禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

心はどこにある?

2018-08-31 10:23:44 | 雑感

この問題の難しさは、位置というものの絶対的な基準がないことにもあるが、心というものがなにを指すのかがそもそも明確でないことにある。位置というのは物の世界におけることであり、物と心の関わりというものが明確でないかぎり位置も示せないはずである。。だとすれば、心がどこにあるかを特定できると考える方がむしろおかしいような気がしてくる。 

思うに、たいていの人は目の後ろの方、つまり脳でものを考えているように感じているのではないだろうか、実は私もそのように感じていた。しかし、そのように感じるのは、精神の中に占める視覚の比重が大きいからではないかと思う。もし、眼が膝頭についていたら、膝裏で考えているように感じるということもあったのではないだろうかと私は思うのである。 


虚心坦懐に反省してみると、パソコンに向かっている時は文字が語りかけてくる。私の思考はディスプレイ上で展開されている。手を伸ばしてものを掴もうとするとき、掴もうと意志しているのは私の手である感じがする。他人と怒鳴りあいをしている時、怒っているのは私の口ではないだろうか。 

「私が悲しい時、世界が悲しんでいる。」という言葉を誰が言っていたのかが思い出せないが、言い得て妙だと思う。私が悲しいとは、世界が悲しみの相貌を帯びていることだろう。実は、心はそのような広がりをもっている。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思考し表象する主体は存在しない

2018-08-30 10:16:30 | 哲学

ウィトゲンシュタインは二十世紀最高の哲学者と言われているが、その言説が禅に通じるところがあるとも言われている。現実には、両者の隔たりは大きく、ある意味において対極にあるのではないかと私は考えている。しかし、ウィトゲンシュタインの言葉には確かに禅に通じるものがあることは間違いない。以下に、『論理哲学論考』の5.631項を引用する。

【 5.631 思考し表象する主体は存在しない。

 「私が見出した世界」という書物を私が書くとすれば、その書物の中で私の身体についても報告がなされ、また、どの部分が私の意思に従い、どの部分が従わないか等も語られなければならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりもむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法なのである。すなわち、この書物の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。】

つまり、この世界についてのあらゆる事柄を記した書物を書いたとしても、その書物の中に「私」は登場してこない、と述べているのである。目の前に山や川や木がある、カレーライスの匂いがする、鳥のさえずりが聞こえる。しかし、それらを認識している主体「私」はどこにも見つからない。道元禅師の「自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり」という言葉に通じるものがある。万法とは、山や川や木、カレーライスの匂い、鳥のさえずり等のことである。「私」というものはそれらとの関係性の中に構成されたものに過ぎない。

ウィトゲンシュタインと禅者に共通点があるとすれば、虚心坦懐にものを「見る」というところにあるのだと思う。主体の非存在ということは単なる事実であるから、坐禅による瞑想によらなければ知りえないという性質のものではない。西洋哲学においても、いつまでも主客二元的な枠組みにとらわれているわけではないということなのだろう。このことをもって、ウィトゲンシュタインと禅が近いということは言えないように思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

万有引力とは何か?

2018-08-28 10:40:01 | 哲学

先日来、この世界について何かを知るということはどういうことなのだろうと考え続けている。で、結局のところ、この世界の「秘密」を知るというような意味での知り方、というものはないのではないかと思うようになった。私はもともと、この世界のことなど何も知らないのである。世界とは私の経験である、とすれば、もともと世界に秘密などなく、私は世界を受容していくだけのことしかできない。

人は、科学がわれわれになにかを教えてくれると思いがちである。しかし、科学というものを煎じ詰めてみると、結局それは人々の経験を集積したものを抽象し一般化したものに過ぎない。つまり、この世界の秩序を経験から一般化したものを科学と呼んでいるのである。したがって、哲学的な視点から見れば、科学というものはこの世界の秘密を解き明かすという性質のものではなく、世界の秩序を再確認するものでしかありえない。

手で持ち上げたリンゴを空中で離すと、そのリンゴは地面に落ちてしまう。物理学者は「リンゴと地球が万有引力で引き合っているからである。」と説明する。人々はその説明を聞いて一応は納得する。しかし、一体何に対して納得したのであろうか。人々ははたして万有引力を見たのだろうか? 万有引力を見た人などいないはずである。人々はリンゴが落ちるのを見ていただけである。もともと、人々はリンゴが落ちるということを知っていた。しかし、リンゴがなぜ落ちるのかということは知らなかった。それに対してニュートンは「万有引力があるから落ちるのである」という一つの解答をもたらしてくれた。

しかし、哲学的に見ればこれは何の説明にもなっていない。なぜなら、リンゴが落ちるから万有引力があると推論したのである。

 「リンゴが落ちる」 ⇒ 「万有引力がある」 ⇒ 「リンゴが落ちる」

説明が循環している。「リンゴが落ちる」ことと「万有引力がある」ことは実は同じことを違う言葉で表現したに過ぎない。もともと哲学的には等価なのだから、万有引力はもともとの「なぜリンゴがなぜ落ちるのか?」という問いの答えにはなりえない。「万有引力があるから」と答えたとしても、元の問いが「なぜ万有引力があるのか?」に変わるだけのことである。

「リンゴが落ちる」ということを「万有引力がある」と言い換えることは、科学的にはもちろん意義のあることである。万有引力という概念を導入することによって、「リンゴが落ちる」ことだけではなく「地球が太陽の周りをまわっている」というような、別のことがらも統一的に説明できるようになった。できるだけ少ない要素・法則で多くのことがらを説明することが科学の使命である。しかし、万有引力の発見によって、この世界の何かについて新たなことが分かった、というようなことはないのである。

( 関連記事 ==> 非風非幡 )

 


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私はなぜ私なのか?

