禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

駅へ顔も名前も知らない人を迎えに行くということ

2013-12-30 17:54:52 | 哲学

駅や空港へ人を迎えに行くことはよくあることだが、迎えに行く人の名前を知らないなどということはまずありえない。ところが哲学的(?)議論の中では、誰を迎えるのか分からないまま行くようなことがままあるのだ。

例えばいわゆる「自分探し」。探す対象の「自分」がなんであるかを分からないまま探している。自分が探しているものがなにかわからずに探すことはできない、と若者に言ったら、「自分が何を探しているか、それを探している。」と答えが返ってきた。

「生きる目的を見つける」というのもこれによく似ている。我々は既に生きているというのに、あとづけでその目的を探さねばならないとは‥‥。個人的には、「充実感をもって生きるためには具体的にどうするべきだろう?」というふうに問い直せばよいだけのように思えるのだが、なぜか自分の人生に宗教的ミッションを負わせたがる人がままいるようだ。

さて、今日の本題として、自殺をとり上げたいと思う。自殺もまた「知らぬ人を迎えに行く」行為に似ていると言いたいのである。

ここでもし素朴に反省してみるなら、我々は自分の死というものを知ることができないことに気がつくはずだ。我々が知っている死はあくまでも他人の死、それは生物学的現象としての死に他ならない。現象としての死にまつわる情報をいくら集めても、自分の死を知ることには全然ならない。

釈尊は「死後のことについては無記である」と、孔子は「われ未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」と、妙心寺の関山国師は「わしのところに生死などない」と言ったのである。

かけがえのない「自分」に死が訪れる時一体何が起こるのか、それを知る途は根本的に閉ざされている。死は経験することのない概念である。

ゆえに、自ら死のうとする人は、自分が何をしようとしているかを知らないのである。言えることは、苦しい現状を変化させたがっているということだけである。
私には自殺が良いことなのか悪いことなのかはわからない。死がなんであるか分からない以上、それ以外に言いようがないのだ。しかし、なにをしようとしているのか分からずに行う行為というものに関しては大きな違和感を感じる。それは、誰を迎えに行くのかもわからないまま、成田へ人を迎えに行くのと同じことのように思える。

苦しい現状から逃れたい、この現状を変化させれば今よりましになるかも、という考えには楽観バイアスがかかっているような気がするのだがどうだろう。

水中にもぐっている時、息が苦しいからといって、息をしたらさらに悲惨なことになる。苦しまぎれの自殺はもしかしたら、水中で息をしてしまう行為と同じかもしれない、そんな気がするのだ。確かなことは何も言えない、もしかしたら明るい死後の世界が開けるのかもしれない。言いたいのは、苦しまぎれに意味のわからない行為をするのは、よくないような気がするということだけだ。なんとなくだが‥‥。

時々インターネット上で、若い人々が自殺について議論しているのを見かける。自分には十分時間があると思っているのだろう。明らかに自分と死は無縁のことのような感覚で、上滑りの空論に終始していることが多い。人生のことなどなにも分かっていないのに、軽々しく生き死にのことを語っている、そんな気分の悪い情景を見たので、私は今こんなお節介なことを書いている。

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宗教には作り話が多過ぎる (つづき)

2013-12-29 00:41:21 | いちゃもん

宗教的つくり話にはある共通点がある。一見難しそうな話でありながら実は簡単な分かりやすい構造になっているということだ。分かりやすくて多くの人々の共感を得られるような話でなくてはならないのである。本当は簡単な話であるからその本質もよくよく考えればどうでもよいような話が多いのである。

前回記事で取り上げた「信心同異の諍論」についてもう少し論じてみよう。

当時知恵第一とうたわれた法然とかけだしの親鸞の信心が同じである、と述べるといかにも逆説的で誰もが一瞬はっとする。そこで、他力の信心は阿弥陀様から頂いたものだから皆同じだと説明すると、一同なるほどと納得するわけである。いたって簡単なしかけである。

しかし、この話はよくよく考えるとおかしいのである。他力の信心であるというなら、それはすべて阿弥陀様次第というべきで、他人の信心と私の信心が同じであるかどうかとやかく言うべきも筋合いのものではない。各々の信心がそれぞれ違ったところで何の不都合があろうか。またそれが同じだと分かったところで何の得があるわけでもない。理屈を言うなら、他人の信心と私の信心が同じであるかどうか分かるはずがないのである。

親鸞も「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」と言っている。それが絶対他力の意味であろう。各々一人ひとりが阿弥陀如来と向き合っているのであって、第三者は関係ない。絶対他力の信心を比較するという発想が宗旨に反している。親鸞がこんなどうでもよい話をするわけがないのである。

どうでもよいことをさも重大事のようにとくとくと信者に説き、また人々はなるほどとありがたがる、はたから見ていてあまり気持ちの良いものではない。

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宗教には作り話が多過ぎる

2013-12-28 00:09:58 | いちゃもん

「明日有りと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかわ」

上の歌は親鸞が九歳の時に詠んだとされている。得度するために青蓮院の慈円を訪れたのだが、「今日はもう夜遅いので、得度はあすにしよう。」と言った慈円に対して、親鸞が是非その日のうちに済ませてほしいと訴えたのだとされている。

私は仏教徒とは言えないが、門徒の家に生れたせいか親鸞に対しては特別な感情を今も持っている。日本が生んだ最高最大の思想家であると信じて疑わない。しかし、親鸞がいくら天才だといっても九歳にしてこのような歌を詠んだというのは如何なものだろう。親鸞びいきの人々にしてみればその利発さを称揚したいのであろうが、私から見れば逆である。子供なら子供らしく「はよしてほしい」と言えばいいのである。優雅に歌で訴えるというような貴族趣味が染みついた親鸞は想像できない。こんな話が出るたびに親鸞が汚されているような気がする。

ひいきの引き倒しみたいな話を内輪でしながら、お互いに喜び有り難がっている、というような状況を私は健全とは思えないのだ。

ま、しかし、このような話は冷静に考えてみれば作り話だとすぐ分かるだけに罪が軽いと言えるかもしれない。もうひとつ親鸞にまつわる話で「信心同異の諍論」というのをご紹介しよう。

ある日、法然やその高弟たちが居並ぶ中で親鸞が、「恩師法然上人のご信心も、この親鸞の信心も、少しも異なったところはございません。全く一味平等でございます」と述べたことから論争が始まったという。高弟たちは驚きそして親鸞のその傲慢さを非難したという。「知恵第一言われるお師匠様と自分を同等であるとは厚かましい」と言うのである。

親鸞は、「この親鸞は智恵や学問や徳がお師匠さまと同じだと申しておるのではありません。もし、智恵や学問が同じだとでも言ったのなら、あなた方のご非難もごもっともです。ただ、阿弥陀如来より賜った他力金剛の信心1つは、微塵も異ならぬと申したのでございます」と言ったという。
自力で努力して身につけたものならその人の精進と器量に応じて違ったものになるが、他力の真人は阿弥陀様からもらったものだから同じものだという論法である。もちろん最後に、法然自ら親鸞の方に軍配を上げるのである。

法然門下で起きた事柄であるが、もちろん浄土宗ではこんな話は伝えられていない。もっぱら浄土真宗の中だけでまことしやかに語られているのである。まさかこんな話を親鸞自身が自慢げに広めたとは考えられないが。

教団内部では分かりやすくて説得力があるから、この話を教材に使っているのだろうが、浄土宗に対して余りにも失礼だと思う。この話が真実であるなら、法然の周りには凡庸な権威主義者ばかりが集まっていたことになる。素人にもわかる話なのにそうそうたるプロの僧侶がそろいもそろって理解できなかったということである。

こんな話を真実だと信じて信徒に説教している僧侶は自分自身の凡庸さに気付くべきだと思う。自分自身が凡庸であるから、法然の周りの人間が皆凡庸であるという話を信じてしまうのではないだろうか。

宗教教団にはこのての内向きの話が多過ぎるように思う。

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「あるがまま」を理詰めで考えてみる

2013-12-23 17:49:50 | 哲学

以前私が通っていた哲学塾カントの中島義道先生が、哲学で必要なのは『よく見る』ということだ、と仰っていたような気がする。注意深く見ないと、人は見ていないものまで見たように思いこむことがある。これをウルドクサという。

ある方のブログを拝見していて、次のような記述を見かけた。この記述の中にどのようなウルドクサが潜んでいるか検討してみよう。

≪この綺麗な公園や、川や水の流れる音は、すべて実体をそのまま感じ取れるわけではなくて、景色は物体が反射した光子を目の網膜が、音は空気の振動を鼓 膜が受け取って、それぞれが脳で映像や音として処理されて「存在」しているのであって、つまり存在しているのは世界側にではなく、私の内側に存在している のだと気づいた。だからこの川の音も、美しい景色も、すべて自分なのだとお思った。これは自分にはちょっとした発見で、自分というのはこの思考や気分や感 覚のことかと思っていたのだが、世界すべてが自分なのであった。≫

「世界すべてが自分なのであった。」という結論はともかく、それを導くために科学的知見を使っているということがひっかかる。「科学は仮説によってできている」というのは既に常識である。しかも一般人にとってはそのほとんどが伝聞に過ぎない。「‥反射した光子を目の網膜が‥」とは言っても、言っている本人が光子を確認したわけではない。

注意深く反省すれば、見ているのは「景色」であって決して「光子」ではないということが分かるはずだ。「光子というものがある」というのは単なるうわさにすぎないのである。「脳で映像や音として処理され‥」というのも、学校で先生から聞いたことをそのまま信じているだけのことである。

科学的知見が正しいとしても、問題は残る。この人は、精神活動が脳内で行われることを根拠にして、すべての現象は自分の内側のことだとしている。しかし、この内側だとか外側だという感覚も脳内で作られたイメージにすぎないということに気がつかなくてはならない。なにか説明が循環しているような気がしないだろうか?

そこには色も匂いも音もない世界を実在として、それらを認識の外に追いやっている。私たちが見ているのはそれらの実在の影であり、その影は脳内で生じているものである、と考えているのである。

 しかし、すべてが脳内で構成されているのなら、そこで構成されている外側・内側の意味も脳内の世界において意義をもっているのではないか、と私などは考えてしまうのだがどうだろうか?

 ここで私が指摘したいのは、先ず科学法則があってそれによって世界を「哲学的に」解釈することには問題があるということである。科学法則は現実から帰納されたものであり、現実に先だってあるものではないということである。

 ニュートンが万有引力を発見して以来、小学生でもリンゴが木から落ちるのは万有引力があるからだと知っている。科学的知見としてはそれは正しい。しかし、哲学者としてそのような世界観を信じ込むのは素朴にすぎる。    

  万有引力があるからリンゴが落ちるのではない    

  リンゴが落ちるから万有引力があると想定しているのである。

「力」そのものを見た人間は未だかつていない、ということに気がつかなくてはならない。科学は常に後づけの説明だということを忘れてはならない。科学法則は経験的に予測に有効な方便として位置付けるべき性質のものである。常に反証可能な仮説に過ぎない。 科学は哲学によって根拠づけられるのであって、その哲学を科学によって根拠づけようというのは倒錯した考え方である。

  では、哲学はなにによって根拠づけられるのか?

  その答えは、

   「哲学は何によっても根拠づけられない」 である。

この世のことは突き詰めれば信じるしかない岩盤に行きついてしまう。

哲学においては、選択した前提のもとに論理矛盾をきたさない理論を構築するしかないのである。

結局我々は、この世界を科学であろうがなんであろうが論理によっては根拠づけることはできない、という否定的な結論に到達するのである。

  これが般若心経における「色即是空」という意味である。

しかし、現前するこの世界の根拠を諦観した時に新たな展望が生まれるのである。一旦否定することは否定したが、この世界が現前していることは疑いのないことである。

  その現前しているということが信じるしかないという岩盤である。

「この綺麗な公園や、川や水の流れる音」の実在を根拠づけることはできなくても、あらためてそこに現前していることに気がつく、「実在」の意味を少しずらせば、それがそのままリアルな現実すなわち実在である。その様に認識することが「有るがまま」を認めるということに他ならない。「空即是色」ということである。

