禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

希望は戦争

2017-02-26 11:36:40 | 政治・社会

最近つくづく思うのだが、少数の資本家が大多数の労働者を搾取するのは、たいして深刻な事態ではないと考えるようになった。本当に深刻なのは労働者間に格差が生まれることである。
昭和三十年代、私の周りの人々は多少差があったとしても、庶民と呼ばれるたいていの人々は貧乏だった。ところが、グローバル化の波とともに先進国では庶民の間で格差が広がる傾向にある。時給千円で働く非正規雇用労働者はフルタイムで働いても月収20万円に到達しない。到底一人だけの収入では独り立ちできない。夫婦共稼ぎでも可処分所得はごくわずかで、子供を育てるには相当な無理が伴う。一方、団塊の世代の共稼ぎの公務員夫婦などの場合、夫婦合わせて約五千万円程度の退職金を受け取り、なおかつ月約40万円の年金がもらえる。庶民と呼ばれる人々の中に、億単位の金融資産に手の届く人たちがかなり出ているのだ。

この格差の広がりはバブル崩壊による高度成長の終焉とともに加速されてきた。企業が業容拡大から収益重視に路線変更したからだ。それは、高度成長期に企業内ポジションを確保した中高年層と、大学を卒業しても低賃金の非正規雇用に甘んじるしかない若年層の世代間格差をも生むことになった。

今からちょうど10年ほど前に、当時31歳のフリーターであった赤木智弘氏の「『丸山眞男』をひっぱたきたい 希望は、戦争。」という文章が「論座」に掲載された。その中の最も過激な部分を以下に引用する。

 苅部直氏の『丸山眞男――リベラリストの肖像』に興味深い記述がある。1944年3月、当時30歳の丸山眞男に召集令状が届く。かつて思想犯としての逮捕歴があった丸山は、陸軍二等兵として平壌へと送られた。そこで丸山は中学にも進んでいないであろう一等兵に執拗にイジメ抜かれたのだという。
 戦争による徴兵は丸山にとってみれば、確かに不幸なことではあっただろう。しかし、それとは逆にその中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起こらない限りはありえなかった。
 丸山は「陸軍は海軍に比べ『擬似デモクラティック』だった」として、兵士の階級のみが序列を決めていたと述べているが、それは我々が暮らしている現状も同様ではないか。
 社会に出た時期が人間の序列を決める擬似デモクラティックな社会の中で、一方的にイジメ抜かれる私たちにとっての戦争とは、現状をひっくり返して、「丸山眞男」の横っ面をひっぱたける立場にたてるかもしれないという、まさに希望の光なのだ。
 しかし、それでも、と思う。
 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。 (朝日新聞社 「論座 2007年1月号」)

ル・サンチマンに満ちた内容で、思想的には整合性があるとはいいがたい。論理的に論駁するのも難しくはないだろう。実際に多くの識者が論駁を試みた。それらに答えて赤城氏はさらに、 「けっきょく、『自己責任』 ですか」という文を再び「論座」に発表した。

≪ 右派の思想では、「国」や「民族」「性差」「生まれ」といった、決して「カネ」の有無によって変化することのない固有の 「しるし」によって、人が社会の中に位置づけられる。経済格差によって社会の外に放り出された貧困労働層を、別の評価軸で再び社会の中に規定してくれる。
 たとえば私であれば「日本人の31歳の男性」として、在日の人や女性、そして景気回復下の就職市場でラクラクと職にありつけるような年下の連中よりも敬われる立場に立てる。フリーターであっても、無力な貧困労働層であっても、社会が右傾化すれば、人としての尊厳を回復することができるのだ。
 浅ましい考えだと非難しないでほしい。社会に出てから10年以上、ただ一方的に見下されてきた私のような人間にとって、尊厳の回復は悲願なのだから。 ( 朝日新聞社 「論座 2007年6月号」 )

貧しい若者のほとんどが、彼を論難した識者より彼の方に共感を抱いたのではないかと思う。彼自身自分の主張が建設的なものでないことは十分理解している。しかし、「一生懸命働いてきた老夫婦にとって、3年に一度くらい海外旅行へ行くのは庶民のささやかな楽しみ」というような感覚をもった中高年などに説諭されたくないのだ。

格差是正という観点からは彼らが政治に期待するものは何もない。要するに右でも左でも、彼らが経済的に取り残されるのは同じなのだ。ならば、慰安婦問題や領土問題で強気に出てくれる右の方がましである。せめて日本人としてのほこりを慰撫してくれるからである。

中高年世代はもっと緊張すべきだと思う。少なくとも、自分たちののほほんとした生活は、貧しい若者の犠牲の上に成り立っているという程度の認識は必要である。彼らが落ちこぼれない仕組みを作る義務は本来私たちにあったのだから、『自己責任』ではすまされない話である。

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真理はないか?

