禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「あるがまま」の哲学的意義について (その1)

2014-04-30 16:10:11 | 哲学

前回記事において、私は次のように述べた。

   「あるがまま」とは一切の概念のフィルターを通さないでものを見るということである。

 人はものを見ると解釈しようとする。そしてこの世界に経験により得た概念の網の目をかぶせようとする。それが客観的な世界把握である。この場合の客観的というのは科学といってもよいだろう。たいていの人はそれが真実に至る道筋であると考えている。

しかし、禅者の視点はそうではない。禅者にとっての世界とは客観的なものではなくとことん実存的なものである。「柳は緑花は紅」という言葉は、現前に繰り広げられるありありとした光景を意味する。「柳は緑」、それは当たり前のことである。実に当たり前のことを言っているのだが、その当たり前の中に、解釈を拒絶する、究極にして始原の世界を見ているということなのだ。

「あたりまえ」のことならなにも難しい話ではない、誰もがこの世界を当たり前に見ているはずである。難しいというのはあまりにも当たり前だからだろう。実際に人は世界をあるがまま見ているのである、ただそれを自分の世界観として把握するのが難しいのだ。それを論理的に説明することは難しい、当たり前のことだから論理などないのである。一気に了解しなければならない。絶対矛盾的自己同一というのはそういう趣旨の言葉であると私は認識している。

私たちは何にでも理由を求めたがる。それが科学を推進する原動力となる。科学は進歩して、この世界がビッグバンから生まれたことを教えてくれた。

しかし、そのような説明で自分の存在について納得できるだろうか?
ビッグバン説は、世界が「このよう」であるからかつては「こう」だった、と言っているにすぎない。「このよう」なものがかつて「こう」であったと推論しているだけの話である。科学による説明は次のように循環している。

    「このよう」なもの       -->   かつて「こう」であった
        かつて「こう」であった  -->  「このよう」になる
  

科学はすべて、現実からの帰納に端を発している。それは未来や過去を推論するための方便であって、世界が「このよう」であることの哲学的説明をするものではないのである。

万有引力があるからリンゴが落ちるのではなく、リンゴが落ちるから「万有引力がある」と仮定しているのである。いくら科学が進歩しても、「なぜ引力があるのか?」に答えることはできない。リンゴが落ちたということは究極の事実であって、そのことに対する根源的な理由は存在しない。(参照=>「空はなぜ青いのか? 」)

西洋的な思考法に慣れた人には、「根源的な理由は存在しない」というような考え方は受け入れにくいものであろう。その存在論的な不安をテーマとして描かれたのが、サルトルの「嘔吐」という小説である。主人公のロカンタンはその不安を「偶然性」という言葉で表現する。この世界が「このよう」である必然性がない、「無根拠」であるという意味である。無根拠であるから、「自分は不必要な人間だ」と言ったり、存在自体がグロテスクであると感じるようになり、やがてはマロニエの根っこを見て激しい吐き気を催すようにまでなってしまった。

「存在の根源的理由の有りや無しや」という問いかけは、臨済禅における法身の公案に似ている。例えば初関として与えられることの多い「隻手音声」という公案は、ふつう柏手は両手でポンと打つところを片手で打つ、そしてその音を聴けというのである。不可能というかそもそも問題として成立していないような無茶ぶりになにがなんでも答えよ、というのが公案なのである。

このような公案に苦しめられた禅者にとっては、「存在の根源的理由」などという設問はたわごと以上のものではあり得ない。禅者にとって「このよう」な世界は唯一究極の世界であるから、それをしっかとうけとめて生きていくしかないからである。

(つづく)

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絶対矛盾的自己同一とはなにか?

2014-04-20 16:00:40 | 哲学

ある時、鈴木大拙が西田幾多郎に「絶対矛盾的自己同一という言葉はどこで区切るのか?」と問うたところ、西田はそれは全体で一語であると答えた。そんな話を何かの本で読んだ記憶がある。


だとするなら、「絶対矛盾的自己同一」というのは禅語ではないのかと、その時思ったのである。それが哲学用語であるというなら厳密な説明が要請される。「絶対」「矛盾」「自己」、それらの言葉が何を指しているかが明瞭に示されなくてはならないはずである。しかし、「全体で一語」などと言われると、老師が「世界をウムと一気に了解せよ」と言っているのと同じように感じてしまうのだが、私の偏見だろうか?

