禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

トランセンデンス

2014-06-30 10:21:40 | 哲学

現在、ジョニー・デップ主演の映画「トランセンデンス」が上映されている。

<<  コンピューター科学者のウィル・キャスターとその妻エヴリンは世界初の人工頭脳を研究していた。しかし、ウィルは反テクノロジーを唱える過激派テロ組織によって暗殺されてしまう。エヴリンは夫を救うべく、ウィルの意識を人工頭脳にアップロードする。 >>

現在のコンピューターは、人間の論理的思考はすべてプログラミングすることができる。したがって、どんな難しい数学理論の証明もコンピューターは理解することはできる。ゲーデルの不完全性理論もプログラミングすることはできるのである

しかし、現時点のコンピューターは高等数学理論の証明を組み込むことはできても、自分でそのような証明を考えようというモチベーションを持つことはない。コンピューターを人工頭脳といえるまでに高めるには、感情や衝動という機能も組み込まなくてはならないだろうが、それらの仕組みはまだほとんど解明されていない。あくまでコンピューターは「計算機」であり、「知能」と呼ばれるには程遠い存在である。

 と、いうような身もふたもないことを言いたいわけではない。ウィルの意識をアップロードされた人工頭脳はウィルその人だろうかということを問題にしたいのである

妻エヴリンから見れば、そのコンピューターは紛れもなく夫のウィルである。共にしてきた夫婦生活をを共有しているからである。彼女から見れば「彼」を夫ではないと疑う理由はないはずだ。また、コンピューターのウィル自身が「自分はウィルである」という自意識を持っているはずだ。人間であった時から記憶を通じて意識は連続しているからである。

だが、ここでウィルが死なないで生き残ったと仮定したらどうだろうか? その場合は当然、エヴリンは生身のウィルをウィル本人とみなすだろう。コンピューターのウィルはあくまでコピーでしかない。コンピューターのウィルは当惑するだろう。明らかに自分自身は「自分がウィルである」という実感を持ちながら、自分の変わり果てた姿と生身のウィルを見て、自分がコピーであるという可能性を認めざるを得ないからである。

ここでもう一つひねって、このコンピューターを見かけ上も全く人間と変わらないアンドロイドだと仮定してみたらどうだろう。エヴリンだけでなくもう誰も本当のウィルだかわからなくなってしまう。当の生身のウィルさえ混乱するのではないだろうか。第三者が人を識別するのは、その人の肉体と経験しかないのである。

このように問題を設定すると、無門関第35則「倩女離魂」と同じであることがわかる。本来の「自分」というものを肉体や経験から独立したものであるとするならば、どれが本当のウィルであるとは言いにくくなる。魂の特定をする超越的立場には誰にも立ちえないからである。

哲学者の永井均さんの言葉を借りて言うならば、「その時、自分である者が自分なのである。」ということだけは言えると思う。

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時間はどちらに流れている?

2014-06-28 19:33:20 | 哲学

以前、「禅的直観と論理世界 」という記事の中で、次のように述べた。

≪禅的ものの見方というものを定義するとすれば、「究極の素朴さをもってものを見る」と言えばよいような気がする。見えるものを見えると言い、見えないものを見えないということである。人は時として、見えないものを見えるといったりするものである。≫ 

「見えないものを見る」というと禅の公案のようでもあるが、ここで言っているのは謬見のことである。つまり錯覚である。今回はこの謬見の例について述べてみようと思う。よく「時間が流れる」というような言い方をするのだが、いったい時間はどこからどこへ流れているのだろう?

 

右から左などという人はいない。たいていの人は、「過去から未来へ」または「未来から過去へ」と言う。

しかし、例えば「過去から未来へ」というならば、時間というものが過去にあって、それが現在にやって来て、そして未来の方に行ってしまうのか?
そのように問うとどうも要領を得ないのである。

 

「過去から未来へ流れている」と言うには、まず過去の中に時間を見、そしてそれが現在、未来へと移っていく様を見ているはずでなくてはならないのだが、どうもそうではないらしい。実は、見えていないのである。
見えていないから、禅者は(流れている)時間は無いというのである。

 

禅者は常に己事究明を心がけており、常に実存的な立ち位置からものを見ている。架空の視点というものをもたない。つまり、「今」と「ここ」しかないのである。

 

禅者にとっては、過去は記憶で未来は想像と同義である。つまり、過去も未来も存在しない。常に今である。


「今」は過去や未来と並べられる概念ではない。すでに生起した事実を想起する時その想起の内容を過去と呼び、これから生起するであろう事柄を想起する時その内容を未来と呼ぶのである。それらを想起しているのは今しているのであって、過去とか未来とか呼んでいるのは、その想起した内容のことである。このように考えると、過去とか未来とか呼んでいるその「時」が実はどこにもないのが了解していただけるだろうか?

 

純粋な時間というものがどうしても取り出せない。時間そのものを思い浮かべようとしてもどうしても無理なようだ。時間を思い浮かべようとすれば、動いてる時計のイメージや恋人を待つあいだの焦燥感だとか、どうしても他のものに付随する形式でなくては想いうかべることができない。

 

時間の概念がなぜ有効なのかを考えていくと、次の2つの要素に行きあたる。

 

 ① 出来事の順序関係
 ② 出来事の同時性

 

物理的要素という観点からすると、時間に関するものは結局この2点に収束する。

 

いろんなプロセスが同期するということから時間概念は生まれたのである。太陽や月の運行が振り子の振動数と厳密な関係にあると分かった時、我々は様々な運動やプロセスの量が振り子の振動数に還元できることを知ったのである。つまるところ、時間とは運動やプロセスの量をはかる尺度のことである。つまり、振り子の振動数そのものを時間と考えて何の不都合もないということである。つまり、「時間とは時計の針の動きそのもののことである」と定義すれば事足りる、というか、それ以上の意味が「時間」という言葉に含まれていると考えていることに、そもそもの問題があると私は考えているのである。

 

全身麻酔手術を経験したことがおありだろうか? 笑気ガスのマスクをあてがわれたとほぼ同時に意識がなくなる。その次の瞬間に、おぼろげな意識の中で手術台の照明が視野の中に浮かんでくる。もうその時には手術が終わっているのである。

 

私はその時、時間というものがいかなる意味においても、時計の針の動き以外のなにものでもないと悟ったのである。

 

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倩女離魂 ( せいじょりこん )

2014-06-25 09:31:52 | 公案

今回は無門関第35則「倩女離魂」を哲学的な観点から論じてみたい。

王宙と倩女は恋仲でお互いに夫婦になるものと心に決めていた。当初は倩女の両親も二人の仲を認めていたのだが、気が変わって別の有望な青年と倩女の結婚を決めてしまったのだった。失意の王宙は一人さびしくその土地を去ろうとして船着き場にきたのだったが、後ろの方から追いかけてくる足音がする。親の目を盗んで倩女が後を追いかけてきたのだった。二人は手に手をとって駆落ちしたのだった。
5年間の夫婦生活で子供も二人生れ幸せに暮らしていたのだが、黙って残してきた両親のことが気になって、倩女は一度実家に帰りたいと言いだした。そんなわけで二人は駆落ちした時の船着き場までやってきた。王宙は倩女の両親に謝罪するため、そこに倩女を残して先ず自分一人で妻の実家を訪れた。そして両親に不孝を詫びると、両親は一体何を言っているのだと怪訝な顔をする。倩女は王宙と一緒になれなかったことを嘆いて、5年間家から一歩も出ずに病に伏せっているというのだ。
そこへ、倩女が船着き場から遅れて実家に到着すると、家人は皆驚く。
そして抜け殻のようになったもう一人の倩女と対面すると、たちまち二人は合体して一人になってしまった。

実家で伏せっていた倩女と王宙と駆落ちした倩女、どちらが本物の倩女であるか? 駆落ちした倩女を魂、伏せっていた倩女を肉体とするなら、肉体と魂のどちらが本当の主体であるかを問うているとも考えられる。
この公案を哲学的に解釈するなら、哲学者永井均さんがその著書「の存在の比類なさ」で論じられている問題ではないだろうかと私は思った。永井さんなら、その時倩女であるものが倩女だと言うだろう。ここでいうは「世界の開け」そのもののことである。

公案はすべて難しいものだが、この公案はとりわけ「難透」というカテゴリーに入れられている。ほかならぬ白隠禅師がそのように分類したのである。ところが私には、この公案が「難透」である理由が分からないのである。ろくすっぽ修行もしていないお前が分からないのは当たり前ではないか、と言われれば返す言葉もないのだが、間違いを恐れずまた無知を恥じないのがこのブログのモットーであるから強引に話を進めることにする。

この公案の難しさというのは、「よりによってどうして自分が自分であるのか」ということの説明がつかないということではなかろうか。それはおそらく学問としての哲学からでは解決のつかない問題だと思う。哲学は公共の学問であるから、自己についても相対化しなければ議論できない。つまりこの世界を自分の外側から俯瞰する視線と自分の内側からみつめる二重の視線を重ね合わせながら解釈するのである。そのような観点から見ると、どうしても自分の「比類なさ」というものを解消できない。哲学的には難問中の難問といえる。

だが、ひとたび禅者の観点に立てば上記のような問題は霧散してしまう。禅者は究極の独我論者・独今論者である。自分を相対化する視線など持ちえない。あるのは「今」と「ここ」だけである。つまり、今ここに開けている世界を素朴に見つめるだけなのだ。この世界の「開け」こそが自分自身であり、それをありのまま受け入れる以外の視点は禅者にはあり得ないのである。

どちらが本物の倩女? と問われても、公案は自分の実存を離れて考えてはいけないのである。すべて「本当の自分はなにか?」という問題に還元されねばならない。今ここに開けている世界をありのまま受け入れるという不動の姿勢があれば、この公案は難透どころかやさしすぎる。問題ははじめから存在しないのである。

※ これはあくまで素人としての哲学的解釈です。全然見当違いのことを述べているかもしれません。専門家の方から見てご不審な点があればぜひご指導をお願いしたいと存じます。

 (参考 ==> 「公案インデックス」      ==>  現代版「倩女離魂」 )

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探し物は何ですか?

2014-06-24 13:21:31 | 哲学

最近老化現象が加速してきて、とかく忘れることが多くなった。
何かものを取ろうとして立ちあがったとたん、何のために立ち上がったのかを忘れている。主体が無意識であることを実感する瞬間だ。

若者にとって、自分が何を求めているのかが分からないということはよくあることである。それは今までに未経験のなにかしら衝動を感じているのだが、折り合いのつけ方が分からないのだろう。こんな時「自分は何を探すべきなのかを探している。」ということになる。わかるはずのない答えを探すのは禅の公案に似ているが、実のところ思考が空回りしていることが多い様だ。

 数学にしろ哲学にしろ、解き方以前に問題の意味が分からないということがままある。問題を解く前に、問題がどのように成立しているかを分析しなくてはならない。問題の構造さえ明らかになれば解き方はおのずから確定する。哲学の場合は、何を探しているかが分かった時点で、問題は解決であることが多い。

以前「朝はどこから」という歌について考えてみたことがある。人は何を答えとして求めているのか分からないまま問いを立てる、という例としてである。
私は幼稚園の頃、その歌を聴いて「ほんまに朝は何処から来るんやろ?」と真剣に考え込んでしまったのだ。その歌の歌詞からだと、それは明るい家庭から来るらしい。いかに幼稚園児といえども、そんな説明に納得するわけにいかなかった。

  ♪ 朝はどこから 来るかしら
  ♪ あの空越えて 雲越えて
  ♪ 光の国から 来るかしら
  ♪ いえいえ そうではありませぬ
  ♪ それは 希望の家庭から
  ♪ 朝が来る来る 朝が来る
  ♪ 「おはよう」「おはよう」

  概念という記号があれば、私たちは機械的にいくらでも問題を組み立てることができる。

   ・地獄は何丁目まであるか?
   ・生まれる前の自分と死んだ後の自分とどちらが喧嘩に強いか?
   ・聖徳太子はなぜ東京タワーで生まれたのか?

