禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

心が打ち震えるような試合

2019-08-29 09:32:50 | 雑感
昨日の柔道世界選手権の女子63キロ級の決勝戦のことである。日本代表の田代未来選手は絶好調だった。得意の足技がさえて順調にベスト4に勝ち上がり、準決勝ではオリンピックチャンピオンのティナ・トルステニャクをも下した。決勝の相手は、力、スピード、技の切れのどれをとってもこのクラスでは傑出している実力ナンバー1のフランス代表のアグベニュ―選手である。彼女はここまで相手を寄せ付けない強さで勝ち上がってきていた。
 
田代はアグベニュ―をよく研究していた。右手で相手の利き腕の左をけん制しながら、小刻みに足技を出し、相手に思い切った技を出させないよう工夫していた。しかし、田代の側も常に相手をけん制し続けなければいけないので、思い切った技をかけることができないのは同じである。一瞬の気のゆるみ力のゆるみが即負けにつながる、息詰まるような緊張の中を田代はよく耐えた。耐えて、相手がつかれてきた場面で勝負をかけるつもりだったらしい。10分以上過ぎて、得意の大内刈りを放ったが、しのがれて逆にアグベニュ―の渾身の巻き込みを喰らってしまった。
 
勝負がついても、二人ともすぐには起き上がれない。まさに死力を尽くした戦いだったのだ。アグベニュ―は立ち上がるとすぐに田代の方に両手を差し出し、そして二人は抱き合った。二人とも目に涙をたたえている。アグベニュ―は日本語で田代に「ありがとう」とささやいたという。ともに同じ目標に向かい精進しあってきた相手へのリスペクトを感じさせる感動的な光景であった。
 
女子柔道の試合を見て、これほど感動したことは今までなかった。
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今日は終戦の日

2019-08-15 12:59:42 | 雑感
東京新聞の一面に次のような一句が「平和の俳句」として紹介されていた。

  
日は昇る 赤ちゃんは泣く 花は咲く

見出しに、「手放しで泣ける幸せ」とある。

かつて、赤ちゃんが泣けない状況があったのだ。終戦間際における沖縄で、住民と日本兵がガマという洞窟に隠れていた時、赤ん坊が泣きだした。その時、米軍に見つかるのを恐れて、「殺しちまえ」と怒鳴ったという。
(=>「証言でつづる戦争 」)
赤ん坊が泣けない状況というのも過去にはあったのだ。

日は昇る、赤ちゃんは泣く、花は咲く。どれも当たり前のことである。しかし、当たり前のことが尊い。どこかで赤ちゃんの声がすれば、なぜか心が安らぐ。その平安こそが玄妙である、というのが仏教の教えではないだろうか。


(山寺)
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数学と科学(物理学)の関係

2019-08-05 05:14:41 | 哲学
現在では、数学とは公理を前提に論理を演繹してつくられたものと考えられている。論理というのは、私たちがそれに沿って考えることを強いられる原理のことである。通常、無矛盾律とか推論規則と呼ばれているような論理法則のことである。私たちは論理に沿ってしか考えることはできない。論理に反していると、「それは正しくない」と私たちは感じるのである。だから、数学の正しさはそういう意味において、我々にとっては「絶対的」である。

公理は現代数学では任意に設定できることになっているが、昔は自明であるものとされていた。自明なものを前提に論理を積み重ねた結果は「正しい」に決まっている。そうでなければ、我々はものごとを認識できないだろう。なぜ「論理」がこの宇宙の秩序と整合しているのかと考えれば、それはたまたまだろう。ただ、「論理」と宇宙の秩序に整合性がなければ我々は淘汰されているだろうということは言える。1と2の識別ができないことの不利を考えれば、それは当然のことだろう。人によっては「人間は論理を進化によって獲得した」と言いたくなるかもしれない。

物理学はこの宇宙が現実にどのような秩序に支配されているか、ということを探る学問である。だからすべては現実の観測から始まる。ここの現象から帰納して法則を見出すのである。そうしてニュートンは「万有引力の大きさは引き合う物体の質量の積に比例し、距離の2乗に反比例する。」という規則性を見出した。そこから F=G*m1*m2/(r∧2) という数式が導き出される。万有引力の法則が正しい限りにおいて、この数式は絶対である。もし、引力の強さがこの数式通りでないようなことがあったなら、それはこの数式が間違っているのではなく、万有引力の法則が間違っているのである。

ものごとの前提が数学の前提と一致する時、ものごとは数学にしたがって現象するはずである。もし、そうでなくなった時、それは私たちがものごとを認識できなくなっていることを意味する。私たちは論理に反して考えることはできないからである。 
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