禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教は道徳法則を導出する原理を持たない

2016-09-19 06:32:23 | 哲学

仏教では、すべては無常であり、現実の世界の中に固定的なものは一切ないと説く。究極の真・善・美を追求するプラトニズムとは対極の立場である。当然、普遍的な善悪の概念も認めない。すべては縁起の中に生じる仮象に過ぎないと見るのである。しかし、善悪がなければ倫理も無い訳で、それで仏教は宗教だと言えるのだろうか? それでは単なるニヒリズムではないのかという疑問がわくのも当然である。

キリスト教徒なら話は簡単である。モーゼの十戒のようにロゴス(言葉)による倫理規定が存在するので、信者は戸惑うことはない。すべて神の意志に従っておればよい。しかし、仏教徒の生きる世界はあくまでリアルな世界である。現実の世界は無常である。この無常の世界を差配する超越的なものは存在しない。普遍的な善悪というものを教えてくれるものは原理的に存在しえないのである。

仏教型の宗教と大きく違うのは、神に従って生きるのではなく、自ら主体的に生き方を模索する、つまり悟りを求めるという所にある。釈尊はまず我執を捨てよと説く。我々はつい固定的な「自己」というものがあるかのように錯覚する。思考することによって主客二元の世界を構成してしまうのである。その虚構である自己に執着することにより我執が生まれるのである。仏道修行により、その「自己」が錯覚であることを知り、我執から解き放たれれば自在の境地が得られる。我執がなければ、そこにはもう他者への共感しか残らない。対立のない世界が実現するというわけである。

我執がなければ余計なはからいもない、そういう一点の曇りもない境地に至れば大円鏡智が働くと言われる。世界をありのまま正しく映す鏡のような境地に至れば、判断を間違えることはないというわけである。

しかし、ここで一つの疑問が起こる。仏教が無常を根本原理としているのなら、大円鏡智といういわば理想的なものが実在するだろうか、という疑問である。イデアルなものは現実には存在しない、というのが仏教の見解ではなかっただろうか。だとしたら、大円鏡智は到達しえない永遠の目標と解釈すべきだろう。

高校の日本史で血盟団事件というのを習ったのをご記憶だろうか。井上日召という日蓮宗の僧侶が、「一人一殺」をスローガンに政財界の重要人物を暗殺しようとしたテロ事件である。その事件の裁判で、臨済宗の最高指導者である山本玄峰老師が首謀者である井上日照の弁護側証言で次のように述べたのである。

≪第一、井上昭(日召)は、長年、精神修養をしているが、その中でもっとも宗教中の本体とする自己本来の面目、本心自在、すなわち仏教でいう大圓鏡智を端的に悟道している ‥‥‥  和合を破り、国家国体に害を及ぼすものは、たとえ善人といわれるとも、殺しても罪はない、と仏は言う。 ‥‥‥≫

この陳述の中に「大圓鏡智を端的に悟道」という言葉がある。簡単にそんなことを言ってよいものだろうか? 当時の新聞の見出しには「仏法の真諦を説き 日召の悟道喝破」とあり、多くの人々が感銘を受けたようである。しかし今の時代からみると、山本老師の言葉はかなり不穏当な印象を受ける。

大圓鏡智というからには、山本老師は井上日召の行為を「私心なき行為」として称揚したのだろう。しかし、そもそも「国家国体」に執着している時点で、釈尊の教えからは逸脱しているように私には思える。一切皆空というなら国家国体もまた空であり、執着してはならないものである。大圓鏡智もまた空である。間違いはそれを実体視したことにある。

血盟団事件は五・一五や二・二六の遠因ともいえる事件であった。それらのテロをとおして、日本が軍国主義への傾斜を一層強めたことを考えれば、決して肯定されてはならないことである。自己犠牲が直ちに美しい行為であるとみなすのは間違っている。あえてそれを弁護するなら、仏教はカルトであると言われても仕方ないだろう。「魂を救済する」目的でサリンをまいたオーム真理教と何ら変わるところはない。道徳法則を導出する原理を持たない仏教はニヒリズムと紙一重のところにある。不殺生戒はリスク回避のための歯止めとして釈尊が設けたのである。仏弟子ならばそれを軽視してはならない。

仏教の真諦は執着しないところにあるのである。執着がなければ対立も無い。独断に陥ったときはいつでも一切皆空の原点に立ち戻る必要がある。現実の世界においては反省的均衡の中にこそ中庸があると見るべきだろう。我々は究極の地点に安住することはできないのである。

 

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主客未分について

2016-09-15 06:50:41 | 仏教

前回取り上げた南直哉さんの「よく言うよ」の記事の中で、ちょっと引っかかる表現があったので、少し注文を付けておきたい。問題となるのは次の表現である。

≪ 鈴木の『即非の論理』は、とどのつまり、主体と客体が未分の状態(Aと非Aの同一)、つまり『見性』的状態を理屈っぽく言い換えたものに過ぎない。 ≫

主客未分の状態に至ること、それが悟りであるかのように誤解されているが、そうではない。我々は普段から通常は主客未分の状態なのである。なぜなら、「主」というものを私の意識とするなら、私の意識にあるものは「客」ばかりであって、「主」たる私の意識はそこにないからである。

綿密に自分の意識の中を見渡せば、主客の主は実はどこにも見当たらない。一体、主客の二項対立というものはどこから来たのだろう。おそらく心理学者の言うように鏡像の時代を経て、自分も隣の家の次郎君と同じような人間であると知るようになる。つまりここで、推論による「世界」の構成が行われているのである。ここで問題なのは、自分自身を相対化して次郎君と同じような、この世界の中の一点景として見ていることである。つまり、本来「主」としていたはずのものがいつの間にか「客」として客観世界の中に取り込まれている。

