禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

存在は存在者ではない

2019-11-30 06:35:20 | 哲学
 西洋哲学というのは一般的に言って難しい。難しすぎて分からないということもままあるが、しかし我々にとってはあまりにも当たり前すぎて却って分からないということも時にはある。

 カントが、「手元にある100円も想像上の100円も同じ100円である。」と言ったら、あなたは「大違いだ、無い100円では何も買えないではないか。」と言いたくなるのではないだろうか。確かにそうなのだが、カントは「100円は100円である。」という当たり前すぎることを言っているので、我々は混乱するのである。

 カントがこういうことを言うには理由がある。当時のヨーロッパでは「神の存在証明」のが流行っていて、「万能の神はあらゆる属性を備えている。したがって『存在する』という属性も備えているはずである。したがって、神は存在する。」という説が有力であった。早い話が「神は『ある』ものだから、『ある』はずである。」と言っているに過ぎない。こんな事をものすごく頭のいい人達が大真面目に言っていたのだが、大抵の日本人には屁理屈としか思えないのではないだろうか。

 存在者というのは日常語では「存在する人」という感じだが、哲学用語としては有るとかないとか言える対象のことである。人や物だけではなく抽象的な概念にも適用される。100円玉について言えば、重さや固さとか物との交換価値というような属性は100円玉そのものに備わっている(つまり「有る」)と言えるので存在者である。しかし「有る」ということは100円玉そのもの属性ではない(今ここになくても、100円玉は100円玉である)のである。だから、カントは「有っても無くても100円は100円である。」という当たり前のことを言ったのである。このことを小難しく表現すると、「存在は存在者ではない」ということになる。 

 以前投稿した「美しい花がある。『花』の美しさといふ様なものはない。」という記事のテーマも「『美』は存在者ではない」ということになる。
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狗子仏性(趙州無字)

2019-11-27 17:05:29 | 公案

 少しでも禅をかじったことのある人ならだれでも知っているでしょう、無門関の第一則です。臨済宗では「隻手音声」と並んで初関として与えられることの多い公案です。公案の内容はいたって簡単です。

趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」

( ある僧が趙州和尚に「犬にも仏性がありますか?」と問うたところ、趙州は「無」と答えた。)

おそらく参禅者は「無」の一字に集中するよう指導される。そして日がな一日中むーむー言っていることになる。一生懸命やっていれば、そのうち自分が無か無が自分かという状態になる。いわゆる三昧です。そうなればそのうち「はっ」と気付く。思わず大声で「無ーだぁ!」と叫びたくなるかもしれない。いわゆる概念の崩壊である。あらゆるものの差別相がなくなり、いかなるものにも固定的な本質というものがないことを知ります。師家にもよりますが、たいていの場合その時点で見性を認められるでしょう。そこから初めて本格的な禅の世界へ足を踏み入れることになります。

禅問答というのは知識のやり取りではありません。これこれこうですと教えてもらって、ああそうかと納得するようなものではないのです。「犬に仏性がある」と言われて「犬に仏性がある」と知る、禅的にはそのような分かり方を「何かを知った」とは言わないのです。犬に仏性があるかどうかは、まず仏性がなんであるか見極めることが出来なければ言えないし、その上で自分が犬でなければ、あるともないとも言えないのが本当の道理というものでしょう。

趙州和尚の「無」は、そのような言葉のやり取りに対する拒否の意味も含まれているように受け取れます。無門慧開はこの「無」を有無を超越した「無」であるとしています。この公案を第一則に取り上げたのは、まず有無の邪見を排し中道を目指すための最初の関門という意味でしょう。そしてこの公案集を「無門関」と名付けたのは、無門和尚の名にちなんでということもあでしょうが、この「無字」の一関に「無門関」全体の性格を象徴させているということもあると思います。最終的には、「仏性」と「無」がぴったり重なるところまで工夫しなければならない深い意味を持つと思います。

参禅のことはひとまずさておいて、インターネットにはびこる当公案に対する解説に気になる点があるので、そのことについて少し注文をつけたいと思います。

大抵の解説は、僧が「犬に仏性がある」ということが仏教上の通念であることを前提として、趙州に問いを投げかけたということになっている。しかしどうだろう、そんなに簡単に「狗子に仏性有り。」としてしまって良いのでしょうか?

ちなみに「仏性」とは、コトバンクによると
≪仏教用語。覚性とも訳され,如来蔵の異名ともされる。完全な人格者,仏陀となるべき可能性をいう。われわれが仏陀の教えを聞き,その教えに従って修養努力して行くことによって,ついには完全な人格者となることができるのは,われわれのうちに真理を理解し,それを体得実現しうる可能性があるからで,この能力が仏性である。≫

となっています。えらく難しい。「仏性」が上記のとおりの意味であるならば、「仏陀」がどういうものであるか分からなければ、「仏性」の意味もまた分かりえないのではないでしょうか。つまり、悟っていなければ「仏性」について語ることもまたできないはずです。理屈を言えば、犬の仏性を問題にする前に、まず先に自分の仏性が問題になるはずなのです。先にも指摘したことですが、「一切衆生悉有仏性」などという言葉を聞いて分かったつもりになったとしても、それは単なるスローガンにしかなりません。

インターネット上の解説は、ほとんどその辺のことはすっ飛ばして、趙州の答えた「無」は有無を超越した「無」であるというようなことを、判で押したように述べているのですが、この辺は参禅など経験したことのないほとんどの読者にとってはきわめてわかりにくい。そういう人たちにとっては、「仏性があるのかないのか」について空疎なパズルを提供するだけのことになってしまい、ひいては禅に対して見当違いなイメージを持たせてしまうことにもなっているのではないでしょうか。

