禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

空(くう)について

2014-09-13 13:26:53 | 哲学

妻がNHK Eテレの「100分de名著」とかのビデオを視ていた。「般若心経」についての講義らしい。

「うーん。空ってなんとなくわかったような気もするけれど、やっぱりわからないわ。」と妻は言う。

「この世界のあらゆるものは移ろい変化する。いかなるものも絶対ではない。それ故すべては空であるという。」

概念的な理解はこれで十分である。言葉の意味もなるほどと理解できる。でも『やっぱりわからない』というのはその言葉の持つ意味が体感できていないということだろう。それを体感するには、ある程度突き詰めたものの見方をしなければならないのだとも思う。

世の中で最も突き詰めたものの見方をするのは禅僧であろう。彼らは常に己事究明のために修行している。つまり自分自身を見究めようとしているのである。
通常は誰も、「自分は確固として有る」と思っている。つまり、自分というものを絶対視しているわけである。

しかし禅者は坐禅を通じて、自分と自分以外を区別する境界というものが実はどこにも存在しない、ということを知るのである。私たちが「自分」と言っているものは固定的には存在しない、それはいろんな現象の中に浮かび上がってくるものである。つまり空である。突き詰めればそういうことになるのである。

では、自分以外のものについてはどうだろう。例えば目の前にある「机」について突き詰めて考えてみよう。何故にそれは「机」であるのかを徹底的に考えてみるのである。よくよく凝視していると、それがただの木のかたまりにしか見えない瞬間がある。そして、机が机である絶対的基準もまたないことに気がつくのである。

「山は山に非ず、これを山と言う。」と言うのは、鈴木大拙居士の則非の論理であるが、これもまた空観に基づいたものの見方である。「山」というのも土や岩の塊に過ぎない。それは常に風に吹き寄せられたり雨に削られたりして、変化しているにもかかわらず、私たちはそこに固定的な「山」を見てしまうのが常である。しかし、山が山である絶対的な根拠というものもまた存在しない。山もまた空なのだ。

「如何なるものも空でないものはない」それが仏教の根本原理である。

だからなに? とあなたは問うかもしれない。

それに答えて、「だから執着してはならない。」と釈尊は言うのである。この世に絶対的なものは何もない。だから固定的な概念にしがみついてはならないというのがお釈迦様の教えなのだ。

近頃はヘイトスピーチなるものが流行っているらしいが、彼らのよりどころとする「日本」もまた空である。仏教的観点からすれば中国も韓国もアメリカもすべて空である。人間を差別する根拠にはなりえないのである。だから仏教は人間を決して差別しない。

だから、仏教は「人間の平等」を主張する。

 

空観はすべてを「空しい」とみる見方ではない。いかなるものも絶対視しないというだけのことである。空観は決して現実のリアリティを疑うものではない。むしろ空観をを通してみる景色は奇跡性が際立つのである。であるから、この世界をより一層いつくしむようになる。

だから、仏教は慈しみの宗教でもある。

仏教は中国を経て伝わったためお経は漢文で書かれており、何やら難しそうで荘厳な感じがする。ともすれば神秘的で呪術的なにおいもするが、釈尊は仏教をあくまで普遍的な思想としてといているのである。

 

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