禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

大坂なおみ全豪オープンの決勝に進出

2021-02-18 16:29:16 | 大坂なおみ
 数年前までテニスのルールも点の数え方も知らなかった私だが、大好きな大坂なおみを応援するようになってからは少し分かるようになってきた。見かけはエレガントなスポーツだが、テニスはとても過酷な競技である。体力的な強靭さが必要なことは勿論だが、技術的な精密さ微妙さが勝負の分かれ目になるため、メンタル面が非常に重要となってくる。どのスポーツでも心技体の充実が要求されるが、特にテニスにおいては「心」が重要である。
 大阪はもともとフィジカル面では女子テニス界ではNo.1である。しかし、優しくてはにかみ屋ということもあって、メンタル面から崩れて格下の相手に負けてしまうことがままあった。ところが、昨年の全米オープンにおける "Black lives matter"運動への使命感が彼女を大きく成長させた。常に平常心というか、ピンチになっても動揺しないで淡々とプレイしているように見える。以前はリードしていても何か不安を感じさせたが、今は逆にリードされても負けるような気がしない。その結果、昨年夏から公式戦では負けなしの20連勝中である。
 今日の準決勝も最初はウィリアムズに2ゲーム先取されたが、その後5ゲームを連取するなど、結果的には6-3、6-4の圧勝であった。試合後のインタビューで、彼女は次のように語っている。

 「試合開始時は少し硬くなって怖かった。(しかし)最も重要なことは(試合を)楽しむこと‥‥彼女と試合をすることはいつでも光栄なことだから。」

 この謙虚さにおじさんはしびれる。地に足を着けた堅実なものの考え方、それが彼女のプレースタイルに落ち着きをもたらしていると見る。心技体の備わった彼女は今や無敵に見える。コラムニストのDan Wetzel は今日の試合を見て次のように語っている。

「ウィリアムズはまだ多くのトッププレイヤーを打ち負かすことができる。多くの場合、試合の結果を決めるのは彼女自身のパフォーマンスである。彼女の調子がよければ勝つし良くなければ負ける。しかし、大阪との場合は別の話(different-level challenge)だ。彼女は現在世界第3位にランクされているが、実質的にはNo.1(the best actual player)だろう。」

明後日の決勝が楽しみである。
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年年歳歳花相似  歳歳年年人不同

2021-02-15 11:22:41 | 哲学
  古人無復洛城東
  今人還対落花風
  年年歳歳花相似
  歳歳年年人不同

≪ あの人はもはや洛陽にはいない今、また、(あの時とは別の)人が風に散る花を眺めています。昔年と同じように花は美しく咲くけれど、一緒にこの花を見た人はもはやこの世にはいない。

 唐代の詩人、劉希夷の有名な一節です。花は毎年同じように咲くけれど、それを見に来る人は同じではない。しかし、視点を変えれば、花だって去年のものとは違います。去年見た花は既に散ってしまって土に還ってしまい、今咲いている花は去年のものとは全然別のものであるはずです。このように私たちは、同じ事象を「変わるもの」と「変わらないもの」というふうに、二つの視点から見ることがあります。

 同じ事象を見ながら、ある時は「変わる」と見、またある時は「不変」と見る。この変わるものを「色(しき)」、不変のものを「相(そう)」と言います。色は不断に変わり続けとどまることがありません。その中で相が生まれてくるのは、類似パターンの反復があるからです。反復というものがなければ世界はカオスであります。いかなる概念も生まれてくることはなく、そこでは思考も不可能でありましょう。反復があるから概念を同定でき、そこに相という観念も生まれてくるわけです。

 仏教では「色即是空」といいます。これは「色は不断に変化し続けとどまることがないので、いかなる概念も成立し得ない。」という意味です。類似パターンはあくまで類似に過ぎないのであって厳密には同一ではありえない、したがって、概念というのもあくまで「仮」のものであって究極的なものではあり得ないということなのです。

 プラトンは、いろんな人間が「みな人間である」と分かるのは人間の「イデア」というものが実在するからだと言います。だとすれば、人間と人間以外を厳密に区別することができるはずです。ネアンデルタール人は人間でしょうか? ジャワ原人は人間でしょうか?  進化論的には最初の人間は人間以外の親から生まれたことになってしまいますが、その境界を引こうとすれば恣意的にならざるを得ないはずです。どんな反復も厳密には同じではないし、永久に続くこともまたあり得ないのです。だから、(大乗)仏教はイデアは実在しないと主張します。究極的には「色不異空」と言わざるを得ないのです。


梅の花は毎年同じように咲いているが、どの花をとってみても厳密に同じものは存在しない。
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吾妻山公園(神奈川県二宮町)

2021-02-10 21:45:17 | 旅行
 昨日(2/9)は天気が良かったので、二宮の吾妻山公園へ行ってきました。この公園はとても見晴らしが良いのです。

山頂のエノキはこの公園の主

満開の菜の花と青空とのコントラストが美しい。

この日は空気が澄んでいて富士もはっきり見えました。


公園からは相模湾が一望のもとです。


展望台の方へ行くと人だかりがしています。覗いてみると、なんと猫ちゃんがいました。みんなこぞってカメラを向けていました。スコットランド原産の猫で寒さには強いのだとか、冷たい石の上で平然と座っていました。そばにいた飼い主さんの話では、年間60回ほどここへ散歩に来るそうです。「じゃらん」に載ったこともあると言っていました。かなり有名な猫らしいです。

二宮の町は元漁師町らしく細い路地が入り組んでいたりして、私はわりと気に入っていて毎年一二度訪れています。

駅前には「ガラスのウサギ」の銅像があります。

ここは国道一号線、旧東海道の松並木の名残です。正面に見える凸凹した山々は箱根の外輪山です。

路地を歩いていたら、突然海が開けていました。正面に伊豆の大島がみえます。

気が向いたら、二宮町を訪れてみて下さい。
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理事会に時間がかかってなにが悪いのか?

