禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

老いには逆らえない‥‥

2020-06-28 11:30:00 | どうでもいいこと
 誰でもそうかも知れないのだけれど、私は自分が老人であるという自覚がなかなか持てない。すでに70歳になっているのたから、客観的には老人以外のなにものでもないのだが、学校を卒業して社会人となったのがつい最近のように思えるのである。
 
 幸いにして体は割と頑丈にできていて、まだまだ公共交通のシルバーシートには座る気にはなれない。週に3回程度は一時間以上のジョギングもやっている。しかし、老化は頭の方からやってくるみたいで、とにかく物忘れがひどくなってきた。なにかを調べようとしてPCに向かっても、コンピューターが立ち上がるまでの間に、自分が何を調べようとしていたのかを忘れることが2回のうち一回ある。ドラマを見ても、俳優の名前が出てこない。私は仲間由紀恵をとてもひいきにしていて、彼女が出ているドラマはなるべく見逃さないようにしているのだけれど、ドラマを見ているうちに「この俳優の名前は何て言ったっけ?」という状態に度々なるのである。とにかく頭が悪くなっていることは間違いない。最近は図書館で借りた本が最後まで読み通せない。読み進めていくと前ページに書かれていたことを忘れてしまうので、話の流れがつかめなくなって前へ進めなくなってしまうからである。このように事実を並べてみると、私は老人であるどころかかなり痴呆に近づいていることを認めなくてはいけないような状態なのかもしれない。
 
 そんな私だが、まだまだ体力面では若い人に引けを取らないつもりだった。前述のように、私は常日頃からジョギングを続けており、一週間に20キロ以上は走っている。ところがこの数日はなんか胸が圧迫されるようで妙に苦しい、先日はとうとう途中で走るのを止め歩いて帰ってきた。そして、その足で行きつけのクリニックに行ったのだが、狭心症の疑いがあるということで、血管を拡張する薬と万一の時の為のニトロを処方された。ニトロですよ! ドラマなんかで老人が「ウゥッ」と言って倒れたときに舐めるやつです。
 
 もう、これで私は心身ともに一人前の老人であることを認めざるを得なくなったわけです。しかし、ちょっと変な話だけれど、なんとなく「私ニトロ持っているんです。」と不幸自慢したいような気持がある。もちろんニトロを持っていることは偉くもなんともない訳で、一ミリも自慢できるようなことではないのだけれど‥。はるか昔に読んだ北杜夫の「奇病連盟」という小説の一節が脳裏をよぎった。「病んでいるということは、人間の特権であり、栄光でもあるのだ」
なんか、とりとめのない話になってしまったけれど、まじめに読んで下さった方には「御免なさい」と謝っておきます。
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宇宙は有限か無限か?

2020-06-19 06:51:05 | 哲学
 NHKのEテレ「100分de名著 カント ”純粋理性批判” (3)」の録画しておいたものを視た。今回は、4つのアンチノミーがテーマである。アンチノミーというのは、私達の経験が到達できないものについて考える場合に、全く正反対の結論を導き出し得ることを言う。カントは次のような4つを例示している。
  1. 宇宙は時間と空間に関して有限か無限か?
  2. 物質は分割不可能な原子からできているか、際限なく分割できるか?
  3. 自由意志は存在するか、それともすべては自然法則による因果関係なのか?
  4. 必然的な存在者(神)の実在するのかしないのか?
 例えば、第一アンチノミーの宇宙の始まりについて考えてみよう。一般にはなんでも始まりというものがあるのである。始まりがあって経過がある。もし始まりというものがなければ、われわれのいる今現在に至るまで無限の時間が経過していることになる。しかし、「無限の時間が経過した」と言葉で言えるが、無限の時間とは決して経過し得ない時間のことであり、どれだけ時間がたったとしても現在に到達することはないということである。では、宇宙に始まりがあったとしたらどうだろう? その場合は確かに現在に至ることはできる。しかし、「宇宙の始まり」以前はどうであったかを説明することができない。

 ここで伊集院光がこんなことを言い出した。 「だんだんカントの軸が分かってきた。この世、あの世ってのもそうじゃないですか。『あの世ってあるのかな?』って話だけれど、自分の認識のことを『この世』って言っているわけで、そうじゃないものを『あの世』とした場合に、 『この世』があるんだから『あの世』だってあるじゃんという人と、 『この世』しかないよっていう、だってその先はスイッチがオフになったときの話だからっていう(人がいる)。あの世があるのかないのかという議論がもはや成り立たない。」

 この伊集院という人は実に鋭い人だと思う。私たちは認識できるものしか認識できないのである。「認識できるものしか認識できない」というのは同語反復で実に当たり前のことなのだが、この認識できるかできないかということを見極めるためには、私達の認識そのものを見下ろす超越的な視点に立たねばならない。それは認識できるものと認識できないものの双方を認識できないとできない相談である。われわれは超越的な視点に立つことはできないが、理性の性質を洗い出し、そしてできうる限りその限界を見極めようとする、それがカントの言う超越論的哲学である。「あの世があるのかないのかという議論がもはや成り立たない。」ということを悟る。それが「超越論的」ということのその第一歩である。
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文学は死を簡単に描きすぎなのではないだろうか?

2020-06-12 09:54:15 | 雑感
 私は幼い頃、水の中でおぼれかけたことがあって、それが今でも大きなトラウマとなって残ってしまった。それで、ドラマや小説で入水シーンがでてくるとどうしても平静ではいられなくなる。水中で苦し紛れに呼吸してしまう連想におそわれて恐怖を感じてしまうのである。

 平家物語は日本文学における古典中の古典とも言うべき名作であるが、私に言わせれば、人の死を平坦に描きすぎているように思える。「人間はそんなに簡単には死ねない」と私は考えてしまうのである。現実の人間の往生際がそんなによいとはどうしても思えない。逆に言えば、滅びの美学というのは人々の往生際の良さへのあこがれではなかろうかとも考えられる。

 「壇ノ浦」では優柔不断な平宗盛に比べて、「見るべきほどのことは見つ。」 と述べて悠然と入水する平知盛を賛美するかのように記されている。幼い安徳天皇に、「浪の下にも都の候ぞ」 と言い聞かせてともに入水する二位の尼も同様だが、平家物語ではいとも簡単に人は死ねるかのように描かれている。「浪の下にも都があります。」 と聞かされたところでいかほどの慰めになるだろうか? 水中に身を投じたその直後の瞬間から、すさまじい苦しさと恐怖に襲われてそれどころの話ではなかろうと私は想像してしまう。

 平家物語は「滅びの美学」ということがよく言われるが、 人の死はそんなに簡単でもないし美しくもない、というのが私の個人的見解である。一族郎党が入水する中、総帥たる宗盛は死にきれずに泳ぎ回っていたところを引き上げられ捕虜となったいう。 私個人はむしろそんな宗盛の方に人間味や共感を感じてしまう。

 自分でも、身もふたもないことを述べているという気がするが、世の中にはこんな偏屈なものの見方をする人間があってもよいと考えている。
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