 このような明らかに荒唐無稽な問いは愛嬌であるが、論じている内容が不明なまま議論していることは、日常的にもままあることではないのだろうか、と感じる今日この頃である。

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意識現象が唯一の実在である

2014-06-22 07:15:53 | 哲学

「意識現象が唯一の実在である」というのは、「善の研究」の第2編第2章のタイトルである。

「意識現象」というと、なんとなくそれはリアルではない一種の幻影のようなニュアンスがある。少なくともそれは「実体」ではないというのが大方の受け止め方であろうが、西田はそれこそが実在であるというのである。

ここで西田が言う「実在」については少し説明が必要だろう。例えば、目の前にリンゴがあったとする。我々の多くは、リンゴの実体がそこにあって、それから反射した光からの刺激を視神経が受け止めて、リンゴのイメージを認識すると考える。つまり、ここにはリンゴの「実体」と「イメージ」という2つのものが存在するわけである。そして普通は実体の方を実在すると考え、イメージの方は虚像であると考える。しかし西田は、我々にとってリアルな現実というのはイメージの方であるというのである。 

 このことについては、現象学の始祖であるフッサールも同じことを言っている。従来は、「リンゴの実体がそこにあるので私たちに赤くて丸いものが見えている」と考えられていたが、フッサールは「赤くて丸いものが見えているから私たちはそこにリンゴがあると確信する」と考えたのである。

よくよく反省すれば、確実に言えることは「赤くて丸いものが見えている」という事実だけなのである。むしろ実体と思われていたものは、その事実から推論されたものに過ぎない、という主張は妥当なもののように思われる。西田はリンゴのイメージを「意識現象」、そして実体の方を「物体現象」として、次のように表現している。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

物体現象は「各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象」、つまり論理的に構成した仮説であると言っているのである。 

 西田やフッサールは、従来は実と考えられていたものが虚、虚と考えられていたものが実であると主張するのである。

 「意識現象」という言葉は西田が主張しようとしていることからすると適切ではないかもしれない。意識現象と言うからには意識する主体があるはずだからである。しかしここのところが西洋哲学と西田哲学の大きな分かれ目となる。、西田は主体を設定せず、「意識現象」がただ「実在である」とだけいうのだ。

    では、その「意識現象」はどこにあるのか?

西田はそれを「場所」と名づけた。どこの場所か? 実は「場所」はどこの場所てもない場所である。どこでもないどころか、いかなる形容もできない、何ものでもないそのものに、あえて「場所」と名づけたのである。何ものでもないところから、それは「無の場所」と呼ばれる。

あえて言うなら、それは映画のスクリーンに例えることができるかもしれない。
映画のスクリーンは白い布でできているので無とは言えないが、それは我々が映画をその外側から見ているからである。映画の中に入ってしまえば、スクリーンそのものを見ることはできなくなる。映画の中の世界においてスクリーンは「無の場所」と言える。

無の場所に意識現象(純粋経験)が自己展開されていく、というのが西田哲学の主張するところである。これは禅者の見る世界とまったく一致している。

次は、道元禅師の正法眼蔵の有名な一節である。

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。

以前の記事でも述べたが、ここでいう万法は、自分の感官に触れるものすべてという意味である。目の前にそびえる山、鳥のさえずり、ほおをなでる風、カレーライスの匂い、これらのすべてを万法と呼んでいる。西田の言う「意識現象」(純粋経験)のことである。

ここに認識する私(自己)というものはない。私(自己)は経験する主体ではなく、経験の中に顕現してくるものである。西田も道元も固定的な私(自己]は想定していない。禅者は雲を見れば自分が雲になるという。音楽を聴けば自分が音楽になるという。これが「万法に証せらるる」ということである。固定的な私はない。私は経験の中にダイナミックに成立しているのである。

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