2021-02-06 10:31:17 | 政治・社会
 森さんの失言は今に始まったことではなくいまさら何をという感じだが、公の場で堂々とオリンピックの精神に逆行するような女性差別発言をやってのける、そのようなざっくばらんさが政治の世界では評価されるらしい。ある意味そういう「人間味」が、彼の調整型政治家としての力の源泉なのだろう。悲しいが、それが日本の実情である。
 
 彼の女性蔑視発言は論外中の論外で当分の間マスコミに叩かれるだろうが、私はもう一つ「理事会に時間がかかる」のは悪いことかどうかということを問題にしたい。彼の暴言に対して、「あれは私のことだ。」と名乗り出た人がいる。ラグビー協会で初めての理事となった稲沢裕子さん(昭和女子大特命教授)である。当時の理事会でラグビーの素人は彼女一人だけだったらしい。もともと新聞記者だった彼女は、些細な疑問も遠慮せずにずばずば質問したらしい。周囲が当惑したことは想像に難くない。森会長に質問を制止されたこともあったと述懐している。しかし、そもそも彼女が起用された理由が「ラグビーの素人」としての意見を求められてのことだったという。

 事情通だけなら話が早いのは当たり前である。素人が混じれば、玄人にとってはうっとおしくて面倒くさいというのはその通りだろう。しかし、その「面倒くさい」のが民主主義なのだ。玄人ばかりで事を運べばスムースに仕事が運ぶかもしれないが、所詮同じタイプの人間ばかりで基本的なことを見落としてしまう。現に、男社会の日本はいつの間にか世界の潮流から取り残されている。オリンピック憲章の精神と真逆のことを発言してしまう人が、東京オリンピック推進のトップを務めているという異常さに慣れてしまっているのが日本の現状である。

 稲沢さんは「女性かどうかではなく、議論しなければならないことは時間がかかる。活発に議論することは必要。」と述べている。正論だと思う。民主主義は面倒くさいということを忘れてはならない。時には陳腐なやり取りがあるかも知れないが、陳腐であることは時に許される。しかし、平等とか人道というような根幹にかかわることは絶対にゆるがせにできないのである。
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無限大と無限小と連続

2021-02-02 11:01:20 | 哲学
 無限とは文字通り「限りがない」という意味であろう。自然数を、「1,2,3、‥‥」とかいくら数えていっても終わることがない。そういう意味だったはずである。しかし「無限大」と言うと、なにかその言葉が指示する対象があるかのように錯覚してしまう。しかし無限大ははるか無限の彼方、あったとしてもわれわれの経験はそこまで到達できない。それが実在するかどうかということはわれわれには理解不能である。次のような(-1)のn乗(n=0→∞)を一般行とする無限級数Sを考えてみよう。

      S=1+(-1)+1+(-1)+1+(-1)+ ‥‥‥

この時、Sの値は「収束しない」と数学の時間に習ったはずだ。しかし、無限大というものが「実在」するのであればSの値も存在しなければおかしいという素朴な疑問がわく。

 無限大とは逆に「無限小」という概念もあるが、これも分かりにくい。「如何なる適当な意味においても零と区別することができないほど極めて小さい」 と説明されても、大抵の人は小首を傾けるのではないだろうか? 零ではないが零と区別できない、限りなく小さい数が無限小である。数直線上で言えば零の隣の数(点)に相当する。高校の数学で習う積分とはある領域を無限小に分割(つまり微分)してそれらをすべて(無限大個ある)を合算したものと考えられている。数学は形式的な学問なので、直観できないような概念でも、矛盾なく定義できればOKなのである。

 で、ここからが本題なのだが、実はわれわれはなんの根拠もなく、空間が無限小に分割できると考えている。つまり、空間が「連続である」と前提しているのである。あなたは「だって空間が連続なのは明らかじゃないか?」と反論するかもしれない。そうすると私は再びあなたに「それはなぜ?」と聞き返す。その時点であなたは絶句するしかないはずだ。私たちは大は宇宙全体、小は素粒子についてまで考えることができる。その時、頭の中で空間を縮小したり拡大したりしている。その時、いくら拡大しようが縮小しようが、空間はいつでも「同じ」く一様で連続であると前提しているのである。実は、一様で連続なのは私たちの頭の中の空間であって、実際の物理空間ではない。素粒子レベルのミクロの空間に私たちの日常的な感覚をそのまま持ち込めると考えるのは科学的態度とは言えない。もしかしたら、最小の距離や最小の時間がある可能性について考えるべきだと思う。あらためて、物理空間が連続であるかどうかは実際の観測によらなければならない、ということを確認しておきたいのである。

 もし、最小の距離または最小の時間というものがあるのだとしたら、ゼノンのパラドックス(※注)などというものは容易にかたが付くのである。

※注)ゼノンのパラドックスというのは、時間や距離が連続であると仮定すれば、運動は有限時間内に無限のプロセスを経なければならなくなるというパラドックスで、「アキレスと亀」の話はもっとも有名な一例である。(以下はWikipediaから引用)
 
【あるところにアキレスと亀がいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らか[10]なので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。
スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。
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