禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

鎌倉花だより

2019-03-27 19:06:28 | 旅行

「東京の桜は満開」の報を聞いて、鎌倉はどうかと思い出かけました。やはり、さくらは青空の下で見たい。明後日からは曇り空になるという予報なので、あせってでかけたのです。が、しかし‥‥

段蔓の桜はほとんどが蕾のままです。鎌倉は東京より桜の開きがかなり遅いようです。


桜はいまいちだけれど、人の賑わいの方はご覧の通り、平日にもかかわらず小町通は人でごった返しています。

気を取り直して、妙本寺の方へ向かいます。

綺麗な着物を着ている娘さんがいたので、許可を得て写真を撮らせてもらいました。妙本寺はもともと観光寺院ではなく、4,5年前までは小林秀雄や中原中也ファンが訪れる程度でしたが、近年は穴場としてだんだん知られるようになってきたようです。花の季節になると人力車の観光コースにも組み入れられているみたいで、貸衣装の着物を着て人力車で訪れる若い人も多いようです。

海棠の花は3分か4分というところでしょうか。週末か来週にかけてが見ごろでしょう。

 

海棠はまだですが、さくらは既に八分咲きで満開間近です。他の地域よりここだけなぜか早い。


今度は長谷寺の方へ足を伸ばすことにします。

海街diaryのポスターにもなった景色です。今日は少し風が強く、波が立っています。長谷寺は素晴らしい観音像があることで有名ですが、花の寺としても知られています。外国人観光客もとても多い寺です。

ミツマタの花は黄色が多いけれど、ここのは赤花でとてもきれいです。


ミツバツツジの鮮やかな赤紫が強い日差しの中で映えます。


緑の苔の中のすみれが可憐です。

 

小さなシャクナゲ?  と思ったら、「吉野つつじ」と書いてありました。ツツジとシャクナゲが近縁種であることを実感しました。

 

こんなに綺麗なのに「ボケ」と呼ばれるのは気の毒な気がする。

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Don't think , feel !

2019-03-08 04:51:24 | 哲学

私はブルース・リーの大ファンで、彼の映画はほとんど見ている。「考えるな、感じろ!」というのは、「燃えよドラゴン」の冒頭のシーンで、彼の弟子をさとして言った言葉である。(=> "Bruce Lee - Don't Think, Feel" )   スター・ウォーズのヨーダのセリフとしても採用されているので、西洋人から見た「東洋の智慧」的な言葉として受け止められているのだろう。

実際に、この言葉は仏教の世界観を表す言葉でもある。仏教では「すべては空である」と説く。「空」というのは概念(言葉)による規定を拒絶するということである。つまり、世界をあるがまま受け止めるということに他ならない。真実は現前している、言葉による再構成はそれをゆがめる行為である。「考えるな」というのはそういう意味である。だが、決してこれは神秘的な思想ではない。理詰めで考えて行っても到達する普遍的な哲学的見解でもある。西洋哲学者であるウィトゲンシュタインも次のように述べている。

「我々が生きている世界は、感覚与件の世界である。しかし、われわれが語る世界は物理的対象の世界である。」(1931-33年の講義から)

「感覚与件」とは我々の感官が直接受け取る情報、つまり見たまま聞いたまま感じたままの感覚のことである。物理的対象とは「存在していると考えられる対象」つまり推論によって再構成されたものという意味である。この言葉はそのまま西田幾多郎の次の言葉と符合している。

≪我々は意識現象と物体現象の二種の経験的事実があるように考えているが、その実はただ一種あるのみである。即ち意識現象あるのみである。物体現象というのはその中で各人に共通で普遍的関係を有する者を抽象したものに過ぎない。≫ (善の研究P.72)

ウィトゲンシュタインの「感覚与件」と「物理的対象」がそのまま西田の「意識現象」と「物体現象」に各々当てはまる。我々の生きている世界は直接感じ取っている世界そのものに他ならないのであって、それこそが唯一の実在である。

(参考記事=>「非風非幡」)

