禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

公案に関する哲学的見解

2016-11-29 17:04:37 | 公案

公案名をクリックすると当該の記事にジャンプします。

 ① 非風非幡

 ② 久響龍潭

 ③ 百丈野鴨子

 ④ 倩女離魂 ( せいじょりこん )

 ⑤ 倶胝竪指(ぐていじゅし)

 ⑥ 婆子焼庵

 ⑦ 狗子仏性(趙州無字)

 ⑧ 庭前拍樹

   ⑨  百丈野狐(不落因果・不昧因果)

  ⑩ 隻手音声を聴け

  ⑪ 一日作さざれば一日食らわず


 ※ あくまで私個人の哲学的見解です。参禅の為には参考にしない方が良いでしょう。

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「なぜ、脳は神を創ったのか?」 (苫米地英人)

2016-11-29 07:53:39 | 読書感想文

苫米地さんは脳機能学者であり、また、認知科学、分析哲学者を自称する方ですが、著書の多くはわりとくだけた説明をする、学者らしくない人です。たくさんの著書をものにして、セミナーを開いたりして結構影響力のある人らしいのですが、その主張の中に一部腑に落ちない点もあるので、このブログで取り上げることにしました。

彼は自分の主張の根拠として、物理学における不確定性原理と数学における不完全性定理を引き合いに出すことが多いのですが、その引用のされ方に相当な疑問が見受けられるので問題にしたいと思います。

不確定性原理とは「粒子の運動量と位置を同時に正確には測ることができない」という原理です。それは現在の科学力では正確に測れないということではなく、原理的に不可能であるということを意味します。そのことから苫米地氏は次のように言います。

≪ また、量子論は、宗教的な運命論を否定します。量子の状態はすべて確率であるという点で、確率100%の現象はない、ということになります。この世のすべての現象は、可能性の高いか低いかの違いはあるものの、すべて確率によって決まるということです。 ≫

「宗教的な運命論」というのは神がすべてを決定しているという考えのことでしょう。ここで苫米地氏は、不確定性理論により未来は決して決定していないということから、神がすべてを決定しているはずがないという結論を導き出しているのです。ここには明らかな論理の飛躍があります。

未来は確率的にしか決定していないことから、神が未来を決定する能力がないということを導き出しているわけです。しかし、私に言わせれば、未来が自然法則によって必然的に決定されているならば、それこそ神は世界の創生だけにかかわっているだけで、その後は神の存在感はまったくなくなってしまいます。
苫米地さんの言い分を認めるならば、未来は確率的にしか決定していないにもかかわらず、現実にはその確率の中の一過程を選び取っているわけで、それこそその決定には我々には不可知な力が働いていることになります。むしろそれこそが神の御業ともいい得るわけで、少なくとも神の不存在の理由にはならないと考えます。

次に、苫米地さんが神の不存在の根拠としている不完全性定理について説明したいと思います。不確定性原理と名前は似ていますが、こちらは数学の定理です。苫米地さんの考え方の筋道をかいつまんで言うと次のようになります。

苫米地さんは神の概念を万能であるとしていて、その「万能」の意味を「言葉で表現できることは何でもできる」と定義しているようです。つまり、「いかなる楯も突き破る鉾といかなる矛をも通さない盾を同時に造る」とか「『この紙に書かれていることは嘘です』と書かれた紙に書かれていることの真偽を知る」というような能力も「万能」の中に含まれていなくてはならないとしているのです。そして、神さえもこのようなパラドクスを解けるはずがないから、「神は万能でない」つまり、「万能の神は存在しない」、よって、「神は存在しない」という奇妙な論理を展開しているのです。

「『この紙に書かれていることは嘘です』と書かれた紙」に書かれたような文のことを「自己言及文」と言います。不完全性定理というのは自己言及パラドックスに関する定理なのです。「不完全性」という名前から、なんとなく「数学に何かの欠陥がある」というようなニュアンスに解釈されがちですが、そうではありません。無矛盾な数学の体系の中に「この命題は証明できない」という意味の命題が存在するということを証明したのが第一不完全性定理定理です。

