禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

人間は自分に似せて神をつくる

2016-07-30 11:10:51 | 哲学

年を取ると朝が早い。今朝は3時に目が覚めてしまった。特にすることもないので、寝床の中で神について考えてみた。

旧約聖書では、「神は自らに似せて人を作った」とあるが、私はどうもこれは逆ではないかと思う。おそらく、人間が「自分に似せて神をつくった」のだろう。旧約聖書だけではなく、ギリシャの神々も日本神話の神々もすべて人間に似ているというか、明らかに「人間的」な価値観を持ちすぎている。

私の考える神とは、この世界のすべてを差配する全知全能の神の事であるが、どう考えてもそれらの神とは似ても似つかないものになる。

まず、神は全知全能であるがゆえに人間を認知しない。神は全知であるから当然、私がここでパソコンに向って記事を書いていることも知っている。知っているが、私という人間を認知しているかどうかが疑わしいのである。というのは、神の世界把握の仕方は我々人間とは違う、有限である人間のものごとの把握の仕方は表面的なものであるが、神はすべてを把握している。つまり、誰それが何かをしている、というような概念を媒介にした認識の仕方ではなく、分子や原子、素粒子のレベル(というか、ひょっとしたらもっとベーシックなレベル)ですべてを把握しているからである。

私たちは世界を可視光線を媒介にして見ているが、神の視点からみればそのようにして見る世界は特殊なものである。神は可視光だけでなく赤外線やⅩ線も見えるし、第一ものを見るのに光など必要としない。人の顔を見ると同時にその中のドクロも観ている、それも素粒子レベルでである。

つまり、無限の能力を持つ神はカオスをカオスのまま把握することが出来る。非力な人間は、流動する事象の中に差異と反復を見出し、なんらかの抽象化を経ないとものごとを理解できないのである。

ヨハネによる福音書には「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。」とあるが、これは西洋人のロゴスの偏重にちがいない。「言葉は神」であるどころか、おそらく神は言葉とは無縁のものである。第一に神はコミュニケートする相手がいない。言葉による理解は必然的に抽象化を伴う、非力な人間は言葉によらなければ思考することが出来ないが、神はすべてを把握しているのだから、もはや言葉による思考など必要ないのである。

最後に神の「意志」について考えてみよう。神は万能であるがゆえに、意志したことはすべて実現できる。というより、意志することと実現していることは同じであるとみなすべきだろう、万能なのだから。すると、私が今記事を書いているのも神の意志ということになりはしないか? すべてが神の意志なら、今この世界で起きていることはすべて神の意志である。

今起きていることがすべて神の意志であるならば、この宇宙そのものが神ということになりはしないか? 結局、神は万能であるがゆえに、あっても無くても同じということになりはしないだろうか? どうです、どこかおかしいですか?

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

正義の怖さ

2016-07-21 12:33:40 | 雑感

仏教では「不変のものはない」と説く。だから、あらゆる固定観念、イデアルなものは否定する。究極的な真・善・美なるものも無いわけである。固定的な足場がない以上、絶対的正義というのもまたあり得ない、というのが仏教の立場である。だから、仏教の内部においては本来争い事はないはずである。

善光寺では、大貫主がセクハラをしたとかしないとかでもめているらしいが、修行を積んだはずの人が争いの渦中にいるということがまず問題である。さらに、白黒をつけるために裁判所に訴えるに至っては、情けないというしかない。「生き仏様」と称されるほどの高僧であれば、世俗の法の裁定を求めるような仕儀に至ることは考えられない。もはやそこにはすでに仏教は存在しないと見るべきだろう。
テレビカメラの前で昂然と相手を批判する、その同じ人が善男善女の頭を数珠で撫ぜる。その行為にどのような意義があろう。

人は誰も自分が正義であることを訴え、相手をあしざまに言う。そこに既に独断と執着が生じているのである。「盗人にも三分の理」という言葉があるが、どのような立場にもそれなりの言い分がある、ということを表現したものである。仏教的ものの見方を俗っぽく方便として表している。己の立場に固執することなく、相手の言い分に耳を傾け、なんとか合意できる着地点を探らなくてはならない、それが仏教の教えである。時には全面的に相手に譲歩する、「負けるが勝ち」というのも仏教的方便であろう。仏教の寛容性とは、絶対の正義は存在しないという根本理念から出てくるのである。

そういう意味において、日本国憲法の第9条は仏教精神そのものの結実であると言える。いかなる戦争も正義の名分をもって行われる。過去に「正義の戦争」でない戦争はなかったのである。先の大戦で日本人は、最も愚劣な平和であってもいかなる戦争よりも勝る、ということを学んだ。

最近は自虐史観という言葉をよく聞く。「南京大虐殺はなかった」、「従軍慰安婦の強制連行はなかった」、「日本のお陰で西洋列強の植民地支配から免れた」などということを言うのだが、だから聖戦であったとでも言いたいのであろうか。戦争に大義名分を与えようという発想自体が、ちょっとピントがずれている。少なくとも一千万人の中国人が死んだ。そのほか死ぬよりつらい悲劇も数知れずあったことは想像に難くない。もし、日本に本当の仏教精神が根付いていれば、それらのことは避けられたかもしれないのである。

日本国憲法がアメリカからの押し付け憲法であった、というようなことがよく言われる。確かにそれはそうかもしれない。しかし、第9条に限って言えば、当時の国民の総意に基づいていたと言っても差し支えない。日本人は、国民国家の枠を超えて、世界市民として平和を希求する。そのような決意があったことは間違いないのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする