禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

反知性主義というには無知過ぎるよ、麻生さん

2021-10-28 06:36:10 | 政治・社会
 麻生太郎氏は学習院大学政治経済学部を卒業したらしいが、おそらく勉強などせずにマンガばっかり読んでいたのだろう。あまりにもトンチンカンな発言が多すぎる。昔から「失言が多い」とよく言われてきたが、多分、無知蒙昧から出た本音を語っているだけと考えた方がつじつまが合う。次の記事を見て欲しい。
 

  
 年金の株への投資をまるで手柄のように自慢しているが、やっていることは公金による株の買い支えである。年金基金と日銀で何十兆円も株式市場に投資すれば株価は上がるのは当たり前で、そんなものは見せかけの好況感に過ぎない。いうまでもないことだが、株式投資は現金化しなければ利益は確定しない。麻生さんは「年金は80兆円増えている。」と言っているが、それは単なる絵に描いた餅でしかない。公的資金を株式市場から引き揚げにかかった時点で、日本株は大暴落するのは間違いない。今の日本の株価は、毎年何兆円もの公的資金が流入するという前提で形成されている。アベノミクスの破たんを露呈させないためには、これからも延々と公的資金を株式市場につぎ込み続けねばならないのである。

 日本の一人当たりGDPは、バブル崩壊前にはアメリカをも上回っていたのである。それが今や、イギリスやフランスは言うに及ばず韓国にも追い抜かれてしまった。この客観情勢がアベノミクスの中身のお粗末さを如実に物語っている。無理もない、麻生さんのような経済音痴が長い間財務大臣をやっていたのだから。無能な政府首脳と、大掛かりな公的文書改ざんまでやってのける腐敗官僚。これでまともな行政が行われるわけがない。

 今回の衆議院議員選挙には心して投票しようではありませんか。
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日本の人々は、いつもお互いのことを気にしている

2021-10-26 06:13:16 | 雑感
 本日のタイトルは、今年度のノーベル物理学賞を受賞した真鍋叔郎博士の言葉から引用した。受賞に際して、「なぜ日本国籍を捨ててアメリカ国籍を選んだのか?」という質問に答えて、博士は次のように答えた。

「日本の人々は、非常に調和を重んじる関係性を築きます。お互いが良い関係を維持するためにこれが重要です。他人を気にして、他人を邪魔するようなことは一切やりません。‥‥‥ アメリカでは、他人の気持ちを気にする必要がありません。私も他人の気持ちを傷つけたくはありませんが、私は他の人のことを気にすることが得意ではない。‥‥‥ 私はまわりと協調して生きることができない。それが日本に帰りたくない理由の一つです」 

 調和を重んじるのは日本の美風かも知れないが、博士にとってはそれが息苦しかったのだろう。それと、博士は「他人を気にして、他人を邪魔するようなことは一切やりません。」と述べているが、この言い方は正確ではない。単に他人のことを思いやるだけなら、日本は世界一素晴らしい国である。一方的に他人のことを気にかけるだけなら何も問題は無いだろうが、相手にもそれを要求する。いわゆる暗黙の同調圧力、それが息苦しさの原因である。
 博士のノーベル賞受賞を日本人の26人目として我々は喜んでいるが、すでに彼はアメリカ人であることについても、我々は考えるべきだと思う。アメリカに研究拠点を持つ彼にとって、アメリカ国籍を持っ方が便利に決まっている。問題は日本の法律が二重国籍を認めていないことである。日本人が他国籍を取得した場合は日本国籍を捨てねばならない。アメリカ側から見れば二重国籍は法律的にも全く問題がないのに、日本だけがそれを問題視するのである。日本は二重国籍者をコウモリ的な存在と見ているのだろう。そこには日本人特有のある種の嫉妬の感情があるような気がする。

 わが国には「在日特権を許さない市民の会」というものがあることを故存じだろうか?いわゆる在日韓国・朝鮮人の方々の日本在留に関する権利を「特権」と見なし、それを無くそうとする人々の集まりである。いわゆる在日の方々はかつてすべて日本国民だったのである。それが第二次世界大戦が終わると同時に、日本人ではないということになった。そういう歴史的経緯を踏まえれば「在日特権」などという言い方はおかしいのである。むしろ、二重国籍を正式に許容した方がすっきりするだろう。考えてみて欲しい、柳美里さんや伊集院静さんは日本文学の大きな担い手である。流行歌手にも在日の人が多いことは知られている。日本文化というものは既に多様な人々によって構成されているのである。日本人が「他人のことを気にする」のであれば、それらの人々が気持ちよく日本で暮らせるよう「気にかける」べきだと私は思う。
 
 今度の選挙では「選択的夫婦別姓制度」も争点の一つとなっている。 既に若い人を中心に日本人の多くがこの制度を受け入れてもよいと考えているが、頑強に夫婦同姓にこだわる人がまだかなりいる。その人々が夫婦同姓にこだわるのは自由だが、やっかいなのは、自分達だけではなく他人も夫婦同姓でなくてはならないと強硬に主張することだ。なぜ? そんなに他人のことを気にする? 自分達だけではなく、他人も一緒にこの日本伝統の美風に同調して欲しい、という願望はちょっと厚かましすぎるというか、とても押しつけがましくて暴力的である。夫婦同姓が日本の伝統などというのは勘違いだし、本当の意味で「他人のことを気にする」のであれば、夫婦別姓を選択したい人々の事情をくみ取ってあげるべきである。
 
 真子内親王の結婚問題についても同様である。彼女の人生になんの責任も持ってない人がとやかく言うべき問題ではない。誰かが言ったように、彼女にも失敗する権利はあるはず。「他人のことを気にする」のは良いとしても、決して他人の人生に介入するべきではない。どうしても彼女の事が気になる人は、心配だけしていれば良いのである。
 
 
横浜市磯子区 「浜マーケット」 (記事記事本文とは関係ありません。)
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人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ

2021-10-03 21:49:44 | いちゃもん
 昨日(10/2)の朝刊によれば、秋篠宮家の内親王である真子さんが複雑性PTSDに陥っているという。結婚相手の親の金銭トラブルがもとで、「皇族の結婚相手としてふさわしくない」という風潮が日本中に満ちているからだろう。もし近所の娘さんが小室圭さんと結婚すると分かっても、その結婚にとやかく言う人はそう多くはあるまい。ところが皇族が結婚するとなると、一般人がテレビの前で堂々と「それはちょっと・・」と言ってのける。SNSの中だともっと露骨に相手をぼろくそにけなす。その果てに、真子さんのことを「皇族としての義務をわきまえておられない。」というような、昔なら不敬罪で逮捕されかねないようなことまで言う。金銭トラブルと言っても、誰も犯罪を犯しているわけではない。単なるもめごとに過ぎない。当事者間で解決すべき問題である。なんらの責任も持たない赤の他人が、そのことについて好悪の感情を持つことは自由だが、一方の当事者の息子の結婚にまで口出しすることは明らかに行きすぎだと思う。

 忘れてはならないのは、どんな人も結婚する権利があるということである。やくざであろうが犯罪者であろうが、金持ちでも貧乏人でも成人でありさえすれば、結婚の自由は誰でも持っている。憲法24条1項 によれば、結婚の唯一の必要かつ十分な条件は「両性の合意」、それしかない。だからこそ、真子さんの父親である秋篠宮さんは彼女の結婚について、心配しながらも容認するしかなかった。

 実の親が認めたのであるからには、もうこれ以上他人がとやかく言う問題ではないだろう。誰かがうまいことを言っていた。「真子様だって失敗する権利はある。」 その通りだと思う。惹かれあったならとにかく一度結婚するしかない。その結果、上手く行かないことだってあるかも知れないけれど、良いではないか。成功もあれば失敗もある、それが人生だと思う。

 ある人のブログで、「眞子様を心配するのは日本の国を心配することと同義です。 」と述べられているのを見た。あくまで、それはその人の主観でしかなく、そのような実体としての「日本」は実在しない。一部の人にとっては「皇室=日本の中心」かもしれないが、誰にでも通用するような信条とはなり得ない。真子さんが誰と結婚しようが、日本経済には何の影響も与えないし、ほとんどの日本人の暮らしには何の変化もないだろう。

 私から見れば、皇室崇拝は一種の宗教的信仰だと思う。だから、他人が皇室を崇拝すること自体については、とやかく言うつもりはない。しかし、その信仰をすべての日本人に押し付けたり、皇族の基本的人権を否定したりすれば、それはもうはた迷惑な妄想でしかない。真に皇室を尊崇するというのであれば、 皇室の頽廃を嘆くかのような忠臣面は、下々の民にとっては畏れ多いことと弁えるべきである。もうやめた方が良いと思う。 

銚子電鉄 外川駅 (本文とは関係ありません。)
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言葉の意味と使い方

2021-10-02 09:28:06 | 哲学
 「ニワトリが先か卵が先か?」というのは原因と結果が循環している場合の例えだが、どんなことでも無限に循環しているということはない。ニワトリは人間が家畜化したものに違いないから、はじめて「ニワトリ」と呼ばれた鳥が必ずあったはずである。

 そこで、Aさんはこう言う。「どんなニワトリも鳥である限り、卵として生まれたはずである。だから卵が先である。」と。しかし、それに対してBさんはこう言う。「Aさんの言うその最初の卵はニワトリ以外の鳥が生んだものである。それが卵のままであるときは、あくまでニワトリ以外の鳥の卵でしかない。それが成鳥となってはじめて『ニワトリ』の概念が成立するのであるから、ニワトリが先というべきである。」 