2018-08-27 05:05:12 | 哲学

前回記事では、「世界はなぜあるのか?」という問題は、あまりにも根源的過ぎるがゆえに疑似問題である、というようなことを述べたのだが、今回は、この問題に劣らず根源的な問題として、「私はなぜ私なのか?」ということをとり上げたい。

唯物論者は精神活動もすべて物質的な物理現象に還元されると言う。脳や脊髄ができれば自然とものを考え出すらしいのだが、そんなこと言われても、「私の比類なさ」というものは決して解消されない。毎日々々生命が生まれかつ死んでいる、あまたある生命の内で、なぜよりにもよって私は私として生まれ生きているのか、ということが問題として残るのである。あくまで、この世界は私の世界として開けている。他の人の目ではなく、私の目からしかこの世界は見えないのである。「天上天下唯我独尊」というのはこのことを指すのだろう。そういう意味で、この世界は私の世界である。そこまで思い至れば、この問題が「世界はなぜあるのか?」という問題と通底していることがわかるはずである。

「世界はなぜあるのか?」という問題が成立するためには、「世界がない」状態というものが想定されなければならないように、「私はなぜ私なのか?」という問題が成立するためには「私が私でない」という状態が想定できねばならない。あまりにも「当たり前すぎる」ことというのは、それがどういうことであるのかが分かっていない、ということを常に疑う必要がある。

「私が私でない」という状態を想定することなど簡単だと思われるかもしれない。自分がクレオパトラになったところを想像すれば良いではないか、と言う訳にはいかないのである。それでは、「世界がない」状態としての暗黒の宇宙を想像するのと同じことである。私がクレオパトラになったところを想像したとしても、私の肉体がクレオパトラの肉体になっている状態を想像しているだけのことで、あくまで私は依然として私でしかないからである。どんな状態になっても私は「私は私だ」と言い続けているはずである。

己事究明を第一課題として掲げている禅においても、「私はなぜ私なのか?」ということは当然問題にされなければならない。無門関第35則(参照==>「倩女離魂」)はそのことに関する公案である。心を引き裂かれた女性が二人の人間に分離してしまう。一人の人間が二つの人格に分割されることを想像できるなら「私はなぜ私なのか?」という問いに答えることができる見通しがつく。禅者ならそれができるかもしれない。しかし、哲学的にはこれは疑似問題である。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

答えのない問題は疑似問題である

2018-08-26 08:31:47 | 哲学

世の中にはいろいろ難しい問題がある。しかし、どれほど難しい問題であろうと、それがなにを問うているのかがわかれば、答えの形式については分かるものである。「テーブルに置いてあった大福が無くなったのはなぜか?」という問いならば、「食いしん坊の哲が食べてしまったからだ」というような解答が期待される。フェルマーの定理を証明することは私には到底できないが、公理から始めて論理を演繹していきその定理に到達すればよいのだということくらいは分かる。

では、「世界はなぜあるのか?」という問いには、どのような形の解答が与えられるべきだろうか? たいていの人は見当もつかないはずである。「ビッグバンによっていきなり世界は始まった」というような回答は駄目である。科学で説明できるのは、せいぜい現象の移り変わりを法則によって説明するだけのことに過ぎない。「世界はなぜあるのか?」という問いには、そもそもそのような法則がなぜあるのかということも含まれているはずである。

回答の形が想像できないという意味で、「世界はなぜあるのか?」という問いはたぶん疑似問題だろうと思う。疑似問題というのは一体何を問うているのかが分からない、つまり問題の意味が分からない、だから答えようもない、そういう問題のことである。私はいとも簡単に「世界はなぜあるのか?」とつぶやいて見せるが、実は自分で自分が何を言っているのかが分からない、そういう意味である。

おそらく私たちは「世界がある」ということの意味がわかっていないのだと思う。と言うとあなたは、「だって世界は現にあるじゃないかっ!」と色をなして反論するかもしれない。しかし、「世界がある」ということがわかるためには、「世界がない」という状態がどういうものであるかも分かっていないと、そういうことは言えないのである。私達は決して「世界がない」状態を想像することはできない。「世界がない」場合には、それを想像するあなたもいないからである。あなたがいないことをあなたが想像するというのは、暗黒の宇宙を想像することとは別のことであるということを知っていなくてはならない。

「無記」というのは、仏教における疑似問題への態度のことを言うのだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする