禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「やっぱりやって良かったじゃん」とは言いたくない。

2021-07-29 14:21:39 | 政治・社会
 蓮舫さんが、堀米雄斗選手の金メダル獲得について、「 素晴らしいです! ワクワクしました!」 と twit したら、「東京オリ・パラの中止を主張していたのに、ダブルスタンダードだ!」という批判が殺到したらしい。しかし、これは批判する方がおかしい。オリンピックは愚劣だが、スポーツは素晴らしいというだけのこと。競技に人生を賭けてきた選手の健闘に感動するのはとうぜんのことで、それはダブルスタンダードでも何でもない。第一、オリ・パラ実施のためには莫大な資金が投ぜられているが、その一部には蓮舫さんの納めた税金も使われている。日本国民なら誰もが競技を見て楽しむ権利がある。
 テレビをつけるとオリンピック一色で金メダルラッシュに沸いているが、それほどめでたいことばかりでもないということは心にとどめておく必要がある。次の記事を読んでみて欲しい。
  
 
 はっきりと「日本は嘘をついた」と指摘されている。日本国民の一部の人はオリンピックを自国で開催することを名誉なことと考えているのかも知れないが、「嘘をつく」ことは金メダルをいくら獲得しても埋め合わせることのできないほど不名誉なことである。それに嘘はそれだけではない。福島原発事故の影響懸念する外国に対し、安倍前首相は「under control」と明言したが、今になって汚染水の海洋投棄せざるを得ないような状態になっている。それだけではない。こともあろうに国民の税金をオリンピック誘致のための賄賂に使った疑惑で、当時のJOC竹田会長はフランス当局の捜査対象になっている。なぜ、それほど自国開催にこだわったのだろう? オリンピックの理念に共鳴したから? まあ、それだけはないだろう。オリンピック誘致にかかわった人々にかけていたものを一つ上げるとしたら、それは「オリンピックの理念」に他ならない。
 エンブレム決定にまつわるトラブル、組織委員会会長の女性蔑視発言、作曲家のいじめ自慢問題、開会式ディレクターの「ユダヤ虐殺ごっこ」発言問題、これらの全ては理念の欠如と考えればつじつまが合う。
 
 折も折、新型コロナがまだ猛威をふるっている。老人のワクチン接種が進んだので、重症者は減少していると政治家は言うが、自宅療養者は7月21日時点で全国で1万人超となり、すごい勢いで増加している。自宅療養だと悪化しても手当てが行き届かない場合もあるし、重症化しても入院割り当てがスムースにできないとそのまま死亡するというケースも出てくる。普段でも毎日日本では数千人単位の人が死んでいるのだから、コロナ患者が一日に数十人死ぬくらいのことは大したことないという考えがあるのかも知れない。現に、米国や英国に比べれば、日本におけるコロナによる死亡者は圧倒的に少ない。しかし、私はそのような割り切り方には反対である。助かる可能性がある人にはできるだけのことをしてあげる、それが基本だと思う。余分なこと(オリンピックのことである)やっていて、病気の人が死んでいくのを傍観するべきではないと思う。

 昨日(7/28)、東京都の感染者数が3千人を超えた。それに関して官邸側は「本日はお答えする内容がない」といったと伝えられている。「内容がない」というのは考えていないからだろう。もし、東京都の感染者数が1日に1万人を超えたらどうする? 行政の最高責任者なら、そういう事態にも備えておかなければならないはずなのに、おそらく思考停止に陥っている。政治家は政策に対して常に説明責任を負っている、その事を理解しておられないのなら、菅さんはとっとと首相の職を辞すべきである。

 そして、テレビの前で日本選手の活躍に歓声を上げている人々には、日本でオリンピックを開催することの意義はなんであったかということを考えていただきたいと思っている。

今日は久しぶりに吉野家の牛丼を食べた。うまかった。
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脱構築と中庸について

2021-07-21 15:02:26 | 哲学
 哲学を理解することは一般的に容易ではないが、現代フランス哲学というものは際立って難解であるように私には思える。その中でもとりわけジャック・デリダという人の言っていることがとりわけ難しい。というのは、今までになかった概念を作り出して、それ説明する仕方が従来の言葉の意味を逸脱させながら、とても回りくどい表現をするからである。例えば、彼の造語による「差延(différance)」という言葉があるが、それに対するコトバンクの解説を参照してみよう。とても読みにくい文章だが、少し我慢して読んでいただきたい。 

フランスの哲学者 J.デリダが作り出し,使用する différanceの訳語。これまでの用語である差異 différenceに代えて,遅らせる,延期するという意味を新たに加味している。その意味は,存在者が自己自身に現前するときには,必ず自己自身との違いや遅れが生じているということ。すなわち,自己は,起源においても自己同一的な自己自身ではなく,すでに自己と隔たり,遅延があるという認識を表している。西欧哲学の伝統の中心となる前提に,自己同一的な自己現前があると考え,この造語によって徹底した批判を加えたのである。≫  

 上の文章を一読して理解できたとしたら。あなたは天才というよりちょっとおかしいと私は思う。およそまともな日本語とは言えない。デリダを説明する文章は大体このような意味不明な文章になってしまうのである。少しわかりやすく解説すると、「存在者」というのは人物を指すのではなく、哲学用語で存在しうるものなら何でも存在者である、対象として扱えるもの全般を存在者と言う。つまり、「存在者が自己自身に現前する」とは日常語としてはありえない表現だが、そのものがそのものとして現れるということ意味している。つまり、デリダは「そのものがそのもの自身として現れることはない」と主張しているのである。われわれは言葉によってそのものを的確に捉え何度でもその概念を反復することが可能であると思いがちであるが、それが幻想であるとデリダは主張しているのである。

