禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「嘘」に見る東西道徳観の違い

2024-04-06 12:28:09 | 哲学

 「うそつき」という語感について、日本人と西洋人の語感はずいぶん違うらしい。若い日本人のカップルがデートしているとする。男性がなにか冗談を言ったとき、女性は笑いながら、「んもぅっ、哲のうそつき!」とか言って、男の上腕をたたく。こんな情景はいかにもありそうである。しかし、この男がもしアメリカ人だったら、「うそつき」と言われた瞬間顔が少しこわばるかもしれない。女性は「もうっ、ジョーったらジョークばっかり」とでも言った方がいいだろう。西洋人に対して「うそつき」と言うのはかなりの罵り言葉である。

 「うそをついてはいけない」というのは洋の東西を問わない普遍的な戒律である。不妄語戒はキリスト教の十戒にも仏教の五戒にもちゃんと含まれている。しかしその受け止め方はずいぶん違うように見受けられる。どう考えてみても西洋の方が厳格である印象が強い。やはりそれは、一神教の戒律は神から与えられた絶対的なものであるのに対し、仏教における戒律は人間の定めたものであるという事情があるのだろう。(お釈迦様も人間である。)日本では昔から「嘘も方便」と言う言葉がある。ちなみに「方便」も仏教用語として輸入された言葉である。キリスト教において戒律に背くことは絶対悪であるが、仏教においては一切皆空である、そもそも究極的な善悪というものはもともとない。すべては縁起の中で相依的に生じるものにすぎないとされる。だから、仏教においては状況次第で嘘をつくことが善行となる場合もあるのである。

 カントが著した「うそ論文」というものがある。正式には『人間愛から嘘をつくという,誤って権利だと思われるものについて』という題の論文である。内容は、どんな場合でも嘘をつくこと自体はよくないということを論じている。たとえば、悪者に命を狙われている友人を自分の家にかくまったとする。そこへ悪者が訪ねてきて、その友人が来ていないかと問われた時にでも嘘を言うのはよくないことだ、とカントは主張する。カントは決して悪者に友人を差し出せと言っているわけではない。この場合、当然友人を守ることが最優先であることは間違いないが、それでも嘘をつくことは良くないことだというのである。できれば友人を救うことと嘘をつかないとを両立させることが望ましいのだが、それが不可能な場合もありうる。この場合は結局嘘をつくことになるだろう。その場合でも、嘘をつくこと自体はあくまで悪なのである。どんなときにも「嘘をつく勿れ」という道徳律に対する敬意を忘れてはならないというのである。

 大抵の日本人ならカントの考えは余りにも硬直しているように感じるに違いない。このような場合にはむしろ積極的に嘘をつくべきであるとする人が多いのではないかと思う。しかし、カントは善悪を仏教におけるように相対的なものであるとは考えない。数学の定理は手順さえ間違わなければ誰もが同じように到達できる。それと同様に、カントは人間が理性的であればだれもが普遍的な道徳律に到達できると考えたのである。つまり、それは人間が恣意的に決めたのではない。数学の定理のように厳然と実在する道徳であり、だから我々はそれを恣意的に解釈することはできない。絶対的なものであるから、無条件にそれに敬意を払わねばならないというのである。

 カントは道徳の源泉をいわば神から理性に移したのであるが、私にはこれが名目上のものに思える。無条件に従わせるという絶対性はなにか超越的なものを措定(結局それを言葉にすれば「神」ということになるだろう)しないと導入できないことのように思えるからである。やはりカントも一神教の世界に育った人のように思える。

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「進化する」と言うが、いったい何が進化しているのか?

2024-03-12 16:38:24 | 哲学
 ダーウィンの進化論は自然科学において、ニュートンの万有引力の法則と並んで最も重要な発見であるとされている。思想史的に見ても、私達の世界観にこれほど大きな衝撃を与えた学説は他にないと言ってもよいのではないかと思う。ところが、未だに「猿が人間に進化した」とか「キリンは高い枝の葉っぱが食べられるよう首が長くなった」式の説明が堂々とまかり通っている。
多分「進化」という言葉がいけないのだと思う。進化という言葉を使うのなら、進化する主体というものががなければならないはず。しかし、そんなものはないのである。下の図を見て欲しい。この絵を見ると、まるで猿が人間に変化していくように見える。
 しかし、そうではないのである。この図の中に変化などしているものはない。ここに描かれているものは一つひとつがそれぞれ別個の個体であり、猿として生まれたものは一生を猿として過ごしそして猿として死ぬ、ただそれだけである。ただ、その猿から生まれる子供は全く親と同一ということはなく、いろんな変異が生じる。その変異が環境に適合しておれば、その子はまた子孫を残す。ただそれだけのことである。決して、変異する主体というものがあるわけではない。上の図は、無数に枝分かれしていった個体群の一部を恣意的に選び出して(※注)プロットしたものに過ぎない。進化論というのはかいつまんで言うと「あるべきようにあり、なるべきようになった。」と、実に当たり前でニヒルなことを述べているに過ぎない。
 
