禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

南師曰く、「仏教の要諦は、無常・無我・空・無記である」

2018-05-23 09:38:08 | 仏教

先日(5/17)、横浜の朝日カルチャーセンターで、南直哉さんの講話を聴いてきました。このところ毎年聴いているので、だいたい同じような内容なのだが、絶妙な語り口で何度聴いても、とにかく腹を抱えて笑うほど面白い。失礼な言い方を許してもらえば、下手な漫才を聞くよりよっぽど面白いので、毎年聴きに行っているのです。

南師は恐山の住職代理で、哲学にも造詣深くて、今や曹洞宗を代表する論客でもあります。彼は常々仏教の要諦は、無常・無我・空・無記に尽きるという考えで、彼の法話もこの4つのキーワードを中心に話を膨らませていくという手法です。

だから、この仏教の原理とも言うべき概念から外れるような教説はバッサリと切り捨てます。例えば、「輪廻転生などという概念は仏教に必要ない。」と言い。「確かに仏典には輪廻転生のことが書かれている。しかし、それが仏教であるというなら、私は仏教徒ではなぁ~いっ!」とまで言ってのけます。

その意気やよし、禅僧たるものかくあるべしと思います。仏典は大勢の人の手によるもので、常識的に考えれば、すべてが最高の智者によって書かれたとは考えにくい。禅宗においては、仏典は指針ではあっても絶対ではない。仏教の原理になじまない教説は受け入れるべきではない、という態度はあってしかるべきでしょう。

釈尊は人間の経験の及ばない超越的なこと、いわゆる形而上のことについては言及しないということを教えています。それが「無記」ということです。なぜか日本の仏教では「無常・無我・空」についてはよく言われるのですが、「無記」ということは禅宗以外では余り問題にされていないような気がします。このことは、原始仏典が明治になるまで日本には伝わらなかったということが影響しているような気がします。

で、輪廻転生ですが、これはもともとインドの土着的な思想で仏教由来のものではないことははっきりしています。釈尊の死後、布教のための方便として、誰かがいつの間にか仏典にも潜り込ませた。しかし、死んだのち、あの世からよみがえった人は(多分)いない。私たちの知っているのはすべて他人の死であって、決して自分の死ではない。著名な哲学者が言ったとおり、「死は経験することのない概念である。」 つまり「自分の死」という言葉が実は何を意味するか私たちは知らない。それは意味をもたない言葉なのです。だから、死後のことについてはなにを言っても無意味であるということになります。無記とはそういうことであります。

港の見える丘公園 沈床花壇

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あるとないとは同じこと?

2018-05-17 09:32:40 | 哲学

デカルトは考える私以外のものはすべて疑わしいと考えた。それ以来、哲学者は懐疑論というものに取りつかれるようになってしまった。私たちのあらゆる知識は確かな根拠というものを持たないのである。

極端な話、自分の精神以外はなにも存在しないのではないかとまで考える人もいる。私は自分の両手をじっと見てみる。こんなにありありとはっきり見える自分の手が実はまぼろしかもしれないというのだ。

しかし、これはおかしな話ではないか、この自分の手が自分にだけ見えて他人からは見えないのならそれはまぼろしと言うしかないが、試しに妻に「私のこの手が見えるかね?」と訊ねたら、「見えるに決まっているじゃない、あなた頭は大丈夫?」と返ってくる。つまり、私の手は実在する。日常言語の「ある」という言葉の意味はこのようであったはずだ。しかし、デカルトは執拗だ。「『君の手がある』と言ってくれる君の妻も、実は君が作り出した幻影かもしれないではないか」というのである。そこまで言われれば、この私の両手を保障してくれるものは何もないことに気づく。

私の両手はこんなにもありありとしていて、しっかりとした感触もある。開こうと思えば開けるし、握ろうと思えば握れる。こういう状態を、通常「私の両手は『ある』」と言っていたはずだ。しかし哲学者に言わせると、もしかしたらこの両手はないかもしれないという。

なんかおかしい。哲学者の言うところの「ある」と「ない」はどう違うのか?