 一見、理不尽なことを述べているように思えるが、大乗仏教的な見地からするとこれは至極当然のことであるとも言える。デリダはナーガルジュナ(龍樹)と同じことを述べているのである。われわれの思考の元となっている形式論理は、“a=a“という同一律と“a≠非a“という無矛盾律の上に成り立っている。思考は「同じ」ということと「違う」ということを組み立てていくことによって成立するのである。しかし、常に流動する無常の中では、“a=a“というものはありえないのである。そのものをそのものとして同定するタイミングは存在しない、そういうことをデリダは言っているのである。われわれの言語は「反復(同じ)」と「差異(違う)」ということから成り立っているが、厳密な反復というものはなく差異化の運動だけがある。したがって、われわれの言語は現前するものに的中するということはありえない、必ずそのものからずれてしまうということを言っているのである。
 
 それで、デリダは西洋哲学の「ロゴス中心主義を批判している」と言われているロゴスとは論理とか言葉という意味である。ここで言うロゴス中心主義というのは、すべては論理によって割り切れるし、言語によって記述できるという考え方のことである。デリダはどんな思想も論理と言葉に依っているかぎり、真と偽。善と悪というような二項対立に陥ってしまう危険があると警告し、そのような枠組みから逃れる試みを常に続けなければならないとして、脱構築という概念を提唱したのである。

 言葉に依る論理というものは必ず抽象化を伴っている。ところが、われわれの直面する現実というものは、往々にして重層的であり複合的でかつ長い歴史的過程を経てきたものである。単純な論理で革命を起こそうとすると、より大きな不条理が表面化してしまうということがままある。やはり中庸ということが大切なのだと思う。中庸とは左右の真ん中というような単純な概念ではない。この世界は言葉では簡単に割り切れないという慎重さのことである。デリダの脱構築に通じる概念であると思う。
 

(横浜 象の鼻パークにて、本文とは関係ありません。)
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匹夫不可奪志と中庸

2021-07-03 06:28:18 | 哲学

 「一切皆空」というのは仏教の根本原理であるとされている。前回記事「言葉の拘束力と中庸ということ」では、言葉即ち概念というものは突き詰めれば、恣意的な視点の上に成り立っているということを述べた。ものごとすべては関係性の上に成り立っているのであって、「絶対」ということはないということである。だとすると、自分をある種の高みにおいて相手を批判・評価したりすることにも慎重でなくてはならないことになる。自分を是相手を否とする絶対的根拠も見いだせないからである。また、仏教においては、真善美なるものも縁起の中で相対的に浮かび上がってくるものでしかない。だから、仏教においては、自分の論を主張する論争というものは本来ありえないことになる。「法論はどちらか負けても釈迦の恥」というのはそういうところから来ているのだろうと思う。

 小林秀雄のエッセーに、「匹夫不可奪志」というのがある。論語の「子曰'三軍可奪帥也,匹夫不可奪志也。」という言葉からきているとのことだが、「大軍の大将をとらえることはできても、小人の志を奪うことはむずかしい」というような意味らしい。エッセーの一部を引用してみよう。

≪ 自分は悧巧だと己惚れたり、あの男は悧巧だと感心してみたりしているが、悧巧というのは馬鹿との或る関係にすぎず、馬鹿と比べてみなければ、悧巧にはなれない。実に詰まらぬ話であるが、だんだんと自分の周囲に見付かる馬鹿の人数を増やすというやり方、実に芸のないやり方だが、ただやり方一つで世人はせっせと悧巧になる。したがって、馬鹿とは、多かれ少なかれ悧巧に足りないものだという安易な考え方から逃れることがむずかしい。 ≫

 よくよく考えてみれば、馬鹿と悧巧の間に境界などないのである。比べてみれば、比較的利巧と比較的馬鹿があるだけに過ぎない。なのになぜか人は自分を悧巧だと思いたがる。他でもないこれは私のことである。自分を悧巧だと思い、時に若者を上から目線で説教したりする。小手先の言葉で匹夫の志を奪うことができると勘違いするのである。

先にあげた一節に続いて、小林秀雄はこうも言っている。

≪ つまり、馬鹿は馬鹿なりに完全であって足りない人間ではないという簡明な事実を合点するチャンスに他ならないのだが、チャンスは逸するのが普通で、すぐ元の無意味な悧巧に立ち戻る。 ≫

 「馬鹿は馬鹿なりに完全」という言い方は乱暴だが、小林らしい鋭い着眼点であると思う。要するに、人は誰でも自分の信念や格律に従ってものを言い行動している、という単純なことを言い表しているのである。それはその人が馬鹿であるとか悧巧であるかとは全く関係ないということなのだ。実はこれは当たり前のことだから小林は「簡明な事実」と表現している。その当たり前のことを分かるのがむずかしいと小林は言っているのである。

 自分に少しばかり学識があるからといって、相手を見下して匹夫の志を奪おうなどと考えてはいけない。相手もそれなりに信念に基づいてものを言っているのだから、小林の言葉で言うと「完全」なのである。自分も「完全」で相手も「完全」なら、深刻な信念対立となって抜け道はなくなってしまう。

 自分を利巧だなどと思って、簡単に他人を諭そうなどと考えてはいけないのだと思う。一切皆空を標榜する仏弟子ならばなおのこと自分を絶対化してはならない。それが中庸ということである。


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