禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

意識とは何か

2023-05-22 12:21:39 | 哲学
 あるSNSにおいて、次のような質問を提示した人がいる。

「意識とは自分が作っているのではなく他人がいることによって作り出されるものなのでしょうか?」

質問された方の真意は分かりづらいが、このような問いが出てくるという事情は理解できる。意識がなんであるか、それはあまりにも自明のことと思われていながら実はとても難しいからである。そして、この人は「他人がいることによって作り出されるものなのでしょうか?」と述べているが、少なくとも他人がいなければ概念として成立しないということは間違いないことだと思う。

 上述したことについて訝しく思う人は少なくないと思う。「今、御坊哲の書いた記事をディスプレイで見ながら考えている、それは自分の意識の中で起こっている。自明のことではないのか?」と思うのは当然である。私たちはそのような思考に慣れきっているからである。しかし問題は「意識」という言葉が具体的には何を指しているのかということである。

 いま私は、自宅から遠くの山を見ている。手前にはベランダがあり、そこにはマリーゴールドの花が咲いている。どこかの家でカレーライスをつくっているらしく、あけ放たれた窓からはカレーの匂いが漂ってくる。実は私は昨日6回目コロナワクチンを接種したばかりで、少し気分がすぐれない。左肩が少し痛いし、体も頭もだるく、心臓の鼓動も感じる。これらはみな私の意識の中で起こっていることであるが、しかし、私が感じるもの考えるものをすべて数え上げていっても、その中に私の意識そのものは見当たらないのである。そこで気がつくのは、どうやらそれらもろもろのことが展開される場所のようなものを「意識」と呼んでいるのではないかということである。

 しかしここには一つ問題がある。それは言葉というものは比較があってはじめて成立するものだからである。意識という言葉が成立するためには、意識と意識以外のものを分別できなければならない。あらゆるものが意識の中にあるのであれば、意識の外に出ることは不可能なので、意識を認識することはできないはずである。しかし、「意識」という言葉が現に成立しているからには、我々は確かに比較しているはずなのである。どのような比較かと言うと、それは「私の意識」と「他者の意識」を比較しているのである。もちろん他者の意識を直接確認して比較しているわけではない。言語によるコミュニケーションを通じて、他者も自分と同じような景色を見たり感じたり、同じように考えたりしていると推論することによって、自分の意識と他者の意識を共に見下ろす客観的視点を確保するのである。しかし、この客観的視点というものはあくまで架空の視点である。

 自分も他者も同じようにものを見たり感じたりすることの出来る同等の人間であるという世界観(客観的世界観)に立てば、「意識」という概念は成立する。むしろそれがなければ心理学などという学問も成立しない。客観的世界があるという前提が無ければ自然科学をはじめとするほとんどの学問は成立しないのである。しかし、その事が哲学にとっては悩ましい問題となる。哲学は前提を設けないで考えることをする学問であるからである。

 自分の意識と他者の意識を比較すると言っても、他者の意識を観察することは出来ない。だからその「比較」はある意味虚構でしかない。したがって、客観的世界を俯瞰する客観的視点というものも実際には存在しない。客観的世界というのは推論によるある種の虚構だとも言えるのである。客観的には意識があることは自明であっても、ここに哲学的には巨大な問題が存在する。実存的な視点から見れば、意識は存在しないとしてもなんの矛盾もない。ちなみに哲学者の永井均は「なぜ意識は存在しないのか」という本を書いている。ウィトゲンシュタインは「比類なき私」という言葉を使うが、これも「私の意識」というものが比較対象がないというところからきているのである。

 実は、このことは実存的問題を追求する禅仏教においても大問題で、己自究明を徹底したその究極には「無」に行き着くのである。

鎌倉明月院「悟りの窓」
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永劫回帰と無常

2023-05-22 09:36:23 | 仏教
 永劫回帰(永遠回帰とも言う)というのはニーチェの考えだしたことである。彼はこの世界が有限であると考えていた。世界が有限であれば、その世界を構成している要素も有限であるはずである。要素が有限であればいかにそれが膨大なものであってもそれらの組み合わせのバリエーションは有限である。ところが時間は無限だから、世界は同じことの繰り返しにならざるを得ないというのである。つまり私は今までに、無限回生まれ無限回同じ人生を送り無限回死んでいる、ということなのである。

 宇宙が有限であるかどうか時間が無限であるかどうか、それはわれわれの経験が及ぶところではないので知ることは難しい。例えニーチェの考えるように、宇宙が有限で時間が無限であったとしても、エントロピー増大の法則を知っている人ならば決してニーチェの考えている通りにはならないと考える筈だ。現在の宇宙は物質やエネルギーが偏在しすぎているので定常状態にあるとは考えにくい。それともう一つ、私と全く同じ肉体を持ち、全く同じ考えを持ち、全く同じ生涯を送った、そういう人間をすべて同じ人物とみなせるかどうかは疑問である。もちろん他者から見れば、同一人物にしか見えないだろうが、重要なのはその人にとって自分自身であるかどうかである。この件については過去にも論じたことがあるので参照していただきたい。( ==>「自分自身を同一視(identify)出来るか?」)
 
 揚げ足取りはこのくらいにして、ニーチェの真意に沿って考えてみたい。彼の言いたかったことは仏教の無常観に通じるところがあるような気がするのである。同じことを繰り返すというのは無常とは相反するような気がするが、無目的的であるということにおいては通底している。「変化し続ける」と「繰り返す」という違いはあるが、ただ自然法則に従っているだけで行き着く先というものがない。つまり、彼岸もなければ救済もない、我々はつねに過渡的で偶然的な運命に翻弄される卑小な存在でしかありえない、というニヒリズムがそこにはある。そういう意味で永劫回帰と無常は同じなのである。

