禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

根源的なことはなにも問えない

2018-03-24 17:12:12 | 哲学

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」というのは哲学愛好家の間ではよく知られた問題である。ウィキペディアによる17世紀の哲学者ライプニッツによって定式化されたとある。ライプニッツはその解を結局神に求めた。あらゆることの原因の源を神であるとしたのである。

少し考えればわかることであるが、これは全然解答にはなっていない。神様がこの世界を創ったのは良いとしても、その神さまはどこから来たのかという疑問が残る。もちろんライプニッツもそのことはよく認識していて、その神さまの定義を我々の想像を超えたものだとしたのである。つまり、なにがなんでも存在する必然的存在者であるとした。

ライプニッツには悪いが、「なにがなんでも存在する必然的存在者」として言葉の上で解決しただけのことで、要するにわれわれには「よく分からない」と言っているだけのことでしかない。  

「なぜ何もないのではなく‥‥」と問いたくなるのは、何も無いという状態がニュートラルで、何かがあるというのは特別である、と考えたがる傾向が私達にはあるということなのだろう。ま、確かに何もなければこのような問いが立ち上がるはずもないのであるが、私達には「何もない」ということが果たして想像できるだろうか?私たちは「何もない」ということの意味を実は分っていない。私の眼前に世界がこのように展開されていることこそ実はニュートラルなのではないかと私は思う。禅仏教では「恁麼(いんも)」という言葉をよく使う。「世界がこのようである」ことをすんなり受け止める、そういう意味であると私は考えている。  

論理学の言葉で「無矛盾律」というのがある。「Aであることと、Aでないこととは同時には成り立たない」という法則である。「私は人間であると同時に人間ではない」という表現は文学的には有りかもしれないが、厳密な論理の上ではありえない。「背反することがらが同時には成立しない」というのが無矛盾律である。私たちの思考の中で、これは正しいとか間違っているという判断の中には必ず無矛盾律が働いている。

私達は無矛盾律を言わば無意識のうちに使用しているのであるが、その無矛盾率の正しさというものを問えないのである。つまり、根拠なしにものごとの正しさを判定しているということになる。無矛盾率の正しさというものは証明できない。もし、無矛盾律の証明しようとしてもその正しさの判定のためには無矛盾律を使用しなくてはならない。論理的に正しいというのは無矛盾律に適っているという意味であり、間違っているというのは適っていないという意味だからである。

根源的なことに対しては、もうそれ以上問うことはできないのである。

(あがたの森 1974年)

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析空観と体空観

2018-03-13 14:53:54 | 仏教

前回記事で、析空観(しゃっくうかん)という言葉が出てきたので、この際に仏教における空観というものを以前書いた記事をもとに整理しておきたい。

析空観とはウィキペディアによれば、「ものの在り方を分析して、実体と呼べるもの、いつまでも変らずに存在するものが、ものの中に無いことを観ていくこと」とある。

つまり、机と言うものに着目してみると、その脚を外してみると単なる板と棒になってしまう。何も減じていないのに、机そのものは存在しない。つまり空である。と言うようなものの見方を析空観と言うのである。それに対して体空観というのは、「すべては空であること」を直感することを言う。

インターネットで検索すると、析空観は小乗的であるのに対して体空観は大乗的である、と言うような説もあり、わざわざ「小乗的析空観」などと言う例もある。しかし、どんなものだろう。個人的には、大乗仏教の本家本元である龍樹にしてみても、その説いているところは析空観であるように思えるのである。空観を言葉で表現しようとするならそれは析空観にならざるを得ないのではないだろうか。

臨済宗においては、本格的な修行の第一歩として、まず法身というカテゴリーの公案が与えられる。「趙州無字」とか「隻手音声」とかいうのがそれである。この初関を通るのがなかなか大変で、中には一か月くらいで通る人もいるが、普通は真剣にやったとしても何年かはかかる。何が大変かというと手がかりというものがないからだ。例えば、「趙州無字」ならば手がかりというものは「無」の一文字しかないわけで、一日中「ムームー」と念じるしかない。しかし、とにかく師家を信じて愚直に公案と向き合っていれば、ある時「無が自分か、自分が無か」というような状態になっていく。そうなって初めて見性を認められることになるのである。