西田幾多郎が「善の研究」において、「意識現象だけが唯一の実在である」と述べているのもこの意味である。ここで意識現象というのは「この綺麗な公園や、川や水の流れる音」を指している。「意識現象」と表現しているのは科学的知見を経由しているようで適切な表現とは言えないが、この論文が若書きである為だろう。 一旦否定をくぐりぬけて肯定された世界は、仏教においては一段と有意義な様相を帯びてくる。「柳は緑、花は紅」というが、その当たり前のことが尊い、それが平常底に生きるということである。栂ノ尾高山寺の明恵上人は、ある日野に咲く一輪のすみれを見つけて感動して落涙した、というのはそういうことである。

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非風非幡

2013-12-22 07:58:16 | 公案

天動説も地動説も実は同じことを意味していると言ったら、大抵の人は不審に思うだろう。20世紀になって、言語哲学者が「天動説と地動説は、同じことを違う言葉で表現している。」というようなことを言い出した。しかし、禅者にとってはそんなことも大した問題ではない。そもそもそんな問題自体が存在しないのだ。

今回は禅の公案集である無門関から六祖慧能に関するエピソードを取り上げることにする。六祖というのは達磨大師を禅宗の始祖として第6代目であることを意味する。六祖慧能大師は門下からすぐれた人材を多く生み出した禅宗においてとくに重要な人物である。

風にはためいている幡(はた)を見て、二人の僧が言い争っていた。

  僧A 「あれは幡が動いているのだ。」
  僧B 「違う風が動いているのだ。」

そこにちょうど、六祖慧能が通りかかり、次のように述べた。

   「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない。
    お前たちの心が動いているのだ。」

さらに「無門関」の編者である無門慧開が次のような解説を加えている。

   「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない、
    心が動いているのでもない。六祖の真意は何処か?」

「心が動いている」というのは、己事究明をもっぱらとすべき禅僧がくだらないことで言い争っているのをたしなめる言葉であろう。しかしそれだけだとこの公案はただの生活態度における教訓ということになってしまう。無門慧開は「心が動いているのでもない。六祖の真意は何処か?」とさらに問うているのであるから、もう一歩踏み込んで積極的な意味を探る必要がここには有るはずなのである。

二人の僧はともに同じ光景を見ながら、そして事実関係においても同じ認識をもちながら、幡が風がと言い争っている。実はそこに禅者が追求すべき問題はありはしない。禅者にとって、頭で考えた世界像はすべて架空のものであるからである。

天動説にしろ地動説にしろ、慧能大師に言わせれば、頭の中で天や地を動かしているだけであるということなのである。実際はどうかと言うと「見た通り」なのだ。朝は東の山の端から昇る朝日に手を合わせ、そして西の海に沈む夕日に感じ入る。それこそが世界の実相であり、平常底に生きるということなのだ。天動説や地動説をバカにしているわけではない。もちろん科学者はそういうことに徹底的にこだわるべきなのだが、世界の実相というものはそこにはないということを、わきまえねばならないということなのである。

あくまで天動説も地動説も我々の平常の世界を説明するための方便なのである。

鉄の塊は固くて重くそして調蜜であるにもかかわらず、科学者は「鉄の原子は小さな格の周りをさらに小さな電子がまわっていて、そのほとんどの部分は真空のスカスカである。」などと言う。しかし、そのスカスカの原子というのは、鉄が稠密で固く重いということを説明するために、考え出された方便であるということを忘れるべきではない。

あくまで禅者にとっての真実というのは、現前しているありありとした事実以外にはあり得ないのである。「あるがまま」を受け入れるというのはそのことである。


ときに哲学者などは、「いま君が夢を見ていないとどうしていえるのか?」などと言い出すが、六祖慧能にそんなことを言ったら、「だから?」と聞き返されるのがオチだ。これが夢であろうがなかろうが、我々にはいまここのありありとした現実の世界を生きるほかはないのである。夢なら夢でまた覚めたときにあらためて考えればよいのである。

(参考 ==> 「公案インデックス」

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