もしそれが禅語であるとすれば、その意味するところは明白である。禅による世界把握は「あるがまま」という一語に尽きるからだ。「あるがまま」とは一切の概念のフィルターを通さないでものを見るということである。「一切皆空」とか「即非の論理」とかいうのもすべて同じ脈絡の中にある。その中でも「絶対矛盾的自己同一」には西田特有のダイナミックな世界観が顕著に表れている。

<< 過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。>>

上記の表現は、非常にダイナミックで一見説得力がありそうだが、哲学的にも禅的にも問題がある。

哲学的にこのようなことが言えるためには、過去とか未来が明瞭に把握されていなければならないはずだ。過去と未来がどのように対立しているというのだろうか? それは果たして対立するものなのか? 私には西田がそのような視点に立ちえたとは思えない。 いまだに時間そのものを俯瞰しえた哲学者はいないからである。

一方禅的な視点から見ても問題がある。「あるがまま」は概念のフィルターを通さない見方であるのに、過去・現在・未来という枠組みをもとに説明しようとしている。禅者は見えないものを見えるとは言わない。我々には決して未来が現在にそして過去になる過程というものは見えていない。「現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、…」というようなことは決してないのである。禅者ならただ「恁麼(いんも)」というしかないだろう。恁麼というのは「そのように」という意味である。

「絶対矛盾的自己同一」という述語はどうも仰々しい、「あるがまま」とか「あるがままに」とかに置き換えても意味がそのまま通じてしまうと言ったら言いすぎだろうか。

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空はなぜ青いのか?

2014-04-08 11:11:52 | 哲学

太陽の光は、なんの色もついていないように見えますが、実はこのようにたくさんの色が混ざってできているのです。そして、地球の大気はこのうち青いほうの光を散乱する性質をもっています。つまり、空気中の分子は、太陽からやってきたうちの青い光だけをつかまえて、別の方向へ放り出す性質があるのです。大気中にはたくさんの分子がありますから、青い光は何回も何回もつかまっては放り出されを繰り返します。そうして青い光は、空じゅういっぱいにひろがり、最後に私たちの目に入ってくるのです。(国立科学博物館の説明)

色はその波長の違いによるものと現在では知られている。つまり特定の波長の光が私たちの視神経を刺激すると、私たちには青い色が見えるということである。

では、その特定の波長の光が視神経を刺激するとなぜ青く見えるのか?と問われると、とたんに窮するのではないだろうか? それ以上のことは、たとえニュートンやアインシュタインのような大科学者でも答えることのできない問題である。この難問を現代哲学では「意識のハードプロブレム」と呼んでいる。

意識のハードプロブレム(英:Hard problem of consciousness)とは、物質および電気的・化学的反応の集合体である脳から、どのようにして主観的な意識体験(現象意識、クオリア)というものが生まれるのかという問題のこと。(ウィキペディアより)

クォリアというのは、目の前に見える赤いリンゴ、美味しそうなカレーライスの匂い、ストーブの温かさ、我々がじかに感じているありありとしたこの感覚のことである。

何にでも理由と目的を見つけたがるのは西洋哲学の欠陥と言えるかもしれない。禅的視座から見れば、科学というものははじめから意識に関する究極的な解答を求める責務を持たされていない。
科学の立場から言えば、特定の波長の光が視神経を刺激することと、意識の中で青い色が見えることとは同じ意味であり、その時点で科学はりっぱに使命を果たしている。それ以上の追及はできないのである。

仏教は科学を否定するわけではないが、あくまでそれはこの世界の動きを予測するものであり、われわれが生きていく為の方便という位置づけである。科学は、先ず科学法則があってそれが今ある世界を成立させていると説く、それに対し、仏教者は先ずいまある世界を無条件で受け入れる、それが「あるがままを受け入れる」という世界観である。仏教者にとっては、一義的にはあるがままの世界があり、科学法則というものは付随的についてくるものでしかないのである。

ニュートンは、リンゴが落ちるのを見て、「万有引力があるからだ」と考えたと言われる。それ以来、人々は「万有引力があるからリンゴが落ちる。」と考えるようになる。

禅的視座から見ると、それは厳密なものの見方ではない。リンゴが落ちるという事実がまづ先にあり、ニュートンはそこから万有引力があるという仮説を想定したのに過ぎない。言うなれば、「リンゴが落ちる」という事実を「万有引力がある」という別の言葉で表現しただけなのである。万有引力のアイデアは有効なものではあるが、仏教者の世界観としては、「リンゴが落ちる」ということが一義的なのである。

同様に、「空が青い(時には赤い)」という事実も一義的なのである。もうそれはそれ以上理由を遡及することのできない始原的事実なのだ。科学者は、「空が青い」というような事実をもとに、光やそれを受ける視神経や脳といういわば虚構を想定しているのであって、その虚構を通じて我々の意識の中の空の青さの理由を説明しようとするのは、「空は青いから青く見える」というような循環に陥っているのである。

空が青く見えるということに理由はない。

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