 楽しいだけの人生を送る人もたまにはいるかもしれないが、大抵の人の人生には多くの苦渋が満ちているものである。その同じ人生を永遠に繰り返す、想像するとめまいを起こしそうなアイデアである。ニーチェはそれら全てを肯定的に受け止めよと言う。ここまでは仏教の出発点とほぼ同じである。そしてこの辺から仏教とは少し違ってくるのだが、ニヒルな世界に意義を見出す動機となるものが「力への意志」であると、ニーチェは言うのである。力への意志とは、強さ、美しさ、賢さ、快さ、気高さ、というような自分の精神をより高揚させるものを肯定し、一切の妥協を許さずそれを希求し続けるそういう姿勢のことである。妥協を許すというのは力への意志の否定であり、ほどほどで満足するというのは、己よりも更に弱い者を見て相対的にルサンチマンを晴らして自分の生に意義を見出すという弱者の論理である、とニーチェは言うのである。 ニーチェの思想はつまるところ一切の自己否定をせず欲望全開というところに行きついてしまう。かなり危険なものであるが、自分自身に対して誠実であるという面において、昔から若者には一定の人気がある。しかし、それは本当に自分自身に対して誠実と言えるのだろうか? 神のいない世界がニヒルであるなら、生きる意味を自分の内側に求めたことは理解できる。しかし、「力への意志」と言揚げした時点ですでに少し肩に力が入り過ぎているように思えるのである。
 
 では、仏教徒はどのようにしてニヒリズムを克服したらよいのだろうか? 「一切皆空」がスローガンであるから、むしろ「世界はニヒルだ」と言っているようなものである。なんかちょっと難しい。この辺が仏教の理解されにくい点だと思うが、「一切皆空」というのは、この世界に対し余計な意味付けをしないという意味である。ただ虚心坦懐に世界を見つめるだけで、この世界に意味があるかどうかは自己の内なる自然が決めるということなのである。「あるがまま看よ」というのはそういう意味に他ならない。栂ノ尾の明恵上人がある時道端のスミレの花を見て感動し落涙したという故事がある。一輪の野のスミレがそこに咲いている、そこにどのような力が働いているかは分からないが、それは偉大な奇跡ではないかと明恵は言うのである。「柳は緑花は紅」とは何の変哲もない当たり前のことである。その当たり前のことが尊いと私たちの内なる自然が云う、と明恵は説くのである。

 明恵ほどの修行をしていないわれわれは涙を流すほどのことにはならないかもしれないが、彼の感動をある程度理解できる。野のスミレが美しい。私たちはそういう世界の中にいる。やはり、人生は生きるに値すると思う。


わが家に遊びに来るスズメ
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「後悔したこと後悔する」とはどんな意味?

2023-05-08 18:12:35 | いちゃもん
 私は若い頃人生幸朗と生恵幸子師匠の夫婦漫才が好きで、よくラジオでそれを聞いていた。いわゆるボヤキ漫才というやつで、ネタはたいてい流行歌の歌詞に関するものである。何ということはない歌の文句をとりあげて、屁理屈をこねていちゃもんを付ける。そういう芸風である。「『君の瞳は百万ボルト』やて? なんやそれ。目の玉は電球ちゃうぞ!」と怒り出し、終いには「責任者出て来いっ!」と切れまくるという塩梅である。

 人生幸朗師匠の影響もあってかどうかは知らないが、実は私も流行歌を聴いていて時々いちゃもんをつけたくなることがよくある。私はちょっと言葉についてはうるさい。なんか適当に言葉ならべてるだけじゃないのかと言いたくなるのである。

 〽もし今日を逃し 後悔すれば
 〽後悔したこと 後悔する
 〽後悔したくないんだったら
 〽後悔なんかするな

 若い歌手が歌っているその歌詞の中にその文言があったのであるが、聞いた瞬間一体何のことだか意味が分からなくて軽いめまいがした。果たして人は「後悔したことを後悔」したりするものだろうか。避けようと思えば避ける事が出来たはずの残念な結果を招いてしまった、後悔というのはそういう時に起きるネガティブな感情である。あくまで自然な感情であり、自分の意志で後悔することそのものを選択するわけではないので、後悔したことを後悔することは普通はあまりないはずである。あえてそういうケースを揚げるなら、後悔の念が強すぎて落ち込んでいる間にいろんな機会を逃してしまった、そういう場合には「あの時あんなに落ち込んでばかりいるんじゃなかった」と後悔するということはあるかも知れない。しかし、そんな意味でこのフレーズを使っているのなら流行歌の歌詞としてはいささかセンスに欠けるというものだろう。

 もしかしたら作詞者は「後悔したこと後悔する」というフレーズを自己言及文として、純然たる言葉遊びのつもりで書いたのかも知れない。しかし言葉遊びなら言葉遊びと分かるようにしておかねばならないし、これは自己言及文でもない。前述したように「ネガティブになったそのことを再び後悔する」という意味に読めるからだ。中途半端なあざとさがこの歌をダサいものにしていると私は感じた。おざなりの言葉ならべただけでは決して芸術にはならないのである。

 ちなみに、後悔はしなくてもよいと思うが反省は必要だと思う。

「後悔しない航海」
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