見性というのはいわゆる悟りのことであるが、悟ったと言ってもこれで一丁上がりというわけではなく、これで初めて禅の道に踏み込んだということにすぎない。だが、ともかく一応これで空を体感したとは言えるだろう。

空を体感したということで、即座に龍樹の言うことが即理解できるかというとそうでもない。単に三昧を通じて空を体感しても、禅的な言語操作にはなじんでいるとは限らないからである。見性してすぐ龍樹の言葉を理解できるようになったという人は、おそらく中論などを読んでいて、不生不滅だとか不去来というような言葉に対し、もともとあるイメージを抱いていて、体感した空観をそのイメージにすり合わせたというだけのことであろう。

思想というものが概念と概念に関する総合判断であるとするならば、空観というものは思想的には空虚である。なぜならばそれは概念の解体に他ならないからだ。体空観というのは、心理学的にはゲシュタルト崩壊と言ってもいいと思う。赤ん坊は視力があってもものを見ることが出来ないという。経験というものが全くないので、地と図の区別ができないからだ。ルビンの壺という絵を見るときは、視点の置き方で地と図が反転しまう。赤ん坊のようにニュートラルなものの見方をすると、視野の中に写るものの意味付けが出来ないのである。

これは視覚の問題にとどまらない。あらゆる概念というものは我々の関心のあり方によって意味が構成されているのである。体空観というのは禅定を通してその実感を得ることである。つまり概念によって紡ぎだされるものを思想と呼ぶなら、概念を解体させる空観というものは到底思想ではあり得ない。言葉によって伝えるべき内容がもともと伴っていないのである。だからそれをあえて言葉にしようとすれば否定的な表現にならざるを得ない。逆に言えば、否定的な言葉はすべて空観と通底しているとも言える。

「無が自分か、自分が無か」という状態にあるのは概念の解体ということに違いない。そこでは空間や時間の概念さえも解体される。だから、あちらとこちらの区別もなくなるし、ときには言葉の意味を逸脱させて「永遠の今」などという矛盾した言葉遣いをする人もいる。しかし、空観にはもともと思想としては、伝えるべきものが何もないということはわきまえていなくてはならない。矛盾や否定は単に空に「感覚的」に通底しているだけであって、完全に一致しているわけではない。思想的に空虚であるということは、空の観点からは否定もまた否定されねばならないのである。不去来は不不去来であって、不生不滅もまた不不生不不滅なのである。空を予定調和的な否定で表現してはならないのである。それが中庸ということの意味である。

空観は概念の解体ではあっても否定ではない。一切皆空と言ってもそれは空しいとか儚いということではない。現実はあくまでリアルで肯定的でなくてはならないのである。空観をすり抜けてこの世界を再認識するとき、玄妙な世界が現出する。いったん解体した後で、この世界を素朴に再構成する。これは理屈ではない、「柳は緑花は紅」と言うのはこのことである。「あるものが無い」とか「すべてはまぼろし」だとか、そういう話ではない。いたずらに神秘的な言葉を並べるのは禅臭いだけであって全然禅的ではないのである。

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言葉は浮遊する(2)

2018-03-11 14:39:09 | 哲学

人は、言葉には客観的な世界の秩序が反映されていると思いがちである。「犬」や「猫」という言葉には、当然それにふさわしい対象が客観的に存在すると思っているのである。しかし現代言語学ではそのような考えは否定される。

「観点に先立って対象が存在するのではさらさらなくて、いわば(その時々の関心や意識などの)観点が対象を作りだすのだ。かつは問題の事実を考察するこれらの見方の一が他に先立ち、あるいはまさっていると、あらかじめ告げるものは、なに一つないのである。」(ソシュール『一般言語学講義』)

つまり、「犬」という言葉は、この世界を「犬」と「犬以外」の領域に分節するだけだと言っているのである。しかもその領域を分ける境界は(その時々の関心や意識などの)観点によって恣意的に設けられるとまで言う。これは仏教でいう析空観そのものと言っても良い。龍樹はこのことをソシュールに先立つこと千七百年前から知っていた。海や山と呼ばれるものが世界にもともとあるのではない。わたしたち自身が、わたしたちの関心に応じて、世界を海や山という言葉で分節しているのである。