2017-02-25 09:43:21 | 日記

「真理はない」などと軽々しく言うべきではないと思う。もともとないものであるなら「ない」とさえ言えない。少なくとも、「ない」と言えるためにはその対象が明確に定義されていなければならない。たいてい真理の存在有無を論じているところでは、「真理とは何か?」という問題が並行して行われているのが常である。それがなんであるかわからないものの存在について論じることは、空港へ名前も姿形も知らない人を迎えに行くのと同じである、その議論に出口はない。

もともとないものをないということの奇妙さというものを、もう少しわかりやすく説明してみよう。私があなたにいきなり、「ギカリメンテロチは存在しない」と言ったとする。あなたの反応は多分、「???」だろう。「ギカリメンテロチ」をあなたは実際に経験したことがない。そしてそれがどのようなものであるかも聞かされたことがない。「ギカリメンテロチは存在しない」という言表はあなたにとって何の意味もないのである。同様に、「真理」が何を意味するかも分からないまま、「真理はない」と言うなら、そして本当にそれがないのなら、その言表は意味を持たない。

以上のことを踏まえると、ウィリアム・ジェイムズの次の言葉が実に意義深いもののように私は感じる。

≪ずっと信じてきたもの、実際にそれに基づいて生きてきたのだが、それを表現することばを見つけることが出来なかったもの≫

哲学というのは、それを表現する言葉を模索し続ける行為なのだろう。

六国見山から横浜市街を望む

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仏教的倫理について

2017-02-23 10:18:55 | 哲学

仏教には究極的な意味において善悪というものはありません。一切皆空を旨とする仏教においては、善悪というのもその時々の恣意的な視点から見た仮象に過ぎないからです。親鸞聖人は次のように言います。

「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(歎異抄第13条)

どんなにいい人でも場合によっては人を殺してしまうこともある。性悪な人間でも条件が整わなければ悪事を働くこともないし、時には善行をすることもある。善人悪人と言っても所詮相対的なものに過ぎない、人間はすべて不完全だからです。「人間が生身である限り完全であることはできない。」このことは親鸞が生涯抱き続けた絶望的な感慨であります。

究極的な善というものがなければ、善に対するロゴス的な規定もない、これがカント倫理との大きな違いでしょう。しかし、最も根本的なところでカントとは共通しています。それは純粋な精神の主体性というものを信じているということです。カントでは純粋実践理性と言い、仏教では無我と言います。

どちらも私心を排除するという意味においては全く同じなのですが、そこから出てくる倫理観は全然違います。その理由は仏教は心の働きを全体的にとらえるのに対し、カントは心の働きを理性・感性・知性(悟性)の三つに分けて考えるからです。カントは心の3つの働きの内の理性のみが、人間を他の動物とは違う至高の存在にしているとして、理性に基づく行為のみを道徳的であるとしているからです。

ある老婆が瀕死の状態に陥っていて、もってあと2、3日の命であるとします。その息子がその年のノーベル賞受賞者に選ばれたのですが、ストックホルムへの飛行の途中飛行機が墜落して彼は死んでしまいました。あなたはその老婆のベッドの傍らに居て、彼女に「息子のノーベル賞の授賞式での様子はどうだった?」と尋ねられます。ちょうどその日が授賞式の日だったのです。あなたは何と答えますか?

