こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

間抜けなおじさん

2014年01月31日 | 日々思うこと、考えること
病院の帰り、といっても仕事の帰りだが、通勤に使っている駅の手前で、前を歩いていたおじさんが、抱えていた紙袋から封筒のようなものを二三枚落とした。
おじさん、そのことに気がつかないようなので、コロ健、「おじさん!」とけっこう大きな声で呼び止めたのだが、気づいてくれない。
拾って渡そうと思い、少し戻って一枚拾ったところで顔を挙げたら、片手に同じような紙を持った仕事帰りらしいお嬢さんが、空いているほうの手を私の方に差し出して、私が拾った分を受け取りながら「どの方ですか?」と、尋ねてきた。

「あの人なんだけど。」と、そのおじさんのほうを見やったのだけど、おじさんばかりで、どのおじさんだかわからない。
一瞬、マズいと思ったが、おじさんの近くにいた人が私たちのことを知らせてくれ、そのお嬢さんがおじさんに落とし物を渡してくれた。
まあ、これにて、一件落着となった。



その後、その場を立ち去るうちに、笑いがこみ上げてきた。

「おじさん!」と大声で呼び止めたら、そちらの方は仕事帰りのおじさんだらけ、もちろんその親切なお嬢さんのような女性もいるが、どのひとがその「おじさん」だかわかるわけがない。
それに、そのおじさん、年の頃は私と同じアラフィフ。私は自分がおじさんだと頭では理解しているが、人に「おじさん」と呼ばれたと認識したことはない。そのおじさんだって、まさか自分がそう呼ばれたなどと思いもしないだろう。



さらに、そのお嬢さんからしてみれば「おじさん」が「おじさん」を呼び止めているなんて、おかしな状況だと思ったに違いないと思うと、自分で「しまった、俺がおじさんだったじゃねーか」と、改札口を通りすぎながら、苦笑いとともにつぶやいてしまった。

まったくもって、われながら間抜けなおじさんだった。


おじさーん!!
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みんなに助けてもらってるのに

2014年01月30日 | 生き方について考える
生きていて、忘れてしまいがちなことというのはたくさんある。

不肖コロ健、最近物忘れがひどくなってきて、少なくとも若いテレビタレントの名前は覚えられないし、中堅どころのベテラン俳優の名前も出てこない。これは、加齢による変化でありある程度は仕方の無いところもある。一方で、忘れてはいけないのに忘れてしまうことがある。自分の名前や家を忘れたら、これは病気だから、すぐに医者にかかる必要がある。

といったような記銘力に関することではなく、ここでいいたいのは、生きていく上で忘れてはいけないことのことであり、その一つの自分の周りの人への感謝の思いというものだ。



先日、仕事で臨床の先生達にいろいろ相談することがあった。どの先生も快く相談に乗ってくれて大変助かった。病理診断科内でも同僚達がみんなでああでもない、こうでもないといろいろな意見を出してくれて大いに助かった。この間、病理診断科では改装などがあり、そういったことは技師さんが引き受けてくれて、私はその仕事に集中することができた。

その仕事、私にとって、結構しんどいものだったのだけど、そんな周りの協力もあって、無事乗り切ることができた。

と、よかったのだけど、私にとって心残りのことがある。というのは、その間、仕事に夢中、というか気をとられていてその都度感謝の念を表すことが足りなかったような気がするのだ。

落ち着いて考えてみれば、みんなに助けてもらっているということなんて明らかなのに、そのことを忘れてしまう。

どうして、こうだらしがないのだろう、と思ってしまうのだが、気が付いたときは後の祭りである。
どうにかしないといけない。

もちろん家族にも
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医療を哲学的に考える(10)・・・患者の視点からの医療とは その1

2014年01月29日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
以前にも述べたことがある通り、患者とは体の状態がそれまでと異なる状態に陥ってしまった、すなわち病気になった人のうち、元に戻してほしいと望む人で、だいたいの人は病気になった場合、それを望む、すなわち患者になるわけだ。