「この命題は証明できない」という意味の命題がもし証明できたならば、その数学体系は矛盾しているということになります。もしこの命題が証明できないことが証明できたなら、この命題の意味からしてやはり「この命題は証明できない」という命題が証明されたこととなりやはり矛盾となります。つまり、数学体系が無矛盾であれば、この命題は証明も否定の証明もできないわけです。証明も否定の証明もできない命題が存在する、このことを指して数学体系が「不完全」であるといっているのです。ここでいう「不完全」の意味のニュアンスが理解していただけたでしょうか。

第一不完全性定理をさらに発展させて、「その系の中ではその系の無矛盾性を証明することが出来ない」という第二不完全性定理が導き出されます。そのことがさらに数学の「不完全性」というものを印象付けているのですが、よく考えてみればこれは当たり前のことであります。人間自身に例えれば、自分でで自分の論理を積み上げているかぎり、その理論の評価は自分ではできません。」 明らかな矛盾が露呈した場合、自分で矛盾を認識できるのは数学も人間も同じですが、矛盾が発見されなかったとしても、人間も数学も自分自身の無矛盾性を証明することはできないのです。

苫米地さんは、このことから「完全なシステムは存在しない」と言い、さらに「完全なシステム」であるはずの神も存在しないと主張するのです。それはあたかも、「神はどんな重いものでも持ち上げられるはずだが、神でも持ち上げられないほど重い岩を造れないのは神ではない。」と言っているように私には聞こえます。神は人知を超えた超越的存在とされているのですから、その存在も非存在も論理的には証明され得ないとするのが妥当であると思います。

最後にもう一点、先にあげた不確定性原理によって展開された量子論を、仏教にらおける「空」と関連付けていることに注文をつけたいと思います。「空」の概念は仏教においては根本的なものであり、科学上のいかなる発見があろうとなかろうと影響のあるものではないということを強調したいと思うのです。量子論がいかに「空」と合致しようと、それによって「空」の概念が補強されるということはありません。色即是空ですから、どのようなものも「空」に合致するのは当たり前なのです。

 

南足柄にて

 

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われ思うゆえにわれはあるか?

2016-11-27 06:27:24 | 哲学

デカルトは本当の真理というものを求めるために、疑えるものはすべて疑ったうえで本当に確かなものは何だろう、と考えました。そのように考えると、今まで受け入れてきたことが実はすべて疑わしい。しかし、徹底的に疑ったとしても、どうしてもそこに疑っている自分がいることは否定できない、ことに気づいたのです。つまり、すべての思考には、「私は考える」ということがついてまわるというわけです。

しかし、「私は考える。だから私はある。」という言い方には問題があります。まず、「私」がなければ「私は考える。」ということが言えないわけで、前提の中に既に結論が組み込まれているわけです。「私は考える。」と言えるためには、まず「私」がどのようなものであるかが分かっていなければならないはずです。果たして、考える「私」とはいったいどのようなものでしょうか。

今この記事を読んでいるあなたの脳裏にはいろんな感覚が渦巻いていますね。「御坊哲は一体何を下らんことを言っているのだ」というような考えがよぎったり、空腹を感じていたり、なんとなく腕のだるさを感じていたりするかもしれません。しかし、その中に「これが自分だ」と明晰にとらえることが出来るものがあるでしょうか。おそらく、今浮かんでいる考えや感じている感覚そのものを自分だと感じているのであって、「考えている自分」や「感じている自分」は把握できていないはずです。

ここのところが難しい所ですが、仏教哲学ではどこをどう探しても「これが自分だ」というものは見つからなかったというのが結論です。単に「考えた」だけでは自分があることの根拠にはならない。何かを考えても、「考え」があるだけで「考えている自分」が見当たらないのです。禅のお坊さんは、木を見ると「自分が木になる」というふうな言い方をします。それは、木を見ている時には、そこに「木が見えている」だけであって、「見ている自分」というものが実はないということを言っているのです。

ところがヨーロッパ語では、何かが脳裏に浮かんだ時には、必ず考える主体がなくてはならないことになっています。文法として、「考える」という動詞には主語が必要なので、すべての思考には「私は考える」ということが文法的に必ずついてまわります。不可避的に、「考えているのは私である」ということになってしまうのです。だからデカルトが、「私は考える。だから私はある。」と考えたのも無理はないのです。