たぶんあなたは、「とても立派な授賞式だったよ。息子さんも堂々として立派でしたよ。」ぐらいなことを言ってあげるのではないでしょうか。しかし、カントはこんな時でさえ、うそをつくべきではないと言います。仏教的な観点からすれば、このような状況においては、むしろ積極的にうそをついてお婆さんを喜ばせてあげたい、というのが倫理にかなっていると考えるべきです。

仏教では、慈悲や思いやりといったものを倫理の源泉として重要視しますが、カント倫理ではそれらは感性的なものとして道徳的なものとはみなされません。それは感性的な欲求に従っているだけ、つまり自然法則に従っているだけのこととみなされるのです。カントによれば、自立した理性が自ら決定した道徳法則にしたがうことだけが道徳的であるとされるのです。

母親が子を慈しむ、それはライオンの母子にも同じことが言えるわけで、確かにカントの言うようにそれは「自然法則」に従っているだけのことと云えます。しかし、仏教においては、この「自然(じねん)」に到達することこそが目標なのであります。したがって、仏教者の視点から見れば、ライオンの母が子をかわいがる姿も道徳的であり美しいことである、ということになります。

再び親鸞の言葉を引用します。

≪弥陀仏は自然のやうをしらせむれう(料)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること。)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。≫ (自然法爾章より)

はからいを捨て、すべてを弥陀仏に託したとき自然(じねん)は現れる。それが絶対他力ということでありましょう。その時、私心は打ち捨てられ、他者への共感のみが残る。そういうことではないかと思います。

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カント倫理学について

2017-02-22 11:48:01 | 哲学

以前、「『嘘』に見る東西道徳観の違い」という記事を書きましたが、西洋倫理の骨子であるカントの倫理観と仏教のそれを比較してみたいと思います。今回はカントについて取り上げます。

ものごとを論理的に考えるのが哲学ですが、実は論理だけでは何も生み出せません。理論を形成するにはもととなる前提が必要です。前提なしに論理だけで考えるのは不可能です。それでも考えようとすると無意識のうちに、なんらかの前提を取り入れてしまいます。たいていそれはニヒリズムというものになります。

カント倫理学の大前提となるのは人間の理性です。この世界にあるものはすべて自然法則に従っているだけですが、人間理性だけが自由で自律的な精神を持つとカントは考え、それゆえ人間理性は尊厳なものであり、尊敬されるべきであるというのがカント倫理のベースになっています。

道徳原理は人間理性への尊敬にもとづき普遍的なものであらねばならない、とカントは考えました。そこで、道徳法則の普遍性をチェックするための法式として次のような基本法式を提唱します。

≪ あなたの格律が普遍的な法則となることを、その格律によって同時に意志しうるような、そういう格律に従ってのみ行為しなさい。 ≫

この基本方式に加えて、理性的主体である人間を究極の目的とする理念をもとに、三つの法式を展開します。それらの条件を満たすものだけが道徳法則であるとするのです。

具体的に、「うそをつかない」という格率が道徳法則にかなうものかどうかチェックしてみましょう。うそをつくのは他の人間をもてあそぶことになります、ですから「うそをつかない」というのは、人間を尊重しているという条件は満たしています。また、自分もうそをつかないし、他の人もうそをつかなければ、約束の言葉は意味を持ち、なんの矛盾も起こりません。明らかにこれは普遍性の条件を満たしています。したがって、「うそをつかない」というのは道徳原理としての条件を満たしているということになります。

カントの道徳法則にはもう一つ重要な条件があります。それは定言命法でなくてはならないということです。命法には定言命法と仮言命法の二種類あって、前者は無条件にそうしなければならないという命法で、後者は条件付きのものです。

つまり、「うそをついてはならない」が定言命法であるとは、どんな時でもうそをついてはいけないのです。『嘘』に見る東西道徳観の違いでも取り上げましたが、たとえば、悪者に命を狙われている友人を自分の家にかくまったとする。そこへ悪者が訪ねてきて、その友人が来ていないかと問われた時にでも嘘を言うのはよくないことだ、とカントはいう訳です。

普通の常識人から見れば、いささか厳格すぎる感もありますが、もし条件付きにしろ「うそをついてもよい」ということになると、その人の言っていることが真実かそうでないかということは、その人のもつ事情次第ということになります。言葉の受け手側にしてみればその事情は知りません。すると、それが条件付き仮言命法の場合は、たとえ相手が道徳法則を守っていたとしても、約束というものが意味をもたないということになってしまいます。それに「事情」というものはたいていは人間の感性的要求から生じるのです。自律する理性を尊重するカントの考え方とは相いれないのです。つまり、道徳法則は定言命法でなければ論理的整合性を保てないのです。