西田はこの問題を『自覚に於る直観と反省』という論文の中で、「英国にいて英国の完全な地図を描く」と言う哲学的な問題として取り上げている。

ここで言う完全な地図とは、あらゆる要素を一定の縮尺率で書きこんだものと言う意味である。例えば家一軒々々はおろか、もっと微細なものまですべてが記されているそんな地図である。もちろんそんなものは実現不可能であるが、あくまで思考実験として考えてみるのである。

この地図が例えばどこかの大きな広場で描かれていたとする。と、「英国にいて」とあるので、この広場自体も地図上に記載されていなければならない。ならば当然、この地図そのものもこの地図上に記載されねばならない。

勘のいい方はもうお分かりだと思うが、地図の中の地図にもこの地図が記載されていなくてはならない。というわけで、地図の中の地図の中の地図の中の地図の中の‥‥、というわけで無限に循環してしまう。
このことがなぜ哲学で論じられるのかと言うと、自分が自分を認識できるのかという問題と重なるからである。

仏教においては、認識できる「自己」というものは錯覚に過ぎない。釈尊はそのような「自己」に執着してはならない、と説くのである。悟りとはそのような「自己」は存在しないと腹の底から納得することである。

であるから、「主体と客体が未分の状態」は通常の状態であり、「Aと非Aの同一」(無分別の状態)とは違う。Aと非Aはともに客体であり、この点において、南さんは勘違いされている。主客未分の状態でも分別はあるのである。

多くの方々が「主客未分」を特殊な境地であると勘違いしているが、そもそも「主客二元」というのは思考の中にしか存在しないのである。禅者は内観によって主客二元が虚構であることを知らねばならない。

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臨済禅と曹洞禅

2016-09-11 06:57:05 | 仏教

臨済禅は看話禅、曹洞禅は黙照禅、とよく言われる。私は曹洞宗についてはほとんど何も知らなかったので、公案をどの程度修行に取り入れているかの違いで、本質的な違いはないのだと思っていた。しかし、それはどうも違うらしい。同じ仏教と言っても臨済宗と浄土真宗では悟りへの道程がかなり違うように、臨済宗と曹洞宗にもそれと同じほどの隔たりがあるらしい。

恐山院代の南直哉さんは、哲学にも造詣が深い曹洞宗の禅僧である。どこかで聞いたような話を繰り返している凡庸な僧や仏教評論家とは違い、常に自分の体験から会得したものを自分の言葉で語る。だから彼の言葉は大胆かつ創造的である。これからの仏教を背負って立つリーダーにふさわしい人物だと思う。

その南さんが「鈴木大拙に『正法眼蔵』はわからない」というようなことを言っている。(参照=>「恐山あれこれ日記」)
禅の世界的権威である鈴木大拙のことをこんな風に言えるのは、おそらく南さんしかいないのではないかと思う。一見、暴言のようにも思えるが、大拙の方でも西田幾多郎との会話の中で、「道元は悟っていない」と言っているのでおあいこだろう。

この両者の食い違いは、やはり見性に対する評価の違いであろう。臨済宗ではまずなにより見性が重視されるが、南さんの言葉によればそれは一種の異常心理に過ぎない。見性を身心脱落や非思量と区別すべきだというのである。

見性はこの世界の玄妙さを知らしめる貴重な体験であると思う。俗にいう「手の舞い足の踏むところを知らず」というような喜びはさらなる精進への強い動機となる。さらに修行に打ち込んで、僧はやがて立派な善智識になるのだろう。しかし、見性をそのまま悟りと言ってしまうのは、やはり問題がある。

見性にはある種の万能感が伴う。絶対的境地に立ったと錯覚しうるのである。それは一切皆空を根本原理とする仏教の精神に沿うものではない。(この辺の事情については以前「禅はカルトか?」という記事で述べた。ご参照ください。) それに見性は修行へのさらなる動機とはなっても、それ自体が人そのものを変えてしまうわけではない。見性はいわば既成観念の破壊である。それはそれですごいことではあるが、言葉にすればただそれだけのことでしかない。大乗仏教においてはそれさえも相対化されねばならないものである。悟後の修行の重要性が強調されるのもそういう事情があるからである。

さらに南師は、大拙の即非の論理が「『金剛般若経』中の該当する一句の解釈として適当かどうかも別だし」と指摘しているが、私もそのことには一理あると思う。

金剛般若経では「山は山にあらず是を山と名づける」となっているが、大拙はこれを「山は山にあらずゆえに山なり」と一歩踏み込んで解釈している。やはりこれは大拙居士の見性経験から来ている、彼独自の解釈であると見るべきだろう。大拙居士が正しいとか間違っているというより、お経はその人の境地に合わせて解釈されることの一例である。

哲学においては、「Aは非Aと同一」と言った時点でアウトである。すべての意味が剥落してしまい、そこからは何も導き出すことはできない。勿論、大拙は哲学ではなく宗教体験として「無分別の分別」ということを語るのであろうが、あくまでそれは大拙の言葉・体験である。他の人間も口裏を合わせて、「即非の論理」・「無分別の分別」を公共の言葉で語り、定着させることには抵抗を感じる。「即非の論理」はあくまで論理ではないということを確認しておきたい。

見性は既成の世界観を打破するという意味においてやはり重要であり、臨済宗はやはりこれからも見性中心の宗教で行くべきだと思う。現にそれが高いハードルとなっているために、僧の資質レベルが他宗に比べて高く維持されている。(ように私には思える。) しかし、あらゆる固定観念を否定する仏教という観点からみれば、南師の指摘は十分考慮するに値する。絶対の境地からくる独断は極力避けねばならない。修行とは反省的均衡の中に中庸を見出すことではないだろうか。

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(恵林寺山門)

コメント (7)
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