禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

確率と人生と理性(つづき)

2020-05-26 17:05:13 | 哲学
 もう少し、大森の言葉を引いておこう。
≪ 人生にかけるということは単に予測するだけのことではない。文字通り自分の生活をかけることなのである。単に未来を傍観者風に予測するのではなく、そのように予測された未来に立ち向かう心構えをすることなのである。その予測に付された確率はその構えの姿勢の表現であり覚悟のほどの表現なのである。九分通りこういくだろうと構えて手術をする外科医と、五分五分だと思いながらの外科医はその構えが違うのである。そしてその手術の結果がよい時にせよ悪い時にせよ、この二人の外科医は異なる安堵や異なる弁明をするだろう。賭けた人は否応なく賭けの結果を追う以外にはない。 ≫

 しかし、大森は確率の数値は参照された過去の指針の示す値であって、その人の賭けの心構えそれ自身の測定値ではないとも言う。それはそうだろう。成功率が五分五分の手術なら、やってみる価値があると考える外科医もおれば、自分はそんな危険な手術はしないという外科医もいるだろう。

≪ 確率論の指針にせよ、それ以外の指針(勘とか天からの声とか)にせよ、どの指針に導かれるのが最も有利であるか、それは前もって不明なのである。それが明瞭であるならば賭けの必要はない。われわれ今日生きている人間はともかくも今日まで生きて来れるだけの賭けに成功した人間である。適者生存の生き残りなのである。だが明日は? それは明日になってみなければ分からない。 ≫

 私達は賭けに成功して生き残ってきた人間であると大森は言うが、もしかしたらそれは単に運が良かっただけかもしれない。また、確率に対する態度の最適解というものがもしあるのなら、私達の状況判断・行動というものは互いにもっと似通ったものになっただろうと考えられるが、そうなっていないのは、人類全体の生存というものを考えた場合、個体ごとの確率に対する態度のバリエーションというものが必要だからかもしれない。
 また、ある人はないに等しい確率に期待して宝くじを毎回買い求めるくせに、スマホを操作しながら車の運転をしたりもする(事故に遭う確率は宝くじの一等に当たるよりはるかに高いはず)、というような一見非合理的な判断をする。一般に、ポジティブな事柄における確率は過大視し、ネガティブなものの確率は過小視されがちであることについても、それなりに理由があるのだろう。どうやら、私たちの理性が求める、未来に対処する合理性というものは、それほど単純ではないようだ。
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確率と人生と理性

2020-05-25 06:03:43 | 哲学
 大森荘蔵はわが国を代表する哲学者の一人であるが、「確率と人生」というエッセーの中で次のように述べている。
≪ 要するに、一回きりの事件では、前もってその確率を云々しても、その予言の当たりはずれを言うことは意味をなさないのである。確率いくらいくらということが正しかったか誤っていたかを定める方法がないからである。だがわれわれの日常生活で確立を問題にしたいのは大抵は一回きりの事件の確率なのである。明日の天気、来月の株価、‥‥(省略)‥‥、といった一回きりの事件の確率がわれわれの生活での緊急時なのである。ところがこのような一回きりの事件の確率が当たった外れたということが意味をなさないようなものならば、一体われわれはなにをしているのだろうか。 ≫
事後に確率の当たりはずれを云々することは意味をなさない。まったくその通りである。賽の目は必ず丁半のいずれかに収束する。丁が出れば半は全く無い、逆もまたしかりであって、確率が半々であるからといって、結果としての丁と半が0.5ずつになるということは決してない。事後に確率を云々することは、巌流島の決闘の後で、「本当は佐々木小次郎の技量の方が武蔵を上回っていた。」と言うに等しい。そのことを検証する手立てはどこにもないのである。

 確率がなんであるか? ということに答えるのはとりわけ難しい。確率論というのは数学の一分野であるが、そこでは確率がなんであるかということは実は問題にされていない。確率の厳密な定義はおそらく不可能なのだろうと思う。大森荘蔵は確率の意義について次のように述べている。
≪ では一回きりの個別的事件の確率を云々することはなにを意味しているのだろう。それは無意味であるはずはない。とにかくわれわれは「明日はたぶん雨だろう」ということに十分な意味を感じているのだから、私はそれは単なる予測の命題ではなく、自分が生きる上での心構えの表現であると思う。雨かも知れない、という覚悟をしながら晴れだとして生きることに賭ける、という心構えの表現だと。 ≫

 大森は確率を云々することは「生きることに賭ける心構えの表現」であるという。心構えというのは、結果がどうあれ納得しなければならないということであろう。なにを納得させるのかと言えば、それはわれわれの理性であろうと思う。理性はこの世界を整合的なものとして把握しようとする。なにについてもそれなりの理由を要請するのである。ところが未来のことは本質的に不可知である。つまりわれわれは未来のことは分からないまま行動しなければならないのであるが、理性はその行動が合理的であることを要求するのである。確率というのは理性を納得させるための「暫定的な理由」ということになのだろう。
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歴史の審判を畏れない人々

2020-05-16 11:15:31 | 政治・社会
 政治ネタをとり上げると読者が逃げて行きそうな気もするのだが、これだけはどうしても言っておかねばならないような気がする。日本はどんどん品位のない国に成り下がりつつあるからだ。特に安倍政権になって以来その傾向が著しい。国民の多くは、日本は他国に比べて誠実でお人よしの国だ、ぐらいに思っているのではないだろうか。しかし、そのようなイメージには何の根拠もないのである。世界報道自由度ランキング(<=クリック)によれば、2020年度の日本は66位である。いわゆる先進国で日本より下位の国は一つもない。10年前の2010年には11位までなった日本が、今や同じ東アジアの韓国(42位)、台湾(43位)に大きく後れを取っている。「男女平等ランキング2020」に至っては、なんと日本は121位 である。
 もし、「公務員の忖度度ランキング」というものがあれば、おそらく日本は民主制国家の中では断トツの一位ではなかろうかと思う。公文書を組織的に改ざんしても責任の所在が不明で、誰も牢屋へ入れられた人はいないし、そのため自殺した人まで出ているのに、内部から声を張り上げるものはいない。
 4年前に、安倍総理の伝記の執筆者に準強姦容疑で逮捕状が出た。それが逮捕直前になって、なぜか警視庁刑事部長から執行停止命令が出された。その刑事部長の前任務は菅義偉内閣官房長官の秘書官であったという中村格氏である。その中村氏は今や警察庁次長で、もはや警察庁長官は既定の路線であると見られている。そこへきて、今回の検察庁法改正である。安倍はなにがなんでも政権よりの黒川検事総長を実現するつもりである。警察庁も検察庁も押さえれば、誰も安倍政権には手出しできなくなる。役人の忖度度はますます高くなる。ますます日本は、歴史の審判より権力の方にひれ伏する人間ばかりになってしまうだろう。
 これからの選挙には心してかかる必要がある。でなければ、歴史の審判にさらされるのは我々の方である。
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本当の出口はまだまだ先である

2020-05-13 08:46:16 | 政治・社会
   新型コロナも高温多湿の環境では活性度がかなり失われるらしいということで、日本の梅雨と夏にかなり希望を託しているのだが、安心するのはまだ早すぎる。 新型コロナは全く新しいウィルスなので、ワクチンを接種しない限り、いずれみんな感染するのである。時間の問題で、私もあなたもワクチンを接種するか感染するかのどちらかなのである。今やっている緊急事態における自粛はコロナを終息させるためのものではなく、ひとえに医療崩壊を防ぐためであるという認識が必要である。逆に言えば、医療崩壊を招かない自信があれば休校や企業の営業自粛はやるべきではない、という考えも成り立つ。実際にスウェーデンがそれをやった、あえて集団免疫を獲得するという方針を立てたのである。5月7日時点で3000人(スウェーデンの人口は約1000万人)を超す死者が出て、さすがに批判が出始めたが都市のロックダウンも企業への休業指示も未だ出ていない。高校と大学はオンライン授業になったが、小中学校はいまだに通常授業を行っている。現在、スウェーデン政府は国内外からの批判にさらされているが、このような考え方もあり得るということである。