「ある」と「ない」、違う言葉を使うからには、それらにははっきりとした差異がなければならない。その言葉を使用する人は、その差異を念頭に置きながら使用するのでなくては、その言葉は空疎である。今、仮に私の両手が本当は存在しないのだと仮定したとしたら、それが実在する場合とどのような違いがあるというのだろうか?
「ない」と言うからには、ある条件の下ではそれが「ない」ということが明確に分かっていなくてはならないのではないだろうか。

だが、懐疑論というのはそこのところが分からない。根拠が示せないから懐疑論なので、「ある」と「ない」はどこまで言っても区別できない。つまり、神さまのように超越的な視点に立てば初めて区別できる「ある」と「ない」なのだ。この区別は決して我々の経験上には現れることがない。言葉上では区別できても、その区別は指示対象をもたない。「円い三角」と同じで、言葉では表現できても私たちの能力ではその内容を思い浮かべることができないのである。

だから、私の両手が「本当は」ないのだとしてもあるのだとしても、いずれの場合にもこの現実、このリアリティにはいささかも変わりはない。禅仏教ではこのリアリティを「恁麼(いんも)」という一語で表現する。「このようである」というような意味である。そう、すべてはこのようなのだ、そこに(哲学上の)「ある」とか「ない」とか新たな意味を付け加える必要は初めからなかったのである。

臨済が喝と吠える、雲門が「バシッ」と棒をくれる、それはこの世界が恁麼であることを分からせようとしてのことに違いない。

鎌倉天園に至る径 ( 横浜市栄区 )

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われ思うゆえにわれはあるか?

2018-05-16 11:02:46 | 哲学

デカルトは疑い得るものはすべて疑って、とうとう最後にいくら疑っても疑えぬものとして、「考える私」というものに行きついた。 

デカルトはその卓越した洞察力と思考力において、天才と言われるにふさわしい人物であることは間違いない。しかし、内観という点においては修練を経た禅僧には一歩及ばなかったのである。ヨーロッパ語の「私は考える」という文法の呪縛から最後の一歩で逃れることが出来なかった。「考えられたこと」と「考える私」を混同してしまった。 

禅仏教においては、デカルトが「考える私」と見たものを「無」と称している。私が考える時、そこに「考える私」というものは認められない、確かなことは「考え」があるだけである。 

「無」は存在者であるとも無いとも言えないようなものである。無門慧海も彼の手になる「無門関」において「虚無の会を作すこと莫れ、有無の会を作すこと莫れ」と述べている。「無」は何もないという意味でもなく、有る無しという考えにとらわれてもならないという意味である。 

道元禅師の正法眼蔵の中に次の有名な一節がある。 

   仏道をならふといふは、自己をならふなり。 
   自己をならふといふは、自己を忘るるなり。 
   自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。 

最後のフレーズの「万法」というのはすべての事物を意味する。山川草木やすべての自然現象、私達の感官に触れるありとあらゆるものを万法という。「証」は悟りの意味で、大方の解説では「森羅万象が私に悟らせてくれる」というような解釈が一般的だが、私はあえて「森羅万象がそのまま自己の証(あかし)である」と読みたい。つまり、森羅万象の関係性の中に自己というものが形式的に成立している、とした方が哲学としてはすっきりするからである。表現方法を工夫すれば、仏教哲学は西洋哲学と同じ土俵で論じることができるはずである。 

究極の主体としての「無」はよく鏡の面に例えられる。鏡はあらゆるものを忠実に映し、しかも鏡面の存在を感じさせないからだ。禅僧は山を見れば「私は山である」と言い、木を見れば「私は木である」と言う。そこに山や木を認識する主体はなく、ただただ映し出された山や木があるだけだというような感覚を表現しているのだろう。 

宗教としての禅においては感覚的な表現で十分なのかもしれないが、感覚的なたとえに終始してしまっては、公共の学としての蓄積につながらない。これからはもっと哲学の方から仏教にアプローチして、その表現方法を洗練していくということを考えても良いのではないだろうかと考えている。

(新宿の目 東京西新宿)

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真理は現前している (2)

2018-05-07 08:41:44 | 哲学

「ものごとをあるがままを見るなどということができるはずがない。」というふうに言われることがある。私たちがなにかを見る時には必ず何らかのフィルターがかかっているということなのだろう。しかし、私に言わせれば、そのような考え方自体が、自分の感覚というものを科学的客観的な視点から俯瞰するという論理的思考の罠に陥っているのである。科学的客観的な視点というのも一種の架空、超越的でありドクサ(臆見)の種である。