 AさんとBさんの言い分のどちらが正しいのだろうか? どちらの言い分にも一理ありそうである。そして重要なことは、AさんとBさんの現実認識は同じであるということである。つまり、AさんとBさんは同じことを違う言葉で表現しているのである。私たちは言葉で考える。自分の語感を疑うことは、自分の思考の外に出るというようなことでもあってとりわけ難しい。「〇〇が△△より先」という言葉の意味するところは一見単純明快そうだが、実は多義的であって、AさんとBさんではその使い方が違うのである。

 哲学者のウィトゲンシュタインは、「言葉の意味はその使用である。」というようなことを述べている。私たちは、明確な「対象」があってそれに対応する言葉を使っていると思いがちだが、実はそれはあやしい。話は逆で、「〇〇が△△より先」というような言葉が、それに対応する対象としての「像」を作り上げているとした方がつじつまが合う。

 AさんとBさんの現実認識が同じならば、彼らは本来議論において対立する必要はないはずである。この場合あえて、ニワトリと卵のどちらが先かを決定することに大した意義があるとは考えられない。よくよく考えてみれば、双方の見解にそれほど違いが無いことも分かるはずである。ただ、「〇〇が△△より先」という言葉に対する自分の語感を捨てることが出来ない。そのためお互いの主張を譲ることが出来ないということになる。

 実は、このようなことは日常的に結構あることではないだろうか? ちょっとした言葉の意味に拘泥するあまり、深刻な信念対立があるかのような喧嘩腰の議論に陥った、というような経験は誰にもあるのではないかと思う。そのような時には、自分の言葉のつかい方を反省せねばならない。前にも述べたように言葉と思考は一体なので、それは一種の自己否定のようなものだからなかなか難しい。そういう時に哲学が必要となってくるのだろう。

彼岸花 本文とは関係ありません。
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私、ボーッと生きてます。

2021-10-01 11:59:32 | どうでもいいこと
 人間はわりと迂闊なもので、ごく身近なことなのに何十年も気が付かないことがある。例えば、左右の鼻の穴はいつも同時に通じているわけではなく、大抵は何時間かおきに交替で働いている、というふうなあまり知っていても知らなくてもよいような知識を、この歳になって知ったりする。なんだかチコちゃんに叱られそうだが、あらためてそういうことを知ると、人間の盲点に気づいたような気がして、なんだか私は楽しくなるのである。

 「日本語はウラル・アルタイ語族に属する。」ということはよく言われていることで、知っている方も多いと思う。しかし、そもそもウラル・アルタイ語がどんなものかを知らないのだから知識としては余り有意義ではない。 それで今、言語学者の田中克彦先生の「ことばは国家を超える」という本を読み始めたのだが。それによると「アルタイ語には『ラ』行で始まる言葉がない」のだそうだ。現在の日本語にある「ラ」行で始まる単語は外国由来のもので、本来の大和言葉にはないというのだ。確かに、子どもの頃しりとりをしている時に、「り」で始まる言葉は「りす」と「りんご」くらいしかないなあ、という気はしていた。そう言えば、「栗鼠」も「林檎」ももともとは漢語である。試しに、国語辞典の「ら」の部分を引いてみる。「等」、「羅」、‥‥「雷雨」、「雷雲」、「来演」‥‥。なるほど、ざっと見たところ漢語をはじめとする外来語ばかり、本来の日本語である大和言葉は全然見当たらない。

 言われてみれば納得だが、毎日日本語をしゃべっていてもこれはなかなか気が付かないものである。現代の日本人にとっては、すでに「ラ」行から始まる言葉を発することには抵抗が亡くなっているように見えるが、江戸時代の人はロシアのことを「オロシア」と言っていたことから判断して、その頃の日本人はまだ「ラ」行から始まる言葉を口にすることには抵抗があったのだろう。おそらく、江戸末期から「ラ」行から始まる外来語がたくさん流入したことによって、我々はそれに慣れてきたのだろうと思う。

 今では、日本人自ら、新しい年号を「令和」と定める程になってしまった。「ラ」行で始まる年号に抵抗を感じる日本人はどれほどいるだろうか。田中先生は「『令和』という新しい元号が発表されたとき、私は、こんなラ音ではじまる本来の日本語にはなかった発音様式は「国粋的」ではない、困った名づけだと思った。」と述べている。私は、元々年号は中国由来のものであるから「国粋的」でない方が相応しいような気がする。むしろ、年号を「国粋的」と感じることに問題があるような気がしている。

 とにかく、私はもっとも身近な言語についてのトリビアを初めて知ってちょっぴり嬉しくなった。チコちゃんはこんなこと知っているだろうか?

新宿御苑 本文とは関係ありません。
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