私の個人的な意見を言わせてもらえば、この「仏性」という仏教用語は「心」のことであるとすればどうかと思うのです。「仏性」という日常的になじみのない言葉よりも「心」という言葉の方が手ごたえがありそうです。 「犬に心はあるのか?」というのは一般の人にも哲学的課題として有意味であるようにも思えます。そのうち「心ってなんだろう?」と自問するようになるでしょう。分っているつもりでも実は分かっていない「心」について考えているうちに趙州の「無」に肉薄する人も出てくるかもしれません。

もう一つ公案に向かう場合には、禅には実存的な視点しかないないということをわきまえている必要があります。問題とされているのは、常にここと今しかなく、問われているのは自己についてであるということです。禅には己自究明以外の問題はないと考えるべきであります。したがって、ここで問われているのは、表面的には犬の仏性でありますが、本当に問われているのは自分の仏性についてであります。犬を外から眺めていてもなにも分かりません。自分がその犬になりきって公案に向かい合わなくてはならないのであります。

 

(参考 ==> 「公案インデックス」

 

朝日の当たる部屋

コメント (7)
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色即是空 空即是色

2019-11-26 21:25:47 | 哲学
 大乗仏教では、あらゆるものは自性をもたない、すなわち空であると説く。自性というのは、他のものと関係なくそのものがそのものであり得るような本質を意味する。ギリシャ哲学でいうところのイデアである。人間は一人々々みな違っているのに、それぞれが人間であると分かるのは、人間としての本質というものつまり人間のイデアが存在するからである、とプラトンは説く。だとすると、人間のイデアというのは人類誕生以前から、そして人類滅亡後も永遠に存在するということになる。
 
 一方、大乗仏教はそのような永遠不滅かつ固定的なものは存在しないと説く。もし人間のイデアが存在するなら、進化の過程で人間以外から生まれた人間が存在することになり、その境界が明瞭でなければならない。誰がその境界を見定めることができるだろうか? そのようなものはありはしない。無常なる世界では、すべてのものは偶然的で過程的であり、完成形あるいは最終的なものは存在しない。私たちはみなそのダイナミズムのさなかに生きるものである。色即是空とはそのような理を説く言葉である。絶対的な本質というものがない限り、我々は固定的な位相に執着する根拠を持たない。どのような力をもってしても無常を押しとどめることはできない、そのことを見極めることが仏教的諦観である。どのように美しい人と雖もいつかは老いる。どのように愛しい人もいつかは死ぬる。はかないと言えば儚いが如何ともしがたい真実でもある。

 それで、大乗仏教の祖である龍樹は「すべては陽炎と看よ。」というのであるが、この言葉をそのまま「すべてはまぼろしである。」というような意味に受け取ってしまうと、それはニヒリズムになってしまう。「色即是空」というのは前回記事(現実があって理論がある)に照らせば「理論」である。その正しさは超越的な視点から見た客観的な正しさでしかない。すべては無常であり、我々はそれを受け入れなくてはならないことはその通りであるが、私たちの「現実」というのは、このありありとした世界を実存的な視点からとらえねばならないのである。「空即是色」というのはそのことを言うのである。

 あなたが恋人を抱擁しているとする。その時、あなたは「君の体はほとんどが水素、酸素、炭素、カルシウムでできている物体に過ぎない。」と呟いたら、あなたは張り倒されても仕方がない。別に間違ったことを言ったわけではない。析空観(参照=>「析空観と体空観」)に従えば、あなたの言ったことは正しい。ただし、その正しさは「理論」だけを見ているのであって「現実」を見ていないのである。色即是空の観点だけでは無味乾燥のニヒリズムに陥るだけである。(参照=>「婆子焼庵」)
彼女の体は柔らかく温かい、そして息づいている。それがありありとした「現実」である。理論は正しい見通しを立てるためには必要であるが、最後には必ずこのありありとした現実に立ち還らなくてはならない。「柳は緑、花は紅。」というのはそのことである。
 
江ノ電の車窓から七里ガ浜を見つめる仲の良い姉弟。これも無常の中に現出した現実である。
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理論があって現実があるのではなく、現実があって理論がある。

2019-11-23 20:52:39 | 哲学
 人は一般に、現実は理論に従うものと思いがちだが、実はそうではない。まず現実があって、理論はそこから導き出されるのである。理論はいつでも現実を説明するためにのみある。あまり理屈とらわれているとそこのところを忘れがちになる。
 禅の公案に「鐘が鳴るのか撞木(しゅもく)が鳴るのか。」というのがある。一見、これは鐘が鳴る機序を問うているようだが、実はそうではなく、「ゴーン」となるその音そのものを了解せよと要請しているのである。学校で物理学などを学ぶと、「この鉄の塊は固くて稠密に見えるけれど、これを構成する原子は中心部に小さな原子核があって、その周りをもっと小さな電子がまわっていて、ほとんどスカスカの空間がほとんどなんだよ。」などと言い出す。
  しかし、このスカスカの原子モデルというのは、鉄が固くて稠密であることを説明するために考えられたものであることを忘れてはならない。科学はこの世界の驚異的な構造を解き明かす。それはそれで偉大なことであるのは間違いない。しかし、その驚異的な構造というのは、われわれの目の前の日常を説明するためのものであることを忘れてはならないと思うのである。禅語の「柳は緑、花は紅。」というのは、真理は現前する日常の中にあるという警句である。理論に惑わされて、世界をゆがめてはならない。

哲学者は時にグロテスクな世界観を抱きがちだが、つねに日常に立ち返らなくてはならない。
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2019-11-20 19:46:47 | お知らせ
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