ちなみに、日本一低い山をご存じだろうか。仙台にある日和山という山で標高3mだそうだ。二番目が大阪の天保山で、こちらは4.53m。ちなみに2011年までは天保山が第一位だったのが、東日本大震災の津波で削られたため日和山の方が低くなったらしい。このような話を聞くと、「うちの裏庭の盛り土の方が低い」と言いたくなる御仁もいるのではなかろうか。山と盛り土を区別する境界というものは客観的には存在しないのである。

私達は無意識のうちに世界の中の差異からパターンを読み取り、分類し抽象概念を作り出す。これを分別という。その分別を一旦停止してみる。それが空観である。空観を通して、分別というものが本質的に恣意的であることを免れ得ないと知るのである。それを無分別智とか無差別智と言う。

   「山は山に非ず、これを山と名づく」

というのはそういうことである。

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言葉は浮遊する

2018-03-09 20:49:54 | 哲学

【 人は、名前について問うことが出来るためには、既に幾らかのことを知っている(幾らかのことが出来る)のでなくてはならない。それでは、人は何を知っていなくてはならないのか? 】(「哲学探究」第30節より)

" 言葉=ロゴス " という図式は言葉が不変であるという思い込みからくるのだろう。私たちはなにかの「名」を思い浮かべた時に、この世界の中にアンカーを打ち込んだような手ごたえを得るのである。この世界は無常であり何一つとして変化しないものはないが、私たちが思考するためには変化のない足場が必要となる。その足場が言語であろう。

     名前について問うことが出来るためには、なにを知っていなくてはならないか?

おそらくほとんど何も知らなくていいと思う。なんでもいいのだ、この世界の中のわずかな差異、かすかな揺らぎを見出すことさえできれば、どんな些細なことに対しても、名を訊ねることはできるし、なんなら名づけることもできる。

  祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
    娑羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす

誰もが知っている『平家物語』冒頭部分である。この美しい調べが平家物語の世界観を際立たせていることは間違いない。しかし、このフレーズが表現しているものを子細に検討すると、意外に空疎なものであるということもまた否定しがたい事実である。

まずたいていの人は「祇園」と聞いて、京都の祇園を想起するのではないだろうか。私はそうだった。京都の祇園なら、鐘は建仁寺辺りだろうか、瓦屋根の家々が立ち並んだ夜更けの街に「ごぉ~ぉ~ん」という音が鳴り渡る、そんな光景が浮かんでくる。

しかし、そうではないのである。祇園精舎は京都の祇園ではなく、お釈迦さまが説法していたお寺で、それはインドにある。そこに鐘があるかどうかは分からないが、もしあったとしても日本や中国のお寺のような鐘ではなく、ベルと言った方が良いような代物ではないだろうか。たぶん音も「ごぉ~ぉ~ん」ではなく「カーン、カーン」となりそうな気がする。沙羅双樹にしても熱帯性の植物であるから、平家物語の作者は見たことがないはずだ。

要するに作者は、祇園精舎も沙羅双樹についても具体的なイメージをほとんど何も持たないまま、「鐘の声」がどうの「花の色」がこうのと述べているのである。そして、それを読む私たちはそれぞれ自分の経験に基づいて、勝手な解釈を試みる。ちなみに私は、鐘が建仁寺なら、花はムクゲを連想していた。

なにを言いたいか。先に私は、言葉を世界の中に打ち込まれたアンカーに例えた。しかし、私たちはアンカーが打ち込まれた地点がどこであるかを結局知らないままなのである。なのに、世界の定点をアンカーはしっかととらえているように私たちは錯覚しているのである。 


【お詫びと注意】 

「哲学探究」第30節の趣旨を私が取り違えていることを、ある方から指摘されたので、そのことをお知らせいたします。 
当該節において、ウィトゲンシュタインが「必要とされる知識」というのは名前の対象そのものに付随する属性情報ではなくて、そのものが直示された時に了解するための背景となる前提知識のことであるということです。 
山田夫妻に「これが太郎です。」と紹介された時に、ああそうかと納得するための前提条件としての知識がなんであるかということを問題にしています。名づけのルールなどもその一つで、日常の言語ゲームを通じて無意識のうちに初対面の太郎君を受け入れる前提知識が形作られているということです。 
この記事はあくまで、私独自の問題意識によるものとして受け止めて下さい。

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