禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

「空」は「むなしい」と読むべきではない

2019-04-27 04:27:33 | 哲学

「一切皆空」と言う言葉を「すべては儚いものである、だから執着してはならない。」というふうに解釈する向きがある。「執着してはならない」というのはその通りだけれど、この現実を儚いとか空しいというふうに解釈してしまうのは如何なものか。「空」というのは単に絶対性というものを否定しているだけであって、現実のリアリティを否定しているものでは決してない。

恋人に対して、「君を永遠に愛しているよ。」というのはかまわないと思う。それは単に相手をどれほど好きなのか、ということを誇張して言っているに過ぎない。文字通り、千年後も一億年後も愛し続けている、という意味で言っているのなら単純に勘違いしているのである。当然心変わりすることもあり得るわけである。相手の気持ちは冷めているのに、永遠の恋にこだわっているとストーカーになってしまう。人は自分の思いを絶対視する傾向がある。死んだ息子を生き返らせようとしたり、隣の家の美しい奥さんに横恋慕したりする。「執着するな」というのは、そういうことに対して「頭を冷やして、現実を受け入れよ。」という意味である。

ある仏教を論じているブログで、「仏教はすべてのものは実在しないと説いている。」というようなコメントが投稿されていた。問題は、この人が『実在』という言葉で何を言おうとしているかだろう。私にはなにか神秘的なことを言っているように思えてならないのである。『実在』という言葉を、「自分の意識とは無関係に絶対に存在する」という意味に使用しているなら、それはその通りだろう。

しかし、「実在しない」を「リアリティがない」というふうな意味で用いているなら問題であると思う。恋人とデートしている最中に、「この人はきれいに見えるけれど、所詮糞袋なのだ。」などと思わなければならないのだとしたら、悲しいことだろう。そのような思想を仏教が強制しているのなら、それし罪作りと言うべきだろう。確かに、禅僧は「人間は所詮糞袋だ。」とは言うし、ある視点から見ればそれは正しい。あくまで「ある視点」から見ればの話である。そして仏教はが説くのは、我々は絶対的な視点になど立ち得ることはないということである。「一切皆空」というのはそういう意味である。であるから、自分の恋人の美しさが永遠に変わらないと考えるのは間違っているし、また糞袋であると決めつけてしまうのもいかがなものかと思う。

絶対的な視点というものがないのなら、どういう視点に立てばよいのだという疑問が湧いてくるのは当然である。あえて、どういう視点に立たなければいけないということはない。ただ、「絶対的な視点というものはない」ということを腹の底に据えておく必要がある。その上で、目の前に現前している事実をそのままに受け止めるというのが仏教の趣旨に適っている。「あるがまま」受け入れよ、というのは目の前の現実はリアルなものであるという意味である。

「柳は緑花は紅。眼横鼻直。」と言うのは、決して神秘的なことを言ってはならないという戒めも含んでいる。

目の前に美しい花々がある。これは現実である。( 横浜 山下公園 )

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ものとこと

2019-04-15 05:56:17 | 哲学

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」は次のような言葉で始まっている。

  1. 世界は成立していることがらの総体である 

  1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

なぜか私たちは、「世界はものの集まりである」と考えがちである。それには理由があって、そのように想定しないと、他者とのコミュニケーションもままならないし、物事の予測も出来なくなってしまうからである。世界を自分の経験とは切り離されて存在するものの集まり、つまり客観的なものの集まりであると想定するのである。

しかし、よくよく考えれば、私の経験と切り離された客観的な「もの」というものは実はどこにも存在しないことに気がつく。例えば、サイコロの形である立方体様のものについて考えてみよう。立方体は正六面体とも言われる、6つの正方形からなる立体だからである。しかし、私達は6つの正方形を同時に見ることなどない。サイコロは視点によっていろんな見え方がある。私たちは、その多様な見え方を総合して、理想的な立方体を想像しているだけである。

ウィトゲンシュタインの言う、「成立していることがら」=「事実」というのは、実存的視点から見る事実、つまり経験を通じて知る事実に他ならない。このような視点から見れば、西田幾多郎の「意識現象が唯一の実在である。」という言葉もよく理解できる。

≪少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。≫(「善の研究」第2編第2章)

この外に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。」の「この外に実在」というのは意識現象以外、すなわち物体現象のことであるが、それは「思惟の要求よりいでたる仮定」すなわち仮説であると言っている。目の前のテーブルにリンゴが有るという事態があるとする。我々はつい「そこにリンゴが有るから、それが見える。」と考えがちだが実は話は逆で、「リンゴ様のものが見えるから、そこにリンゴが有ると信じる」のである。ものがあって経験があるのではなく、経験があるからものがあると措定しているのである。

かつての実在論というのは、誰にとっても共通の(客観的)世界というものがあって、そこにものが我々の経験とは切り離されて実在している、というものであった。それが、今はやりのマルクス・ガブリエルによる新実在論になると、すべてのものがそこにあるという一つの世界などというものは存在しない、と言い出した。それぞれの意味の世界があり、ものごとはそこに実在しているのだという。それぞれの意味の世界というのも、それぞれの視点から見える経験世界というふうに解釈すれば、カントや西田幾多郎とそれ程かけ離れたものではないように思う。

というようなわけで、現代哲学の潮流は「もの的世界観」から「こと的世界観」にすっかり変わってしまった、と言ってもいいと思う。

ここで言っておきたいのは、仏教ははるか昔から「こと的世界観」の立場をとってきたということである。空観というのはもともと絶対的な実在物とか本質というものを認めない。すべては関係性の中から生じてくるパターンとして現象しているに過ぎないからである。現象つまり経験、それ以上のものを認めないのである。

( 源兵衛川遊歩道 静岡県三島市 )
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死は経験することのない概念である

2019-04-12 05:45:37 | 哲学

日本臨済宗の実質的な総本山である妙心寺の御開山である関山慧玄国師は、死について問われた時、「慧玄が会裏に生死なし」と答えたと伝えられている。我々が普段語っている「死」は他人の死について語っているのであって、決して自分の死についてではない。自分の死について語ろうとしても、それはどうしても他人の死から連想した死のイメージでしかないのである。

一応、自分の死を矛盾なく定義することはできる。例えば「感覚がすべてなくなり、なにも認識できない状態」というふうに。しかし、それには直観が伴わない、いわば空疎な概念である。どんなに頑張ってみても、「感覚がすべてなくなり、なにも認識できない状態」を想像することは私達にはできない。

「それは感覚のない世界だから、暗黒と静寂の世界ではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、すでに「暗黒」と「無音」ということを自分の感覚で想像しているのである。なにも認識できないのなら、それは暗黒でも静寂でもないはずである。

しかし、哲学や宗教の中で、人々はさんざん死について語ってきたのではなかったか? 一体、それはなにについて語られてきたのだろうか?ということになる。おそらく、それは分からない。人は死について語るとき、自分が何について語っているかを知らないで語っているのである。

( 関連記事 ) 

死は人生のできごとではない 

慧玄が会裏に生死無し

駅へ顔も名前も知らない人を迎えに行くということ

( 今年はいつもより、レッドロビンの色が鮮やかに見える。 )

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