 「キリンは高い枝の葉っぱが食べられるよう首が長くなった」と言うと、高い所に届くように首を長くしようという意志がどこかに存在したかのように響く。繰り返して何度も言うが、決してそのような意志というものはない。私たちは言葉で「進化する」と言ってしまえば、反射的に主体となる「何か」が進化すると錯覚してしまうのだ。そして「進化」という言葉には進歩とか前進のようになにか目標のある運動のようなニュアンスがある。それで、ついつい進化論を目的論的に解釈してしまいたくなるのである。自然科学の学説の内容は単なる事実であり、われわれの価値観とは本来別次元のものである。しかし、つい淘汰を免れて生存競争に打ち勝つことが価値あることのように錯覚してしまう。その結果として優生思想のような歪んだものの見方が生まれてくるのである。ヒトラーは美しくて健康なドイツ民族を作るために本気で優生学を採用した。その結果、戦争遂行上国家にとって役に立たない障害者や重度の病人を安楽死させるというT4作戦までやってのけたのである。(==> 「優生思想と向き合う」)

 私自身が、もし頭が良くて男前でスポーツ万能に生まれていたなら、私はそれを嬉しく思い、また価値あることだとも思うだろう。だからと言って、私はそのように生まれてくるべきであったなどとは考えない。すでに一個の人間として生まれてきた私の尊厳はそういうこととは無関係なのである。そこのところは絶対に勘違いしてはならない。
 
(※注) 「恣意的に選び出して」という表現は少し言い過ぎかもしれない。現在生存しているものからその親を遡って古い順から並べれば当該図のようになるからである。しかし、それはあくまで終点をあらかじめ固定しておいて時間を逆に遡っていけばの話である。あくまで時間に沿って順に追っていけば、無数に枝分かれした系統の中のたった一つの系統でしかないことがよく分かるはず、そういう意味であえて「恣意的」と記述した。
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100分de名著「偶然性・アイロニー・連帯」

2024-03-06 07:43:00 | 哲学
 NHK「100分de名著」という番組の2月のテーマはリチャード・ローティの「偶然性・アイロニー・連帯」であった。私はローティという哲学者のことは全然知らなかったのであるが、朱喜哲先生の説明を聞いて、とても偉い人であると思った。と同時に、その根底にある思想は仏教に通底しているとも感じた。

 ここでローティの言う「偶然性」という言葉について考えてみよう。随分前の話になるが、あるテレビの番組における若者の投げかけた「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが大きな波紋を呼んだことがある。結局決定的な結論には至らず今も問題は宙に浮いたままである。しかし、どう考えてみても「人を殺してはいけない」という結論は理屈では導き出せない。現実に人類は正義の名のもとに盛大な人殺しを繰り返してきたのだから、「人殺しは必ずしも悪いとは決っていない」と言い得るのではないだろうか。 しかし、おそらくそれではこの問題を提起した人は納得できないだろう。

 なぜ納得しないのか? それは人々が倫理に対して、例えば神が決定したというような必然的根拠に基づくものであるべきである、というような思い込みがあってのことではないかと思う。それと同様に人々は、自分や日本などについてもかくあるのは必然的根拠をもってにあるべくしてあると思いがちである。例えば日本という共同体や自己などについても考えてみよう。私たちはなんとなく日本や自分というものは初めからあるべくしてあるものだと思いたがる。日本はかくあるべしまたは自分はこういう人間であるという本質、すなわち必然的な根拠によって、日本も自分も現にこのように存在しているのだと思いがちである。倫理もまた必然的根拠に基づいて実在しているものと思いたいのである。ギリシャ人は真・善・美というものがイデア的に実在するものだと考えていた。それらをもっとも的確な言葉で表現するのが西洋哲学の目的であったとさえ言える。ローティはそのような思い込みを一掃する、それらはみな必然的根拠をもたない。あくまで偶然的なものであるだけに過ぎず、ある意味「言葉によって発明された」とまで言ってのけるのである。これはかなりラディカルなことを言っているようだが、無常や空を根本原理とする仏教的立場から見れば受け容れにくい考えではない。仏教では、全ては変化し続けておりなにものも留まるところはないと説く。一瞬たりとも止まることはないのだから、特定の形とか状態というものを抽出することもできない。だから仏教ではそれだけで独立し存在する基体とか本質というものを否定する。それが空ということである。仏教の空とローティのいう偶然性は真理や倫理の絶対性とか必然性というものを否定するという意味で通底しているのである。