ここで「うそをつかない」ということを定言命法の一例としてあげましたが、実はカントは定言命法の内容については明言していません。なぜなら、道徳法則は自立した自由な精神が自ら決定し実践しなければならないからです。ここでカントの言う「自由」は我々が日常的に考えているものとは大分違います。人は気分の赴くまま食べたり飲んだり、言いたいことをしゃべったりすることを自由だと考えていますが、カントに言わせれば、それはただ感性に従っているだけでけだものと同じである、ということなのです。カントの言う自由は、自律的な理性的精神による実践だけなのです。自律的というのはたから強制されていないということです。他人から指示されて従うのはロボットと同じです。だから道徳法則も自分で決定し、それを実践しなければならないのです。

どうもバタバタした説明で申し訳ないのですが、とにかくカントの道徳法則というのは、もし道徳法則というのがあるとすれば、こういう形でしかありえないというところまで考え抜かれたもののように、私は受け止めています。

次回は仏教的倫理について述べたいと思います。

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すべてはまぼろしか?

2017-02-21 10:45:32 | 仏教

前回記事の「世の中を陽炎(かげろう)のように看(み)よ」について、「すべては虚妄である」と龍樹自身が述べている、とある人から指摘されました。私は仏典に疎いので、そこまで言われたらそうかもしれないとも思います。しかし、あえて言いたいのですが、重要なのは龍樹の表層的な言葉ではなく、その精神その真意です。龍樹の著作というものは古くて多くの人の手を経ています。細かく見て行けば矛盾も多々あるはずです。彼の真意をくみ取れば、「すべては虚妄である。」などと彼自身が言ったはずはないと私は思うのです。重要なのは表層的な言葉による理解ではなく、実感を伴った理解でなくてはならないということです。

「すべては幻のようなものだから、執着してはならない。」というお坊さんもいます。私はこれを非常にまずい説き方であると考えているのです。なぜまずいかと言うと、仏教についてあまり知識のない人だとそれを神秘的な言葉として受け取ってしまうからです。「ふーん、よく分からないけど、本当のところはみんなまぼろしなんだ」などという了解にどれほどの意味があるでしょうか。
愛する子供が死んだとします。「すべてはまぼろしだから」って平気でいられますか? 恋人を抱擁している時に、自分の腕の中のものはまぼろしだなんて思えますか?

釈尊はわが子の死を受け入れることのできないキサー・ゴータミーという女性に対し、「身内からひとりも死者を出したことのない家から白いけしの実をもらって飲ませなさい。そうすればその子は生き返るでしょう。」と言いました。キサー・ゴータミーは必死になって駆けずり回り、「ひとりも死者を出したことのない家」を探します。わが子を取り返したいという情熱のあまり、精も魂も尽き果てるまで探し回った結果、「ひとりも死者を出したことのない家」など無いのだという悟りに到達します。

釈尊は愛する子供を失くした悲しみがまぼろしだと教えたわけではありません。子供を亡くした親が悲しくないわけはないのです。その悲しみはあくまでリアルです。ゴータミーは、すべての人は死ぬということ、いわば無常の理を知ったのです。

人は、今の幸せがいつまでも続く、子が親より早く亡くなることはない、と思いがちです。ゴータミーはそれらが根拠のない思い込みに過ぎないことを悟ったのです。走り回って精根尽き果てたその時に、この世界の無根拠性を腹の底から了解した、ということでありましょう。その時、この悲しみを受け入れるしかないという覚悟ができたのです。あらゆる思い込みに根拠はないということ、つまりすべては無自性であるということ、それが龍樹の言いたいことではなかろうかと私は考えているのです。決して神秘的なことを龍樹は述べているわけではなく、実に当たり前のことを言っているのです。

すべてはまぼろしと言い、苦しみもなく悲しみもないなどと言っていると、行き着く先は離人症です。そのような仏教理解は邪道と考えます。私たちは、ありありと現前する世界をそのままリアルに受け止めるしかない。柳は緑花は紅というのはそういうことであろうと思うのです。

( 参考 ==> 公案に関する哲学的見解 )

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