禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

禅的真理観

2023-06-25 06:25:41 | 哲学
 一般に科学とは現象の背後にある真理を追究するものと考えられている。しかし禅仏教においては、「現前しているものそのものが究極の真理であり、隠されているものなど何もない。」という態度で世界に望むのである。「あるがまま看よ」というのはそういう趣旨の言葉である。望遠鏡のない時代においては天動説が科学的には十分な学説であった。しかし、望遠鏡が発明され観測技術が進歩すると、天動説ではどうしても説明できないことが色々とあらわになってくる。結局現在では地動説が正しいということが常識となっている。しかし忘れてはならないのは、天動説も地動説も同じ「この世界」についての説明であるということである。天動説から地動説に代わっても「この世界」は依然として同じ世界であるということを忘れてはならない。そのことを指して、禅仏教では「有るがまま」と表現するのである。 (参照==>「非風非幡」)
 
 科学とはものごとを単純な要素に分析してそれらの関係性を探る試みであると言える。物質を細分化していけば、分子や原子さらには量子に行きつく。原子はその中心に小さい原子核がありその周囲をさらに小さな電子が回っている、それで原子の大きさというものはその電子が運動する範囲であるとされている。そういうことから「硬くて稠密な鉄のかたまりも、その実はほとんど真空のスカスカである。」というようなことも言えるわけである。しかし、鉄の塊を「真空のスカスカ」と表現することに意義はあるだろうか? それが一面の真理だとしても、鉄の原子モデルというのは稠密で硬くて重い鉄の塊を説明するためのものであったはずである。魅力的なあなたの恋人に対して、「君も所詮タンパク質と水のかたまりだね。」と言ってしまうのはどうかと思う。確かに人間はほとんど水とタンパク質からできているにしても、デート中にそんなことばかり考えたりするのは問題である。「木を見て森を見ず」ということわざがある。木を見るのが科学ならば、森を見るのが禅的哲学である。科学は大事だがそれ一辺倒ではだめなのである。

 禅的哲学と科学の真理観の違いを「自然」というキーワードを通してかんがえてみよう。「自然」は元々仏教用語としての漢語であり、「おのずからしかり」とあるように人為的な計らいのない様を表現する言葉である。それが、江戸末期に nature の訳語とされたことによって、人間精神から独立して存在する山川草木(つまり物質宇宙のこと)の意味が付け加わったのである。それで通常は、前者の場合は「じねん」、後者の場合は「しぜん」と読む。科学は自然(しぜん)の理(自然法則)を見極める学問であり、禅(と言うより仏教)は自然(じねん)の理に従う、つまり計らいを捨てて生きる生き方だと言えると思う。
 
 自然科学的には、魅力的なあなたの恋人もほとんど水とタンパク質に過ぎないというのは本当のことなのだろう。しかし、それだけでは十全なものの見方とは言えない。虚心坦懐に彼又は彼女をあるがまま受け入れる。それがここで取り上げた禅的真理観である。「柳は緑、花は紅」というのはそういうことを意味しているのである。

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日本・ハラスメント列島

2023-06-18 18:25:03 | 政治・社会
 有名な歌舞伎役者の一家心中が連日ニュースで取りざたされている。これまで行ってきたセクハラが週刊誌によって暴露されることを深刻に受け止めた結果、というようなことが噂されている。ことの真偽は外部のものにはなかなか分からないが、そういうことがあっても少しも不思議ではないと思っている。ハラスメントは社会のいたるところにはびこっているからである。

 私は長い間フリーランスで請負仕事をやって来た。大きなプロジェクトの下請けの下請けという最下流の仕事がほとんどである。その経験から学んだことの一つが、人は権力をふるいたがるということである。無教養な人ほどその傾向は強くなるが、どの人も自分を大きく見せたがるという欲求から逃れることはなかなか難しいことなのだと思う。私自身からしてそういう傾向の強い人間であるから、その辺のところはよく理解できるのである。ただ幸いなことに、私は大して能力のない人間なので他の人に対して優越的な立場になることはなかった。そのおかげで傲慢な人間にならなくて済んでいるだけのことである。だから、話題になっている歌舞伎役者も根はそんなに悪い人ではないと私は考えている。その人は週刊誌で自分の行為が報道されることになって自殺しようとしたと聞いている。つまり、ハラスメントはしてはならないことと知っている。自分のやったことは死ぬほど恥ずかしいと知っている訳である。そのようなまともな感覚を持つ人でも罠に陥る、隣近所の善良なおじさんやお兄ちゃんが戦地へ行けば殺人鬼や強姦魔になるのと同じことである。

 ハラスメントが人間の普遍的な性であるからと言って、ハラスメントをする側を弁護しようというのではない。加害者側がハラスメントによって得た快感の何百倍もの苦痛と屈辱を被害者は味わっているのである。ハラスメントは絶対に許してはならない。現代社会は個人の尊厳を前提として成り立っている。どの人も平等でなくてはならないはずである。ところが人間の本性は、人々の平等を前提とする現代社会の理念とは一致していない。悲しいことであるが、強い人間は威張りたがり、その周囲の人間はへつらいたがる、それが人間の性である。普通の社会人なら、そういう例を現実に見てきているはずである。「そんなことはない、私の周りにいる人はみんないい人ばかりです」という人は、とても恵まれた境遇の人であるか鈍い人であるかのどちらかなのだろう。

 ジャニーズの創業者であるジャニー喜多川氏による性被害問題が最近クローズアップされている。聞けば、この問題は数十年前から週刊誌ネタになっていて、1960年代には民事裁判においてもそれが事実であったことが認められている。しかし、なぜかこのことは大マスコミの間で問題として取り上げられることはなかった。当事者が亡くなって既に約4年が経過した今やっと大きな問題として取り上げられるようになった。それもそのきっかけはイギリスのBBCがドキュメントとしてこの問題について放映したからだという。淫靡でおぞましいハラスメントが行われていることを知りながら、何十年も新聞社やテレビ局は見ぬふりをしてきた、そのこと自体がスキャンダルではないのか? この問題については、どのテレビ局のキャスターも「我々の責任」と自戒の言葉を口にしている。が、おそらくそれは口先で言うだけで、この次同じことが起こっても同じことを繰り返すだろう。「責任」を口にするのなら、この問題について社内でどのような力学が働いたかを明確にし、個々人の当事者責任を明確にしなければならない。会社全体の過失を後から追認しただけでは、なんの責任を果たしたことにもならないのである。
 
 歌舞伎役者だろうが芸能プロデューサーであろうが、彼らは一人でハラスメントの怪物になるわけではない。必ずその周りには追従する取り巻きがいる。その追従が権力者の自我を拡大させてしまうのである。誰であっても権力者の意志に逆らうことは難しい。しかし、権力者の非道を目にしながら追従することは、自分もその非道に加担することと同じであることはわきまえておかなければならない。その行為に対して直接たしなめることが出来ないなら、せめて顔をしかめて不快の念をアピールすることぐらいのことをすべきではないだろうか。絶対に愛想笑いなどしてはならない。

逗子海岸 記事内容とは関係ありません。
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