禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

空(くう)について -2

2014-11-23 13:25:02 | 哲学

前回記事についてコメントをいただいたので、もう少し空について論じてみたい。

ナーガルジュナ(龍樹)は「空とは縁起である」と言っている。縁起とは「縁によって生起する」という意味の漢語だが、中村元先生によれば、原典のサンスクリットは「相依性」の意味に解釈すべきだという。

相依性というのは相互の依存関係のことである。例えば、ここに山があったとする。その山はそれ自身で山として成立しているのではなく、ただ周りの平野に比べて土や岩が多めに集まっているだけのことで「山」と呼ばれているにすぎない。谷や平野があって初めて山が成立する。相依性というのはそういうような意味である。

山を構成している土や岩のどれをとっても山としての本質を持っているわけではない。経典的な表現を使えばね「山は無自性である。」ということになる。

このようなものの見方をすればすべてのものが相依性によって成立していることが分かる。人間だって、たんぱく質や水分で成り立っている物質に過ぎないということになる。しかもそれらは複雑なメカニズムを構成しながらも新陳代謝を繰り返しどんどん変容している。そこに固定的な人間といわれるものは実は存在しない、大局的に見れば川の流れの中にできる渦のようなものを我々は「人間」と呼んでいるのである。

如何なるものもそれ自身は無自性である、というのが一切皆空という意味である。我々は概念によって世界を把握しようとする。概念というのは言葉と言ってもよい。「山」という言葉は山と山以外を区別するものでしかない、つまり記号である。「色即是空」というのは概念という記号による世界把握を一旦停止しよう、ということである。

このように述べてくると、空観というのは唯物的弁証法に似ているかもしれない。あまり強調しすぎると「空」が「空しい」という意味に解釈する人も出てくるだろう。

かわいい赤ん坊を見て、「これはタンパク質と水の塊に過ぎない」などと考えるお母さんはいない。それは母親にとってかけがえのないのないリアリティをもつものである。もし子供が早死にしたら、その母親は悲しみに打ちひしがれる。仏教はその悲しみを否定するような非人情な思想ではない。母親は悲しんでしかるべきである。しかし同時に、その子供がタンパク質などで出来ているメカニズムであることも本当のことなのである。だから何かの拍子にそのメカニズムが停止してしまうこともありうる。だからその時は、どんな悲しいことであろうとその事実を受け入れなくてはならないと釈迦は言うのである。

一切は空であるから、固定観念に執着してはならない。自分の思い通りにならないことを受け入れることができないのは執着があるからである。世にいうストーカーなどというのはその典型であろう。この世は思い通りにいかないものである。子を亡くした親も悲しみを乗り越えて生きていかなくてはならない。それが無常を受け入れるという仏教的諦観である。

空は「空しい」という意味ではない。ただ無自性であるということを言っているだけであってニヒルなニュアンスは一切ないのである。空とは言ってもそれは現前せるリアルな実在であるということを忘れてはいけない。「空即是色」とはそういう意味であると私は解釈したいのである。あくまでこれは私の解釈である。短いお経の文言はいろいろな解釈が成り立つ、こうこうであるというふうに断言することはできない。その辺はお含みいただきたい。

いろいろとネガティブな面ばかり書いてきたが、空観を通して世界を見るということは「あるがままの」リアルな世界に生きる自分を再発見するという意味もある。そこに「妙」というものも生まれてくるのである。

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空即是色とはなにか?

2014-11-15 16:05:35 | 哲学

色即是空の「色」というのは我々が認識できるものすべてのことを意味する。目の前にある石ころも、街の騒音も、蕎麦屋の出汁のにおいも、恋人とのデートに出かけるときのはやる気持ちもこれらは皆「色」である。

 「空」については前々回の記事「空(くう)について」において既に述べたが、今回はもう少し存在論的な観点から見てみよう。

目の前にある石ころを見て、私たちはそれが確かにそこに「ある」と確信する。その事実は誰が見ても動かしがたい絶対性に支えられていると感じるのである。

しかし現代科学の知識によれば、決して我々はその石ころそのものを見ているのではないということになる。石の表面で光が反射して、その光が私たちの瞳の中の網膜にあたり、その結果視神経を刺激して脳の中でイメージが構成されている、ということになる。

