禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

戦争に行って一番おそろしかったこと、それは男のパンツを穿かされたことさ。

2023-02-24 11:55:17 | 雑感
 アレクシェーヴッチの「戦争は女の顔をしていない」は、第二次世界大戦に参戦したソビエトの500人もの従軍女性へのインタビューの記録である。その中にとても印象深い供述がある。

 「戦争に行って一番おそろしかったこと、それは男のパンツを穿かされたことさ。」

第2次世界大戦におけるソビエト連邦の戦死者は2600万人にもおよぶと言われている。その女性兵士もおそらくその惨状の一部に触れていたと思うのだが、一番恐ろしかったのは、銃弾が空気を切り裂く音や爆弾の炸裂する音でもない、また血だらけの死体が散乱する光景でもなく、自分が男のパンツを穿かされたことだという。このことをどういう風に受け止めればよいのだろう。

 人間にとっては命にかかわることがなにより一番重要であり、その他のことは二の次であるというのが一般通念である。生きるか死ぬかの状況の中では、パンツが男物であるか女物であるかなど気にしてはいられないはずだ、と私などは考えてしまう。もしかしたらこれはアネクドート(ロシア小話)の一種だろうと私は思った。

 しかし、この話を単なるアネクドートとしてしまうのは不謹慎であるような気もする。私は女性でもなければ戦場に出た経験もない。この女性の心情を正確に推し量ることは出来ない。が、何よりもこのことを一番恐ろしいことと彼女は位置付けた、その意義は必ずあるはずだと思う。やはり、それは戦争の非人間性ということに尽きるのではないかと思う。華やかな青春時代を送るはずだった若い女性が戦場に赴く、そこでまず彼女が突き付けられた現実が「男のパンツを穿かされる」ということであった。それまでは友人たちとキャピキャピ男の子の噂話をしていたような彼女に対して、いきなり有無を言わさずその女性性をはぎ取るように男物パンツが支給される。戦争はこともなげに個人の感情を無視して踏み込んでくる。あらためてその時、彼女は冷酷で巨大な戦争の正体を見たのではなかったか。無力な一個人が無慈悲な戦争に引き込まれていく、やはりこれは恐ろしい話であるような気がする。
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時間は秒速1秒の速度で進む?

2023-02-20 22:22:52 | 哲学
 アインシュタインが特殊相対性理論を発表してからは、時間の速度が一定ではないということが言われだした。高速度で飛ぶロケットの中では、地上よりも時計の進みが遅いということも実際に確認されている。特殊相対性理論の計算上では、光と同じ速度で飛ぶロケットの中では時間が止まってしまうことになる。その事からの延長として、光速を越えれば時間の流れが逆転するのではないかという連想が生まれてくるのは自然だろう。そういうところから、時間の進む速度というものについても言及したくなるのは当然で、「時間の速度は秒速1秒」という表現をして見たくもなる。

 「時間の速度は秒速一秒」というのは、どう考えてみてもナンセンスである。速度は時間を基準とするものだからである。一秒後に一秒が経過しているのは同語反復で、「秒速1秒」がなんら意義のあることを示しているとは考えられないからである。それでもこういう言い方が言葉として成り立つような感覚があるのは、「時間」という言葉を使うことによって、その対象としての時間そのものが存在するかのように思えるからだと思う。

 しかしどのように考えてみても、流れている時間または動いている時間そのものというものは存在しない。どこを見てもそんなものは見当たらないのである。では、「光速ロケットの中の時間は遅れる」というのはどういう事態であるかを考えてみよう。よくよく考えてみれば、「時間が遅れる」という場合の時間そのものは誰も見てはいないのである。どういう事態が生じているかと言うと、ロケットの中で起きていることの全てのプロセスが地上に比べて遅く進むということなのである。つまり、ロケットの中の時計は地上の時計に比べて進み方が遅くなる。つまり、遅くなるのは時計の針の動きである。ここは端的に、「時計の針の動き具合を我々は時間と呼んでいる」と言っても良いと私は考えている。われわれは一般に「時計の動きが時間に同期している」と考える。つまり、「時計の動きとは別に時間そのものがあって、その時間そのものの流れに時計の動きが同期している」と考えがちだが、そのような「流れる時間」そのものを確認した人は誰もいないし、これからも確認できる見込みはない。「時計の針の動き具合を我々は時間と呼んでいる」というのはそういう意味である。
 
 一般に、あらゆるプロセスは時計の針の進行具合と同期する。日の出から次の日の出までに時計の短針は24時間分進む。太陽の運行と時計の針の動きは全く別のものであるはずなのになぜか同期する。まったく相互作用しあわない別個のプロセスが同期する。実に不思議なことだが、明らかにそれらは共通の秩序の支配下にある。その秩序を「時間」と呼ぶのだろうと思う。
 
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あきれるほどの日本の政治の劣化

2023-02-17 20:21:53 | いちゃもん
ーー2月13日のヤフー・ニュースよりーー
≪ 政府は、来年秋に現行の健康保険証を廃止し、マイナンバーカードと一体化させる際、カードの取得が難しい高齢者や紛失した人などが保険診療を受けられるよう、必要な情報が記載された「資格確認書」を発行する方針。≫
 
 マイナンバーカードを普及させるために健康保険証を廃止するという「強硬手段」に出たのだろうが、それでもカードを取得しない人には「資格確認書」を発行するという。一体何を考えているのだろう? それなら、わざわざ新しい「資格確認書」を発行するという手間をかけなくとも、現在機能している健康保険証をそのまま使用し続ければよいではないか。健康保険証を廃止しても、それに代わってマイナカードと「資格確認書」の二本立てで医療保険システムを動かすのであれば、効率が良くなるわけがあるはずがない。政府は一体何を考えているのだろう? 頭の良い日本の官僚なら、この政策がいかにトンチンカンであるかを分かっているはずだ。おそらく政治家の思考能力に問題があるのだと思う。
 
  私は個人的にはマイナンバー制度は必要であると考えている。行政の事務処理はもっと効率化されねばならないが、その点において日本は他の先進国に比べてかなり遅れている。しかしそのシステムを導入するための前提として、個人情報のセキュリティが最大限保証されねばならない。その点において現在の政府は信用できないのである。もっとマイナンバー制度の必要性と安全性について説明すべきであるのに、全然説明できていない。情報のセキュリティに関して、どのように具体的に対処するのかをもっと積極的に説明すべきである。万一情報が漏れた場合、そのルートをトレースすることが出来なくてはならない。行政事務に関わる全ての人々の良心に頼るわけにはいかない。最低でも、自分の情報を誰が参照したかを知ることが出来るような仕組みは備えておく必要がある。今のところ、その辺の説明が曖昧なままだ。

 日本の政治家は、自分の思考能力に欠陥があるにもかかわらず、上意下達の政策を進めたがる輩が多いような気がする。とにかく「資格確認書」には開いた口が塞がらない。日本の没落が見えたという気がしてならない。
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納得できない責任の論理

2023-02-11 11:34:25 | いちゃもん
 先月18日に福島第一原発事故に関して、業務上過失致死傷の罪で強制的に起訴されていた東京電力の旧経営陣3人に対して無罪判決を言い渡した。「巨大津波の襲来を予測することはできず、事故を回避するために原発の運転を停止するほどの義務があったとはいえない」とというのが東京高裁の判断である。

 裁判の争点は、先ず第一に「原発事故を引き起こすような巨大な津波を予測できたかどうか」という予見可能性と、第二点として「予測が可能だったとして有効な対策をとれば事故を避けられたか」という結果回避可能性である。これら判断する重要なポイントが、地震調査委員会によって2002年に公表された「長期評価」の信頼性である。 それによれば、福島県沖を含む広い範囲で巨大な津波を伴うマグニチュード8クラスの大地震が、30年以内に20%程度の確率で発生するという見解が示されていた。 そして東京電力内部ではこの「長期評価」をもとに、最大で15.7メートルの高さの津波が襲うという結果を出していた。以上の点を検察側の指定弁護士は危険性を予測できたとする根拠としていた。

 しかし、判決は「『長期評価』の見解をもとに想定される津波の高さを求めることは、不確実性を増幅させるものであり、現実の津波対策に取り入れるべき程度の信頼性のある内容だったとは認めがたい」と指摘し、3人の認識についても「武藤元副社長は部下から『長期評価』の見解には信頼性がないと告げられており、勝俣元会長と武黒元副社長も原発の敷地の高さを超える津波が襲来するという現実的な可能性を認識していなかった」と認定し、「原発の運転を停止しなければならないほどの予見可能性があったとはいえない」と結論づけた。

  被告三人が「現実的な可能性を認識していなかった」というのは本当だろうが、問題は「現実的な可能性」が何を意味するかである。原発の重大事故は万に一つもあってはならない。政府も電力会社も「日本の原発は絶対安全」と言い続けてきたのではなかったか? だったら、問題はマグニチュード8クラスの地震が三陸沖で起こる確率が「30年以内に20%」かどうかということではなく、それが起こるか起こらないかということではないのか? 地震調査委員会の出した「長期評価」を東電はその予測に根拠はないと無視した。しかし、仮に「30年以内に20%」が無根拠だとしても、それが「30年以内に起こる確率が0%」ということにはならない。

  「長期評価」を出している地震調査委員会についてコトバンクで調べてみたら、文部科学省管轄の地震調査研究推進本部の下部組織で、日本の有数の地震学者を結集した委員会ということらしい。政府が税金を使って日本有数の学者を集めた組織が出した結果を「根拠なし」と結論する、というようなことをどうしたらできるのか? 政府の管轄する組織が世の中の為にならない風評をながしているということなのか? たぶん地震学そのものが不確実であるというのが「根拠なし」の根拠なのだろうが、それは前述した通り「30年以内に重大な地震が起こらない」ことの保証にはならないのである。いったん権威ある組織がマグニチュード8クラスの大地震が、30年以内に20%」と発表したのなら、原発運用の意志決定に関わる人は、① そのような地震が起こっても原発は大丈夫であることを証明するか、そうであるよう対処しなければならない。それをしないのであれば、② 今後30年間そのような地震は起こらないことを証明しなければならないはずである。なぜなら、さんざん「原発は絶対安全」と言い続けてきたのだから。

 については、東京電力内部でこの「長期評価」をもとに、最大で15.7メートルの高さの津波が襲う可能性があり、それに対する処置が必要であるという報告がされていた。しかしそれに対する処置はなされなかった。だからを証明する必要がある。ところが、「『長期評価』に確かな根拠はない」という主張をの証明にすり替えてしまったのである。その気持ちは理解できる。15mの津波が来ても大丈夫な防波堤を築くには多大な費用が掛かる。自分の任期中にはまず来ないだろう大災厄に対して莫大な費用を投じて、企業の利益を棄損したくないと思うのは当然である。なんとか不作為の為の理由を模索し、現在の地震学の不確実性にすがりついたという図が透けて見える。 確かに現在の地震学の精度はあまり高くない。だからと言って、日本の権威ある専門家の研究結果を無視して良いということにはならない。彼らと逆の方から見れば、事実日本の地震学の精度が高くなかったから「30年間で20%」という確率になったとも言える。もし地震学の精度が高ければ限りなく100%に近い確率になったはずである、実際にこの「長期評価」の9年後に実際に東日本大地震は起こったのだから‥。
 
 このような見方は被告に対して厳しすぎるという印象を持つ人がいるかもしれない。おそらく誰が彼らの立場に置かれても同じ行動をとった可能性は高い。誰でもそれまで生きてきた中で一度もあり得なかった災厄が、現実に起こりうるとは想像しにくいものである。しかし、それは彼らの罪を許容する理由にはなり得ない。繰り返すが、彼らは「原発は絶対安全」をさんざん繰り返してきたのだから。原発の重大事故の深刻さを考えれば、自分の一生どころか万年に一度の災厄にも耐えうるものでなくてはならなかったはずである。福島原発のケースにおいても、対応によっては関東地方に人が住めなくなるようなシビアな事態になっていた可能性があったと指摘する専門家もいる。東京電力の経営者と言えば、一流の経済人としての社会的地位、多額の報酬、立派な個室と秘書がつき、出退勤は運転手付きの乗用車である。それだけの高待遇を受ける役員というのはこういう時に責任を取るためにあるのである。
 
 判決の「『長期評価』の見解をもとに想定される津波の高さを求めることは、不確実性を増幅させるものであり」という言葉にも問題がある。趣旨としては、「長期評価」は不確実である上に、津波の高さを求める計算も不確実であれば、「不確実 × 不確実 = 巨大な不確実」となることを言っているのだろうが、原発事故に関しては危険率を最大に見積もっておかなくてはならないのは当然であり、どんな些細な可能性も見逃してはならないのだから、あえて不確実さが増幅されても致し方ないと考えるべきである。裁判所がそのような当然の論理を無視するのからには、そこに政治的判断があると言われても仕方ないだろう。
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友よ水になれ

2023-02-07 16:07:46 | 哲学
 昨夜(2/6)NHKの「映像の世紀バタフライエフエクト」という番組を見た。「バタフライ・エフェクト」というのは、エドワード・ローレンツという気象学者の「蝶がはばたく程度の非常に小さな撹乱でも遠くの場所の気象に影響を与えるか?」という言葉が由来で、この番組では一人の人間の行動が世界に大きな影響を及ぼした例を扱っている。昨夜の番組はブルース・リーの「友を水になれ」という言葉をテーマとしたものであった。