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メリー・ポピンズ リターンズ

2019-03-03 07:03:51 | 日記

アメリカ映画には文句を言いたい面もいろいろあるが、ミュージカル映画については文句のつけようがなく、手放しで素晴らしいという他はない。今回の映画も期待に外れることはなかった、と言うより期待以上で、こんなわくわくする楽しい時間をもったのは久しぶりだ。文字通り夢のような時間を過ごし茫然自失の体、おかげでショルダーバッグを映画館に忘れてきたことに気がついたのは帰宅してから3時間もあとのことだった。

たいていのミュージカル映画は見逃さないで見ているのだが、オリジナルの「メリー・ポピンズ」だけは観ていない。私がミュージカルに目覚める前に公開された映画だからだが、むしろ観ていないことが、今回の作品を鑑賞するうえで幸いしたかもしれない。ジュリー・アンドリュースの際立った歌唱力と演技を見ていれば、どうしても主人公の人物像の先入観を排除するのは難しかっただろう。

エミリー・ブラントがジュリー・アンドリュースより劣っているという意味ではない。歌唱力においてアンドリュース以上を望むのはそもそも無理というものだが、ブラントの気品ある気高い演技はその美貌と相まってこれ以上はないはまり役のように感じさせるものがある。是非、同じ配役で「リターンズ」のさらなる続編を作ってもらいたいと切に思う。

家に帰って妻に映画のことを熱っぽく語っていると、妻から「あなたって少女趣味ね。」と言われてしまった。そうかも知れない。小さなシネサロンには土曜日だというのに観客は三十人程しかいなかった。その中で男一人で見に来ているのは私だけで、あとは夫婦連れが二組、その他の客はすべて女性だった。

こんな楽しい映画は、子どもだけではなく大人も、女だけでなく男も、とにかくもっとたくさんの人に見てもらいたいと思った。少女趣味、大いに結構。

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仏教が問題としているのはつねに実存である。

2019-03-01 09:11:03 | 哲学

 前回記事で、西洋哲学では存在というものに対して、本質(何であるか)と実存(現実かどうか)の二面からアプローチする、と言うように述べた。では、仏教(特に禅)ではどうかというと、本質はほとんど問題にされない。仏教で追及するのは実存だけである。一応、己自究明というのは「自己とは何か?」と本質を追及しているような形式で表現されるが、この問いは決して「自己とはXXである」というような形式の解答は期待されていないのである。

本質とはそのものとして欠くことができない要素のことで、人間ならそれを人間たらしめているもののことである。山田君と鈴木君は顔かたちも体格も性格も違うが、同じ人間だと判断されるのは二人とも人間としての本質を持っているからだとされる。いわゆるプラトンのイデアと考えて頂けばよい。しかしここで、仏教は「一切皆空」を標榜していることを思い出していただきたい。空観というのはあらゆるものに境界を認めないというものの見方である。人間と人間以外の境界も認めない。つまり、究極的には、人間や犬それに机や畑‥‥、それらすべてのものの本質というものは存在しないというのが、龍樹の主張である。概念によってすべてを規定しようとする西洋哲学と、仏教はこういう意味で大きく違うのである。

ゆえに、仏教においては本質存在に関する問題は存在しない。問題にするのはつねに実存であり、それが己自究明ということである。だから、禅の公案も当然問題にしているのは実存であり、その表面的な形式に関わらず、本当のテーマとなっているのは常に、「己」、「今」、「ここ」にまつわることでしかない。例えば、有名な公案「百丈野鴨子」について考えてみよう。馬祖大師の「雁はどこへ行った」という問いに対して、「向こうへ飛んでいきました」と答えた百丈に対して、馬大師は百丈の鼻を思いきりひねりあげて「ここに居るじゃないか」とたしなめた。己の実存について問われているのに、「雁」だの「向こう」だのと答えてしまったからだとすればつじつまが合う。 

( 関連記事 )  => 実存は本質に先立つ

 

幕山頂上から真鶴半島を望む ( 本文とは関係ありません。) 

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