禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

鎌倉花だより

2020-03-26 21:00:06 | 旅行
【 晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果しなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。 】 (小林秀雄「中原中也の思ひ出」より)

 小林秀雄・中原中也ファンクラブ南関東支部の幹事である私は、毎年この時期になると頻繁に鎌倉を訪れます。小林と中原が眺めていたという花海棠の咲き具合をチェックし会員の皆様に報告するというミッションを果たすためであります。
で、本日も比企谷(ひきがやつ)の妙本寺に行ってまいりました。

これが妙本寺の山門。棟にあしらわれた金色の笹竜胆が眩しい。

境内の桜はまだ5,6分咲きというところでしょうか。本堂の前のピンク色に見えるのが花海棠です。この寺はもともと観光寺院ではなく、平日に訪れる人はあまりいなかったのですが、近年は人力車に乗った着物姿の若い女性をよく見かけます。

ちょうど今頃からが見頃ですね。濃いピンク色の蕾もかなり残っているので当分楽しめそうです。

近県の方はぜひ一度お立ち寄りください。


※注 「小林秀雄・中原中也ファンクラブ」なるものは存在しません。念のため。
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オオイヌノフグリ

2020-03-04 11:51:44 | 雑感
 散歩の途中で、オオイヌノフグリを見つけた。 


 小さな花だが、とても可愛いきれいな花である。なのに、「オオイヌノフグリ」である。あまりと言えばあまりな命名だと思うのだが、当人たちはそんなことも知らぬげに咲いている。
 
 オオイヌノフグリは偉いと思う。
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無理会の処

2020-03-01 11:02:30 | 哲学
 「私は手を上げようと意志することはできる。しかし、手を上げようという意志を意志することはできない。」と言ったのは、哲学者のウィトゲンシュタインである。彼は生前には論文を1本発表しただけであるが、彼の残した講義録や私的メモをもとに、今なお多くの哲学者が研究を続けている、そんな稀有な哲学者である。

 自由とはなんでも自分の思い通り行為できることだと考えられているが、しかし、「手を上げよう」とする意志そのものを自分の思い通りに思い起こしているわけではない。では、その意志はどこから生まれてくるのか? 臨済禅ではそこのところを見極めるのが修行の目標となっている。一休さんで有名な大徳寺の開山は大燈国師という人だが、臨済宗の寺ではことあるごとに、大燈国師御遺誡というものを唱和している。修行者の心得を遺言としてしたためたものであるが、その中の文言に「無理会の処 に向かって究(きわ)め来り究め去るべし」 というのがある。無理会の処というのは分別・理解を越えたところという意味である。意志の生まれいずる処、それは我々の知的理解の及ばぬところである。では、我々を本当の意味で動かしているのはいったい誰なのか? 我々は本当は自由ではないのだろうか?  
 
 腕を思い切り振り回して、「どうだ、俺は思い通り動いている、おれは自由だぁ」と力みかえるのが自由というわけではない。腕を上げようとする時すでに腕は上がり始めている。自然にそうなるのである。自然(じねん)であることを禅仏教では「自由」というのである。
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