 今年の1月26日にボスニア=ヘルツェゴビナで 金色に輝くブルース・リーの像の除幕式があった。「なぜボスニアでブルース・リーの像が?」という奇異の念とともに、このニュースは世界中に配信された。1990年代に旧ユーゴスラビアの分裂とともに各民族・宗教間の対立が深刻な紛争を引き起こしたことはご存じだと思う。ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボから南西70キロの古都モスタルに、各民族の和解の象徴としてブルース・リーの銅像が建てられることとなった。それがなぜブルース・リーか? 発案者の1人は「異なる民族が共有するものの1つがブルース・リーなんだ」 と言う。70-80年代 にブルース・リーの人気は世界を席巻した。中英混血のブルース・リーはその出自ゆえに香港でもアメリカでも差別・疎外されたが、その圧倒的なクンフーの力によって人種・民族の壁を超越した人気者となった。旧ユーゴもそれは例外ではなく、分断された人々を再びつなぎ合わせるための絆の象徴として相応しいということなのだ。そして、そのキーワードが " Be water ,my friend." という言葉である。

  "Empty your mind, be formless, shapeless – like water." 
      心を空しくせよ、型や形を捨てるのだ - 水のように。
 
 一般に武道の型(形)は体の合理的な動かし方の典型として組み立てられたものであると考えられているが、ブルース・リーは最終的にそれも捨てなければならないというのである。一見、彼は現実の格闘では型通りの体の動きでは勝てないという、武術の技術論について語っているようにも見えるが、それはあらゆることに通じることであると言っているのである。明らかにその言葉の根底には東洋の中道思想が流れている。彼はある時インタビュアー「貴方は中国人ですかアメリカ人ですか?」と彼自身のアイデンティティについて問われた時、「私は何人でもない」と答えている。見た目や形で人を判断する人種偏見を愚かしいことだと、いわれない偏見にさらされてきた彼は誰よりもよく知っていた。水になるということは型や形にこだわらないということでもある。また、型や形をイデオロギーや宗教のことであるとも考えることが出来る、私たちはともすればイデオロギーに拘るあまり深刻な信念対立に陥るのである。よりよく生きるためのはずであるイデオロギーや宗教が諍いのもとになる、それも顛倒した話ではないか。
 
 水はどんな形にもなる。水になるということはあらゆる偏見を打ち破るということに違いない。それは人を言葉や概念でひとくくりにしないということでもある。骨形成不全症の障害をもつ伊是名夏子さんにある人が「障害のある人に私たちはどのように接すれば良いのでしょうか?」と訊ねた。それに対して彼女の返答は、

《 それはひとくちで『これこれこのようにすればよい』という答えはない。障害者と言っても、その障害の内容もその人の考え方も一人一人違うから、その人がやって欲しいと思うことをやってあげるしかない。 》 

具体的な言葉はきちんと覚えていないが、大体上記のような趣旨のことを述べたと記憶している。それを聞いて私は先日「中道とはなにか」という記事で取り上げたはるな愛さんの言葉と同じことを述べていると思ったのである。いわゆる「障害者」とか「健常者」あるいは「性同一障害者」というような人は実はどこにもいないのである。「障害者」というのは社会を運営していくうえでの便宜つまり方便としての言葉でしかない。ブルース・リーが、中国人かアメリカ人かと問われて「私は何人でもない」と答えたのも同じことである。「中国人」も「アメリカ人」も本当は存在しない、それは便宜上の言葉でしかないのである。華厳的に表現すれば「中国人は中国人に非ず、これを中国人と言う。」ということである。東洋的空の思想とはそういうことである。

 「障害者にはどのようにしてあげればよいか?」と問う人はもちろん善意で尋ねているのである。しかし、言葉によって規定される「正解」は実は存在しない。目の前の人がどのような人であれ、その人が望むことをその都度察してあげるのが正しいというしかない。どのようなことであれ、それに従っていれば間違いないという「正解」に安住することは出来ないというのが中道ということである。分断は固定的な「正解」にすがるところから生まれるのである。私たちはどんな場合にも特定のイデオロギーに頼るのではなく、ニュートラルな立場で柔軟にものごとに対処しなくてはならない。それが「水になる」ということではないかと私は考えるのである。

※ NHKの「映像の世紀」はなかなか見ごたえのある番組だと思います。ジャズピアニストの加古隆作曲によるテーマ曲「パリは燃えているか」も素晴らしい。
 
                  【中庸ということの大切さ】
 
 
上の写真はシアトルのキャピトル・ヒル地区にあるレイクビュー墓地である。左の赤い墓がブルース・リーのもので、右の黒い方は息子のブランドン・リーのものである。これは余談だが、約6年前に妻とともにここを訪れたのだが、今日この記事を書いている時に妻がこの写真を見て、「確かそれはジャッキーチェンのお墓よね。」とのたもうた。確かに「ブルース・リーのお墓へ行こう。」と言いながら訪れたはずなのだが、嗚呼、妻の記憶は6年間の内にブルース・リーがジャッキー・チェンにすり替わっていたのである。というか、どうやら両者の区別を知らないらしい。

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