つまり我々が見たり聞いたりしているのは、そのものではなく意識に生じた像であるということだ。だとすると「すべては意識現象である。」ということになる。「色即是空」というのはこのことを感覚的に表現したものだと私は考えている。

では、「すべては意識現象である。」と言ったところでどのような意義があるのであろうか、それは如何なるものの絶対性を認めないというところにある。ものごとに執着しない。固定的なものの見方をしないでダイナミックな視点を持て、というようなことであろう。

それでは、「空即是色」というのはどういうことであろうか。「色即是空というのは分かるが空即是色というのはよくわからない。」という人は多い。いろんな解説を読んでも、「色即是空」と同じような意味の対句としてしかとらえていないのではないかと思うようなものもある。ここはひとつ踏み込んだ解釈をすべきだと私は思うのである。

ただ「すべては意識現象である。」と言い放っただけでは、我々の見ているものはみんなまぼろしだ、と言ったようなニュアンスになってしまう。意識現象という言葉自体が、それを触発する実体が別のところにあることを前提とする言葉である。仏教でいう「空」はそういうものではない。空とは言っても、それはありありとした「色」としてあらわれているのである。

西田幾多郎の「善の研究」の中に「意識現象が唯一の実在である。」という章がある。これが「空即是色」に相当する言葉である。目の前の石ころは確かに意識現象である。意識現象ではあってもありありとした現実なのである。西田のいう「意識現象」はその背後にある実体などを前提としない、唯一の実在である。我々は決して光を媒介として石ころを見ているのではない。それはそのままの「真理」としてそこにある。「柳は緑花は紅」というが、それは当たり前の光景の中に真理があると言っているのである。色即是空というのは一種の否定に違いないのであるが、その否定を通した後、当たり前を当たり前として肯定する。そこに「妙」というものが生まれるのである。

色即是空と空即是色は車の両輪であってどちらが欠けてもならない。それらが同時に並立していてこそ、仏教的中庸の視点というものが生まれるのである。

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慧玄が会裏に生死無し

2014-11-02 22:33:36 | 哲学

たいていの人は自分の誕生日を知っている。そしていつの日にか死ぬのだと信じている。自分の人生には始まりと終わりがあり、そして今はその間にあると思っているのである。

しかし、よくよく考えてみるなら、このことは親や他人からそう教えられたので、それを鵜呑みにしているだけということはないだろうか。もし、周りにそのようなことを教えてくれる人がいなかったなら、自分の人生に始まりや終わりがあると、人は考えないのではなかろうか。人生に始まりと終わりがあることは決してア・プリオリに知ることはできないのからである。

ウィトゲンシュタインは「死は経験することのない概念である。」と言ったが、同様に「誕生」もまた経験することのない概念である。なぜなら意識が生じる瞬間を誕生とするなら、意識のない時を私たちは経験できず、意識の生じたときにはすでに誕生しているからである。

本日のタイトルの「慧玄」というのは関山慧玄、妙心寺のご開山無相大師のことである。ある修行者が慧玄に死について訊ねたのに対し、「わしのところには生死なぞない」と答えたのである。

我々が通常生とか死を論じるときは他人の生死について論じるのである。つまり現象としての人を生物学的に論じているのであって、自己の内面から生死を見つめているのではない。「生」と「死」はあくまで生物学上の概念であって哲学的な概念とは言えないのである。

関山慧玄は当然生物学者ではなく禅者であるから、己事究明という観点からものを見る。生死がないのは当然なのである。

ここであなたは、「『死』がないというのはわかったが、『生』の方はれっきとしてあるではないか。」と言うかもしれない。生と死は反対概念である。死がなければ何を生であるといえようか。論語には「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」という言葉があるが、孔子様も「生を知らない」と言っている。素朴な目で物事を見れば、そういうことになるのである。「生まれて生きてそして死ぬ」という図式的な了解の中の生と死はあくまで記号でしかない。

おそらく人々は、死を睡眠、生を覚醒の類似概念としているのだと私は考えている。しかし、透徹した目で見ればどうしても生死を直感することはできない。では、「今」の状態が生でも死でもないならなんだと問われれば、ただのニュートラルとでも答えるしかないだろう。たぶん禅ではこのニュートラルを「無」と称しているのである。

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