禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

私は今ここにいる

2020-09-18 05:22:00 | 哲学
 「私は今ここにいる」という言葉は意味をもたない。なんの情報も含んではいないのである。試しに、あなたの奥さんに向かって、「私は今ここにいる」と言ってみたらどうだろう。たぶん、「そんなこと分かっているわよ。そうじの邪魔だから、はい、そこどいて。」と言われてしまうのではないだろうか。

 その言葉は情報としては無内容だが、事実としては極めて玄妙である。私が今ここにいるということの意義を見極めること、それが禅仏教でいう己自究明ということであろう。「私」、「今」、「ここ」、いずれも身近な言葉であるが、実は身近過ぎてその意味がわからない言葉でもある。どこでも「ここ」であり得るが、「ここ」は実はどこを指す言葉でもない。いつでも「今」であるが、「今」と言った瞬間その今は既に過ぎ去っている。「私」は私自身のことだから、誰もがその意味を分かっていると思いがちだが、そうではない。私自身は御坊哲を名乗っているが、御坊哲というのは鈴木さんや高橋さんと区別するための記号でしかない。御坊哲の肉体や性癖という外見をはぎ取った「私」は何かということを問題にしているのである。私はいつでも私であるが、私は私以外のものであったことがないので、実は何をもって「私」と言っていたのかが分からないのである。

 「私」、「今」、「ここ」、これらの言葉は究極的な意味において対象化できない。対象化できないというのは、「これが××である」と指し示すことができないという意味である。他の言葉によって規定することができないのである。だとすれば、「私は今ここにいる」という言葉が情報としての意味をもたないのは当然の帰結であろう。
 
 しかし、「私は今ここにいる」ことは事実として無意味ではない。なにより、私が生きているという意味でもある。そして、この世界がこの私から開けているということを示している。つまり、この世界は私の世界であるという意味でもある。天上天下唯我独尊とはそういう意味である。

この世界は私の世界である」と言っても、私が世界の支配者であるという意味ではない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

屁理屈はいくらでも言えるということについて

2020-09-14 06:04:43 | 哲学
 先ごろ、北海道の釧路発関西空港行きの旅客機の機内で、マスク着用を求められた男性が、それを拒否して乗客や客室乗務員を威嚇したため男性を臨時に新潟空港で降ろすというトラブルがあった。 
 その乗客の言い分は、マスクの着用を強制する法的根拠などないのではないか、ということらしい。根拠があるのなら、それを「書面で提示しろ」と要求したらしい。「盗人にも三分の理」という、法で規制されていないことについては、個人の自由は最大限尊重されねばならないと言いたいらしい。こういう考え方をする人を時折見かけることはある。
 確かに、マスク着用は法律によって強制されているわけではない。つまり、マスクを着用しないことは犯罪ではない。そういうことを言い出すと、たばこを吸うことも法律で禁じられているわけではないから、機内禁煙も根拠がないことになってしまう。歌を歌うことも犯罪ではないのだから、機内でいきなり「会津磐梯山」を大声でがなり立てても、それを制することはできないという理屈になる。
 飛行機内では安全運航上の観点から、乗客は乗務員の指示に従う義務があるはずで、おそらくそのような規則がどこかに規定されているはずである。マスク着用そのものに言及する規定はなくとも、飛行機内におけるその程度の規制は航空会社の判断に委ねられていると考えるのが良識ある大人というものであろう。現にほとんどの人々がその「良識」に従っているのである。ところが問題の人は、本気で自分の言い分が正しいと信じているのである。

 ここでちょっと難しい話になるが、言語によって完ぺきな規制を規定するのは不可能だという議論があるのでご紹介したい。哲学者ウィトゲンシュタインの言葉に次のようなものがある。

≪ 私達のパラドックスはこう言うものだった。「ルールは行動の仕方を決定できない。どんな行為の仕方でもルールと一致させることができるから」。それに対する答えは、こういうものだった。「どんな行動の仕方もルールと一致させることができるなら、ルールに矛盾させることもできる。だからここでは、一致も矛盾も存在しない」≫(「哲学的探究」201節より)
 
 私たちの行動のバリエーションは実は無限にある、それを言語によってすべて厳密に規定することなどできないと言っているのである。そして、これはなかなか気づきにくいことだが、言葉の解釈の仕方も実は無限にある。 だから、どんな理不尽と思える行為でも、それを正当化するための屁理屈はいくらでも作り出せるというのである。もちろん、それはあくまで屁理屈である。ほとんどの人々は言語上の共通了解範囲内にいるはずで、それこそが言語成立の条件のはずなのである。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大坂なおみと "black lives matter"

2020-09-10 14:29:10 | 大坂なおみ
 知ってる人は知ってると思うけれど、私は女子テニスの大坂なおみ選手の大ファンである。黒豹のように躍動する強靭な肉体とインタビューで見せる少女のような可愛らしさ、最初はそのアンバランスさに魅了されたのだが、最近は自分の社会的地位と責任を意識した言動にみる人間的成長が著しい。

 先月23日、アメリカのケノーシャという町で、ジェイコブ・ブレイクさん という黒人男性が警官に背後から7発も拳銃で撃たれるという事件があった。ビデオ動画を見る限り、丸腰の人間に対して発砲するという、警官としての任務を著しく逸脱する行為というより、単なる殺人未遂という犯罪行為にしか見えない。公民権運動から半世紀以上も経つのに、未だにアメリカにはあからさまな人種差別が絶えないのだ。この事件に衝撃を受けた大阪選手は、8月27日(現地時間)に出場する予定だったウエスタン・アンド・サザン・オープン準決勝を棄権するとTwitterで表明した。

 「私はアスリートである前に黒人女性です。私のテニスを見てもらうよりも、
 早急に対応しなければならない重要な問題が目前にあるように感じています。 
 私がプレーをしないことで何か劇的なことが起きるとは思いませんが、白人が
 多数派のスポーツで話し合いを始められれば、それが正しい方向への一歩に
 なると私は考えています」 

 彼女のこの意見表明に対し賛否両論はあった。SNS上では、プロのアスリートが政治問題を理由に試合を放棄すべきではないという意見も少なくなかった。しかし、彼女にとっては、この問題は政治問題などではなく、もっと切実な人権問題である。人間が人間として扱われないということに対して憤りを感じているということなのだ。幸い、大会の主催者側も彼女の意志に理解を示し、賛同する旨の声明を出し、準決勝の日程を延期することで彼女も再び準決勝に臨むことに落ち着いた。彼女の投じた一石はそれなりの成果を見たのである。

 全米オープンでは、試合ごとに警察の手による虐殺の犠牲となった黒人の名前がプリントされたマスクを着けて試合に臨んでいる。明らかに彼女は使命感を持って試合に臨んでいるのだろう。そして、その使命感はプレーにも好影響をもたらしているように私には思える。これまでの彼女は、フィジカルの強さに対して、メンタルの弱さを指摘されることが多かった。しかし、今大会は今までの所そういう面が全く見られない。堂々たる試合ぶりで、相手をまさに圧倒しているという感がある。BLM問題を通じて、彼女は人間としてもアスリートとしても一回り大きくなったのではないか、と私は思っている。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする