較しようとするその辺に原因がありそうな気がする。
例えば、他人が面倒なことに遭遇をして困っている人だと助けてあげたくなる。
それは自分と他人を比較して、自分の方が優位に感じるからである。
逆に、他人の方が優位に感じると、そこに怒りがこみ上げてくることがある。
焦りの感情もそういうところから来るような気がする。
車を運転しているときに、他の車がどんどん先に行ってしまっていても、その車を運転しているのが人ではなく、ただの風の流れだとか木の葉が飛んでいるとか、牛や馬が走っているとか、そういう別のものであれば まぁ感情的になる事はないと思う。
つまり、そこに人がいるからであり、その人の感情を自分が察知するからであろう。
自分の車をどんどん追い越す人がイカつくて、人相の悪い凶暴な人だったとしたら、別の感情になるような気もする。

日本には他人の気持ちを察知しろ、という社会的な風潮がある。
しかし、それは諸刃の剣である。
おそらく他人の感情を察知するというのは、少し目的とずれている気がする。
他人の希望を察知したとしても、それを感情として受け取ってしまうと、結局は自分のためにならないと思う。
他人の希望を察知するのを、そこに人ではなく、自然の脅威を察知するのと、同じような次元で捉えた方が良いような気がする。
人の感情を自分の感情で察知してはならないということになる。
人の感情から希望することを読み取り、その上で自らするべきこと、あるいはできることを考える。
そこまでのことで完結する方が良いと思う。
大自然の脅威はとても大きい。
大地震が来て、自分が身を滅ぼすようなことになったとしても、それを感情で捉える事はないと思う。
そういう場合は感情ではなく、やむを得ない身の危険や肉体的な恐怖にたどり着くと思う。
大地震が起きて、その地震に対して「このやろう!」「なんてやろうだ!」と思う事は無い。
あぁ怖い大変だ、いやだいやだ、で終わる。
感情に対して、感情で答えてはならない。
そこにあるのは、大自然と、同じく、いわゆるやむを得ない自然現象であり、成り行きでしかない。

焦りが生じたときに、そういう感覚を持つべきであろうと思うのである。
つまりは、感情ではなく、感覚で受け取ろうと言うことにつながる。
養老猛司さんが言ったように、意識優位ではなく、肉体優位が結論になる。
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