 言いたいことは、自粛活動はウィルスに対する根本的な対策ではないということである。当初、政治家たちが「今が瀬戸際です」という言葉を連発していたが、全くこのことを理解していなかった。ワクチンを接種するか国民の大半が感染して抗体を獲得するかしない限り、瀬戸際の後も瀬戸際が続く。早ければ年内にもワクチンが完成するという話も出てきているが、国民全体が接種を受けるにはまだまだ時間がかかると見なければならないだろう。一年間もの間、学校や企業の活動を停止させておくわけにもいかない。このひずみはいずれ何らかの形になって表れる。コロナ肺炎で死ぬ人が多いかそれとも自殺者の数が多いか、それらを両てんびんにかけるという視点も必要である。われわれはできる限り早く日常を取り戻さなくてはならない。そのためにはできる限りたくさんのPCR検査して感染爆発を抑えながら、学校は分散登校をする、野球や相撲は観客にマスク着用させた上で観客数の制限もする、飲食業は消毒の徹底と席と席の間隔をあけて営業する、などの試みをしていかなくてはならない。

 個人的には市立図書館を早く開館して欲しい。
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この国の政治家の無能と無責任

2020-05-12 15:51:56 | 政治・社会
 加藤勝信厚生労働大臣によると、「相談・受診の目安」としてきた「風邪の症状や37.5℃以上の発熱が4日以上続いている」、「強いだるさ(倦怠感)や息苦しさ(呼吸困難)がある」というのは、あくまで目安であって「相談や診療を受ける側の基準ではない」ということらしい。それがPCR検査を受けるための基準であるというのは「誤解」であったというのである。いまさらなにを言っているのだろう。岡江久美子さんが発熱から4日目に病状が急変したことをニュースで把握していなかったのだろうか? 

 保健所がPCR検査を抑制していたのは今となっては明らかである。それはひとえに医療崩壊を招かないためだろうが、発想が逆転している。たくさん検査すれば陽性者もたくさん出る。指定伝染病に指定されたからには、陽性者は全員隔離しなければならない。たちまち病室は埋まってしまい、即医療崩壊になってしまうからだ。現場としては、重篤な患者に医療資源を集中するということを言い訳に、検査数を少なくするしかなかったわけである。しかし、そのことが市中に多くの感染者を野放しにすることになり、結果として大々的な自粛を長期間続けなければならない事態を招いたのである。

 要は、責任を現場に押し付けたことにある。このような事態はあらかじめ予測できたことである。有能な為政者ならば、検査部門と医療部門を切り離し、検査部門にはどんどん検査させるべきだった。重篤な患者に医療資源を集中するのは当然であるが、無症状者や軽症者を収容する施設をあらかじめ確保しておくべきだった。なんならオリンピックの選手村を使えばよい。自衛隊をつかって国立競技場に野営病棟を作っても良いだろう。私権を制限する緊急事態を宣言するからには、出来ることはすべてやったうえでのことでなくてはならない。

 テレビカメラに向かって「やってる感」を演じるのが政治家の仕事ではない。現在起きている事態を正確に把握して、有効な施策を打ち出し実行することである。出し遅れた証文を出すように、「目安が基準のように誤解されている」 といまごろになって言い出すのは無責任の極みというものだろう。

 もうひとつ、安倍政権には無能無責任だけではない、もう一つの特徴「悪辣さ」もあるということを付け加えたい。この国家的重大事とも言うべきコロナ危機には国民が心を一つにして当たらなければならないのに、どさくさに紛れて検察官定年延長法案を通過させようとしていることである。まさに火事場泥棒という言葉がぴったりである。森友、加計、公文書偽造、桜を見る会とまさに疑惑満載の安倍政権にとって、検察庁を手の内におさめておかなくては枕を高くして眠れないのだろう。戦後最低の宰相のおかげで、日本はずいぶん品位のない国に成り下がってしまったものだ。
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