 真理や倫理がもし必然的なものであるならば、論理をつくせばその究極に到達できるはずである。かくて必然を信じる人はやがてファイナル・ボキャブラリー(究極の言葉)と言うべきものに到達する。それはその人にとってはまさに究極であるから、それに反することは全く受け入れられない、そこで対話は途切れてしまう。シオニストにとってイスラエルの存続は絶対である。だから、イスラエル自衛の為であれば何をやっても正義となる。そのように考えれば、ガザにおけるイスラエル軍の蛮行も納得がいく。言葉や論理の必然性を信じる人はたやすくドグマに陥ってしまうのである。ローティはファイナル・ボキャブラリーもまた偶然性の重なりに過ぎず、単に世界の一側面に過ぎないというのである。やがてそれは変わりゆくものであり、私達は世界がいろんな側面を持つ豊かさを意識しながら、対話を閉ざさないようにしなければならないと説くのである。

 ローティが訴えていることは、仏教の教えである中道思想と同じ趣旨であると言っても差し支えないと思う。禅仏教では不立文字と言い、この世界を言葉で記述することを禁じている。一切は空であり、世界を言葉(概念)で規定することは不可能であるからである。だから修行することによって、世界をあるがまま把握する目を養うのである。一旦世界を言葉で切り取ると人はその言葉に制約される。ガザのイスラエル兵は「イスラエルの自衛」の名のもとに病人や女子供まで機関銃で撃つ。素朴な目で見ればただの野蛮な行為であるとたやすく分かるはずなのに、「イスラエルの自衛の為」という文言が彼らの正当性を保障する。言葉によるイデオロギーが、彼らから世界を「あるがまま看る」目を奪っているのである。 

 仏教の中道思想というのは、言葉によるイデオロギーにたやすく安住してはならない、ということである。そういう意味でローティの言う「偶然性」を意識するということと通じているのである。

朝の散歩中、近くの団地で太陽の周りに大きな光の輪が広がっているのを見た。
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実力も運のうち

2024-01-28 14:34:02 | 哲学
 普通「運も実力のうち」という言葉はよく聞くが、「実力も運のうち」はあまり聞きなれない言葉である。実はこれはNHKの白熱教室で知られるハーバード大学のマイケル・サンデル教授の新しい著書のタイトルである。私はまだその本を読んでいないので、サンデル先生がどのような意図で「実力も運のうち」と仰っているのかはよく分からないが、よくよく考えてみればなかなか意義深い言葉であるように思えてきた。
 
 大谷翔平選手の選手としての報酬は10年間で7億ドルだという。年俸100億円である。それ以外にスポンサー企業からの副収入が70億円もあるらしい。私のような貧乏人には見当もつかない金額だが、金を出す側としては大谷選手にはそれだけの市場価値があると踏んでいるわけである。その市場価値の源泉は、野球選手としての力量、魅力的なパーソナリティやルックスから来るものであり、それらはみな大谷選手の属性つまり彼の実力と言ってもよいと思う。年俸100億円は彼の価値に対して支払われるのであり、それは親の七光りでもなければ宝くじに当たったわけでもなく、もちろん他人から掠め取った物でもない。文字通り彼の実力に対する対価として支払われるのである。

 だから誰も文句を言ったりしない、多分‥‥‥。
しかし、誰もが納得したとしても、あえて文句つけたくなるのがへそ曲がりの私の性分である。大谷選手と同世代の若者でコンビニや飲食店で働いている人々は少なくないだろう。彼らの多くは時給千何百円ほどで働いているはずだ。仮に時給1500円で月200時か寸働くと仮定すれば、月収は30万円で年収は360万円になる。大谷さんの年俸100億円とはえらい差がある。金額が実力の反映であるとするならば、彼はコンビニ店員の3000人分の働きを一人でこなすことになる。私の常識が「そんな法外なことがあり得て良いのか?」とわめいている。

