禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

根本的なことは言葉によって定義できない

2019-06-20 09:55:17 | 哲学
デイヴィドソンという哲学者が、次のようなことを述べている。
 
「真理は、我々が持つもっとも明瞭で基本的な概念であるから、より単純で基本的な何かに代替してこれを除去しようと夢見るのは非生産的なことである。」(「デイヴィッドソン」森本浩一著 P.25)

一瞬なんのこっちゃろうと思ったが、よくよく考えてみればまさにその通りだと思った。『真理とは何か?』というのは一見哲学的な大命題のように思えるが、それに先行して、真理というものがいかなるものかが分かっていないと、それを問うことができない。空港に人を迎えに行く場合に、あらかじめ誰を迎えに行くか知らないで行く人はいないのと同じである。

「『雪が白い』が真であるのは雪が白い場合その場合に限る。」ということが了解しあえるのもの同士でなければ、議論する意義がないということは理解できる。「真である」ということが説明なしで分かるということが、コミュニケーションの前提となっている。
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「今」は動かない。

2019-06-09 05:49:10 | 哲学
時間という概念が存在論的に有意義であることは前回記事 でも述べた。あらゆるプロセスは『時間』という秩序に支配されているのであって、われわれの生活もその秩序の上に成り立っている。その秩序というのはひとえに様々なプロセスが同期しうるということにある。朝学校へ行けば始業時刻には皆顔をそろえていて、先生が教室に来られて授業を始める。デートの時刻と場所さえを申し合わせておけば、恋人たちは再び会うことができる。お互いに(直接には)影響を及ぼしあわない、一見無関係だと思われるプロセスが同期する、これは驚くべきことだ。そういう意味で時間という概念は我々にとって必須のものであるにちがいない。

前回記事で言いたかったことは、われわれの日常では時計の針の動きに時間というものを仮託しているが、それによって時計の針の動きに合わせて、『時間そのもの』が動いていると考えるようになるということだ。それと同時に、時計の針の先端が示すところの時刻を「今」だとしている。つまり、時計の針の先端が「今」なのである。すると時計の針は常に動いているのだから、「今」も常に動いていることになってしまう。

しかし、よく考えてみるとこれはおかしい。常に「今」なのだから「今」は動いていない。時計の針を固定して文字盤の方を回転させれば、「今」は動かないで、時刻が動いていることになる。

一体、「今」という言葉の指示対象は何だろう。いつでも「今」で「今」でない瞬間はないなら、それはおそらく存在者ではない。我々はすっぽり「今」の中に居るのであって、それを俯瞰することはできない。あらゆる事象が現前する、その場を「今」と称しているのだと了解するしかない。

そう、あらためて虚心坦懐に世界を眺めれば、あらゆるものが動いている。それも動いているのである。どんなプロセスもしか動かない。過去も未来も静的である。前回述べたように、過去は記憶または記録、未来は想像または計画であり、それら自体は静的である。

われらの住む空間は一般に、縦×横×高さ×時間の4次元空間であるとされている。時間軸の各点に3次元の静止画像がびっしり詰まっているようなイメージでとらえれば、物理学的な時間の把握は完全である。ただ3次元の静止画像が連なっているイメージは我々には想像不可能なので、2次元画像で代用すると、それパラパラ漫画のようなものとして想像できる。

哲学者の永井均さんは、過去(未来)のどの時点をとっても、その時点においては「今」であり、その時点での「過去ー現在ー未来」が存在したと主張する。つまり、過去や未来のどの時点をとっても、それらはダイナミックな「今」たる資格があるというのである。その証拠に時間軸上のどの部分のパラパラ漫画を取り出しても、パラパラやれば動画が動き出す、と言いたいのだと思う。しかし、それは間違っている。過去と未来はあくまで静的な記録に過ぎない。時間軸上のどの時点をとっても「過去ー現在ー未来」が成立するなら、過去・現在・未来が交錯してしまい矛盾するというのはマクタガードが指摘したとおりである。

パラパラ漫画をパラパラとやって動かせるのは、端的な「今」しかない。つまり、時間をダイナミックなものとしてとらえる「過去ー現在ー未来」(A系列)というのは、あえて言うなら端的な「今」の一つだけにおいてしか成立しないのである。
過去であろうが未来であろうが、すべてのものは「今」においてしか意味をもち得ない。動く「今」とか流れる時間そのものというのは幻想であると考えられる。

座るとやけどするベンチ(デスバレー) 本文とは関係ありません。
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「今」でないときはない

2019-06-05 05:03:06 | 哲学
禅においては時間というものは無い、ということになっている。いつでも「今」だからである。虚心坦懐に見れば、流れている時間というものはどこにもない。流れているのは目の前の川であって、私達が決して時間というものが流れているのを目にすることはない。

この世界ではあらゆるものが動いている。しかし、時間というものが動いている事実はどこにもない。私たちは時計の動きを時間の動きだと勘違いしているのである。否、時計の動きそのものを時間と呼んでいるだけのことである。

なぜかこの世界では、全く関係のないプロセスが時計の動きに同期するという事実がある。オリンピックの100m走ではほとんどの選手が10秒前後で走る。たまに、5秒で走ったりする選手はいない。20秒かかったりしたら、それはたぶん怪我でもしたのだろう。A選手が走ることとB選手が走る事とは何の関係もないことだと考えられるのにほぼ同じ時間で走り終えるのである。地球の自転速度は1回転/1日だし、1年は365日である。つまり、人の動きも天体の動きも時計の動きも、本来別々のことがらであるのになぜかお互い呼応しあっている。

明らかに、この世界のあらゆるプロセスが統一的な秩序に支配されているということになる。ここに「時間」という概念の成立する根拠がある。だとすれば、時間とはその秩序のことである。つまり、この世界には時間という秩序に支配された様々なプロセスがあるだけで、「流れる時間」というようなものは存在しないのである。

ところがなぜか、私達はなぜか現在が過去になり未来が現在になると考えがちである。永遠の過去から永遠の未来への時間軸の上を「今」という一点が移動しているというイメージで時間を思い描く。しかし、これはおかしいのである。誰も未来が「今」になる、あるいは「今」が過去になる瞬間を見たことなどないはずだからである。なぜなら、いつでも「今」であって、我々は「今」以外のものに遭遇したことなどないからである。

過去は記憶または記録の中にしか存在しない。未来は想像または計画の中にしか存在しない。記憶や想像というのも想起するのは常に「今」である。過去や未来は記録や計画という言葉の中にしか存在しない。しかし、それらは「今」という場がないと蘇らないのである。すべては「今」を媒介としなければ現実とならない。つまり、いつでも「今」である。「今」でないものは無いということになれば、おそらく「今」というのも存在者ではありえない。突き詰めていけば、それも「無」であるということになるだろう。

( この写真は本文とは関係ありません。 )
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