「あるがまま見る」というのは、ひとつは言葉による再解釈をしないということである。言葉が介入すると必ず抽象化が行われ実相がゆがめられるからである。例えば、「鳥が飛んでいる」という言葉を聞くと人はそれぞれめいめいにいろんな鳥が飛んでいるさまを思い浮かべる。しかし、一般的な鳥や一般的な飛翔というものは実はどこにも存在しないのである。そのことは龍樹が「中論」において徹底的に論じているところである。西田哲学の純粋経験というものも発想はこういうところから来ていると考えて間違いないだろう。ハイデッガーもその辺には気がついていて、存在の一回性だとかテンポリテートとかいう概念を導入しているけれど、龍樹の方が徹底しているように見受けられる。 

「あるがまま見る」のもう一つの要素としては、この世界を因果の結果としては見ないということだろう。哲学者はこの世界について、「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」と問う。おそらくその前提としては、何もないことがニュートラルであるという思い込みがある。私はこのような世界の中に「すでに」投げ出されているのだから、今ある状態をニュートラルと考えるべきだろう。「今」、「ここ」、「私」、あえて言うならこれが原点である。禅の問題というのは、「今」、「ここ」、「私」を離れることはないのである。それは原点であるがゆえに、相対的な位置を記述することもできない、「今」、「ここ」、「私」がなんであるかということを語ることもできない。そのことについて胎の底から納得した時、この世界の原因を問うことはなくなるが、その絶妙さに対する素朴な驚きが残る。それが仏教でいうところの「妙」ということであろうと思う。

【 6.44 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。 】
( ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」 )

世界が如何にあるかということを思量することはできない、神秘はそのまま受け止めるしかないということだろう。

Santiago de Chile

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真理は現前している

2018-05-06 17:50:17 | 哲学

科学的真理の探究というのは、現象の背後にある秩序を探るということだが、禅仏教における真理というのは現象そのものを指す。
いわゆる禅問答のテーマとして「鐘が鳴るのか撞木が鳴るのか?」というのがある。設問の仕方が少々稚拙かもしれないが、一応これは科学的な分析を意味しているのである。この場合、「鐘が鳴る」と答えても、「撞木が鳴る」と答えても正解ではない。種目で鐘をつけば「ゴーン」という音が鳴り響く、その「ゴーン」と鳴っていることだけが現実であるということに気づきなさい、という公案なのである。

われわれの思考というものは一般に因果関係という枠組みにはめ込まれている。現代人はとかく現象を分析し単純な要素に還元しようとする。それに対して禅仏教では、ただ虚心坦懐に「見つめよ」というだけである。因果関係にとらわれると原因の方に目が奪われがちであるが、この世界の「本当の」意味というのは結果の方にある。現実にあるのは現前している現象の方であって、原因というのは実は頭の中で推論によって組み立てられたものである。つまり、それは虚像に過ぎない。 

「強いものが勝のではない、勝ったものが強いのである」という名言があるが。因果的思考法に慣れた人は、「強いから勝つ」と考えがちであるが、実は逆で「強さ」というものは勝ち負けの中にしかないのである。言い換えると、私達は現実の勝ち負けから「強さ」というものを推論しているのであって、「強さ」はその推論の中にしか存在しないので実在のものではないとも言える。現象の予測には科学的分析というものは必須であるが、それにとらわれ過ぎると現実の世界の実相を把握しそこなう、という面もあるのである。

昔、徳川無声氏との対談で薬師寺の橋本凝胤師が、天動説が正しいと主張して世間の耳目を集めたことがある。あくまで地動説が正しいとする徳川無声に対し、「日本人ちゅうもんは、そればっかりやで。そう教えられたからそれに違いないと思うて‥‥。」と受け付けない。

橋本凝胤師は東大卒のインテリ僧である。もちろん科学的には地動説が正しいと知っている。ここではあくまで唯識学者としての見識を示しているのだろう。しかし禅家の場合はもっと徹底している。六祖恵能大師ならこの場合、「太陽が回っているのでも、地球が回っているのでもない、あなたの心が回っているのだ。」というだろう。

( 六祖恵能大師のエピソードについてはこちらをクリック ==> 非風非幡 )

新緑のカツラ

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