 しかし少し考えてみれば、その法外な事態に正当性を与えているのは現代社会の資本主義メカニズムであることはすぐ分かる。仮に大谷さんが江戸時代に生まれていたら、これほどの社会的成功を収めることは難しかっただろうし、もし野球ではなくバドミントンの選手への道を選んだりしたら、たとえ超一流選手になれたとしても現在のような収入はとても望めなかっただろう。そのように考えてみると、「3000人分に相当する実力」というような実体は実はどこにも存在しないということがよく分かるのである。すべてのことはいろんなことがらの関係性つまり因縁によって決定するのであって、言ってみればすべてが運であると言っても差し支えないのである。

 また、大谷選手は生まれる前に「こういう家庭に生まれ、こういう人間に育ちたい。」と意志したわけでもない。たまたま奥州市の円満な家庭に生まれすくすく育って、立派な野球選手として育っただけのことである。すべては因縁であり、実体としての実力やそれを志向する主体自体も存在しない。一切皆空である。

1月26日の夜明け時、満月が茜色に染まる西の空にまだ残っていた。
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分けると分かる

2023-11-07 06:27:04 | 哲学
 先月は、「論理とはなにか? 」に始まる八回のシリーズで、ロゴス中心主義とそのアンチテーゼとしての仏教的中道思想について解説したつもりだったが、中心テーマになる後半になると閲覧回数が激減してしまった。自分ではかなり力を注いだつもりだったが、もしかしたら独りよがりで稚拙な解説をしてしまったかもしれない。少し未練が残るので、もう一度簡単にまとめてみたい。

 「分かるとは分けることだ」という言葉がある。もともと「分かる」の語源は「分ける」からきているらしい。まさにこれは核心をつく言葉だと思う。ロゴス中心主義においては「分かる」と「分ける」はほぼ同義と言ってもよい。「ソクラテスは人間である」と言った時、ソクラテスを人間と人間以外に分別しているのである。もちろんいろんな分け方がある。それは男か女か、ギリシャ人であるかどうか、哲学者であるかないか、とより細かく分けていけばいくほどそれが何ものであるかを分かった、つまり理解したことになる。

 もちろんこのように分けて理解するということは必要なことである。それがなければ科学も進歩しないし、日常生活の段取りもうまくいかない。龍樹もロゴス中心主義の全てを否定しているわけではない。ただ一点、絶対的な分類の基準は存在しないということだけは忘れてはならないというのである。前にも述べたが、人間と人間以外を区別する客観的な境界というものは存在しない。繰り返して言うが、人間そのものという本質は存在しない。なにものもそれだけで独立して存在しているものはない、あくまで人間以外のものとの関係性においてはじめて人間という概念が成立するのである。絶対的な基準がない以上、そこにはどうしても恣意というものが入らざるを得ない。それ故、分けるということはあくまで便宜上の方便であって、絶対的なものではないことを忘れてはならないのである。
 
 ところが人は往々にして、便宜上の分類を絶対的なものと思い込むことがある。ヒットラーは「アーリア人たるドイツ人こそ最優秀な民族で、ユダヤ人は劣等民族である。」と考えていたらしいが、彼自身がアーリア人がなんであるかを分かっていたかどうか極めて疑わしい。(「アーリア人」というのは元々は学術用語で、インド‐ヨーロッパ語族の諸言語を用いる人種の総称であったはず。) 彼の考えている「アーリア人」の本質などというものはもともとどこにも存在しないのだ。ところがヒトラーにとっては、アーリア人とユダヤ人の区別は絶対的なものである。その行き着いた先がホロコーストである。区別がイデオロギーを生みだし、それが深刻な信念対立となりうることを忘れてはならない。

 現在パレスチナでは、イスラエル軍がガザに侵攻している。イスラエルはハマスとの戦争であるとしているが、現時点ではイスラエル軍が圧倒的な軍事力でもって一方的な殺戮行為を行っているとしか見えない。しかも殺されていく人の約半数が子どもだという。一人のテロリストを殺すためにその何倍もの非戦闘員を平然と殺戮する。そんなことが許されて良いわけがない。イスラエルもヒトラーがかつて行った反ユダヤ主義と同じことをやっているのである。イスラエルではユダヤ人とアラブ人の区別は絶対的である。イスラエルではアラブ人は二級市民に過ぎない。ユダヤ人には子供を沢山産むことを奨励している一方で、アラブ人には産児制限を課す。そういう不平等を公的に課しているのである。そういうあからさまな不条理を公的法制度に持ち込まなければ維持して行けないような国家に果たして存在価値があるのかどうか疑問である。
 
 全ては人と人を区別することから始まっている。言葉と論理による区別がイデオロギーを生み出し、それが人々の分断を正当化するのである。言葉によるイデオロギーを信用しすぎてはならないというのが仏教の中道思想である。
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