禅者は言語に迷わされないで直接自分を内観します。そして「無だっ!」と喝破するのです。自己を究明していくと、あるはずと思っていたものがない、だから究極の自己は「無」であるというわけです。色即是空の「空」と混同されて論じられるむきもありますが、別の概念です。

大船観音 (神奈川県鎌倉市)

 

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『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない

2016-11-23 14:45:26 | 仏教

≪ 「『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の見解における過誤(あやまり)をみて固執することなく、省察しつつ内心のやすらぎをわたくしは見た。」(雑阿含経より) ≫-「原始仏教」(中村元)P.50

仏教の根本原理が「一切皆空」であるならば、仏教は絶対的根拠というものを持たないということになります。ものごとをとことん追求していけば、最終的にニヒルに突き当たるしかない。ものごとの根源的理由というものは存在しないのです。ですから、仏教には哲学的断定というものがありません。すべては相対的でしかないのです。

龍樹は「空とは縁起のことである。」と言います。縁起とはものごとの関係性のことです。善悪も人間の欲望やその時代の生活様式、社会制度、通念、言語、法律‥‥、あらゆる要素の関係性の中から生まれてくるのであって、絶対的な善悪というものがあるわけではないのです。つまり、ロゴスによる善悪の規定がないというのが仏教の大きな特徴です。

すべてが相対的であるならば、独自の立論というものもありません。ですから、仏教はイデオロギーを持たないのです。イデオロギーは立場が違えば必ず対立します、各々自分の価値観を絶対視するからです。自分を相対化しない限り、妥協はあり得ません。以上のような観点から、中村元博士は初期の仏教の顕著な特徴として次の2点を挙げています。

 ①無意義な、用のないことがらを議論するな。
 ②われわれは、はっきりした確実な根拠をもっているのでなければ、
  やたらに議論してはならぬ。
  (「原始仏教」(中村元)P.52)

仏教徒に対立は似合わない。「法論はどちらが負けても釈迦の恥」という言葉がありますが、一見くだけた表現の裏には上記のような哲理が含まれているのであります。

大雄山最乗寺にて (神奈川県南足柄市)

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一切衆生悉有仏性

2016-11-22 12:38:45 | 雑感

コトバンクによれば、「生きとし生けるものは,すべて仏陀になる可能性 (仏性) をもっており,すべて悟りうるという仏教の思想。」と説明されています。ひろさちやさんによれば、「宇宙すべてが仏性である。」というのが道元の解釈だそうです。天台宗では「山川草木悉有仏性」と言っているので、鎌倉以降の日本仏教では概ね無生物も含めてすべてのものには仏性があるとされているとみて間違いないでしょう。

昨日(11/21)の100分de名著「正法眼蔵」では、「無仏性という仏性」などという言葉も出てきましたが、確かにあらゆるものが仏性であるならばそういうことも言えるだろうと思います。しかし、一言くぎを刺しておくなら、「仏性」という言葉の意味が分からねばそれらの言辞はすべて空しい、ということを言わねばなりません。

「仏性」が「仏陀になる可能性」を意味するのなら、「仏陀」の意味が分からなければ「仏性」が分かるとは言えないはずです。石ころが仏陀になった状態がどういうものであるかがわからなければ、軽々しく「山川草木悉有仏性」とは言えないのではないでしょうか。

私は「仏性」というものがどういう意味なのか、率直に申しまして分かりません。分からないので、「山川草木悉有仏性」の意味は「山川草木を悉く慈しみなさい」というふうに勝手に解釈しています。禅坊さんは「水一滴にも命がある、粗末にしてはならない」と言います。この場合の「命」は「仏性」と同じ意味だと思います。つまり、石ころ一つ、水一滴に感情移入できるかどうかということが問題になるのであって、「仏性」がなんであるかということは誰も問題にしていないように考えているのです。

そういう観点から見れば、「宇宙すべてが仏性である」という言明は「世界は慈愛に満ちている」と言ってもいいかもしれない。けれど、「無仏性という仏性」という言い方は哲学的には無理があるような気がします。そういうふうに思うのは私が「仏性」の意味を理解していないからでしょうか。どなたか教えてください。

大雄山最乗寺にて (神奈川県南足柄市)

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