なお、本人に考える力がある場合であることを前提とする。家族の問題をどうするかというのがあるが、医療に直接かかわる、すなわち”本人まで”と限定する。

患者という状態は誰にとってもあまり望ましい状態ではない。
しかしながら、人間、生きている限り、いつかは患者になるので、患者というものの存在を否定することはできないはずだ。

上記の文章を仮定として考え、このうちの3つの文言について考えてみる。
まず、病気になった人は元に戻してほしいと望むか、ということだが、だいたい人間皆そうだろうと思う。

恥ずかしながら、不肖コロ健、年末より歯医者にかかっている。それは虫歯が痛むからであって、痛みを取り除き、そのうち銀歯をかけてもらって以前のように食事をしたいと願うからだ。

痛いからといって、抜いて痛みを取り除いてもらえばそれで済むというわけではない。このように考える人はおそらく私だけではあるまい。
結構単純だが、医療とはそのような望みを解決するために生まれてきたものと考えることができる。




患者の視点からしてみると「医療とは患者の“治してほしい”という望みにこたえるためのもの」となる



この先収拾はつくのか
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そんなとこから見ていたの?・・失くし物がみつかった

2014年01月28日 | 日々思うこと、考えること
先日より行方不明だったペリカンの万年筆がみつかった。
医局の私のところだったのだが、机の上でもなく、床に落ちていたわけでもなかった。なんと、その間にあったのだ。昼休みに医局に戻って椅子に座ろうとしたとき、視界の片隅に光るものが見えた。

見れば私のペリカンの万年筆。

どういう落とし方をしたら、こんなところに納まることができるのだろう。くずかごの横、処分しようと床に置いておいた本の上。

これはもう、万年筆が自分で隠れていたとしか思えない。といいたくなるほど見事な場所だ。

これでは、机の上をいくら探しても出てこないし、床を隅から隅まで見渡しても出てこないのは当たり前だ。その中間に引っかかっていられては見つけようがない。

もっと驚くのは、医局の私のブースであれば、人が入ってくることはまずないので、誰かに拾われる危険性もない。



Facebookに一昨日の記事を載せたら、「いいね」を30以上いただいた。
中には心配してコメントをくださった方もいて、
「・・・先生の万年筆も焼き餅を焼いたのではありませんか。」というのがあった。
不肖コロ健、
「・・・万年筆はほかに父から譲ってもらったモンブランとパーカーも使っているのですが、それらの方を若干大事にしていたのがまずかったのかもしれませんね。」
とお返事させていただいた。

先週の水曜か木曜にいなくなり、週末にブログでもFacebookでも大騒ぎをしていたら、月曜になってパッと現れた。
それも、到底あり得ない場所で。作り話でもこんなところ、思いつかない。

ここからなら、私は目の前にいる。ずっと私がどんなふうに心配して、どうするかを見ていたのだろうか。

「万年筆も淋しがっているよ」というコメントもあったけれど、淋しかったのは私だけのようだ。


私は、万年筆に試されていたのかと思ってしまう。

手元に戻ってきたらネームを入れようかと思ったが、二度と落とすことはないし、この調子なら私から離れることもないのだろうから、その必要はあるまい。

コロ健、女性にモテなくなって久しいが、ペンにはモテるようだ。大切に使っていきたい。

おみくじには、失くし物 案ずるなすぐみつかる、とあったに違いない。

もう心配させないでね
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医療を哲学的に考える(9)・・・4つのカテゴリー

2014年01月27日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
医療に対してもつイメージをざっと挙げてみる。

すると、病院、体調、病気、手術、投薬、注射、点滴、入院、退院、医療費、患者、家族、医師、看護師、医療機器、薬、医学部、生、死、解剖、清潔、救い、喜び、悲しみ、赤(血液)、白(白衣)、黄(黄疸)、緑(手術着)、黒(壊死)、赤十字、済生会、ナショナルセンター、国境なき医師団、医療安全、大学、研究、論文、献血、臓器移植、脳死といったようにどんどんわいてくる。それぞれの言葉に関連付けたら、無限といっていいだろう。
この世のもので、医療と全く切り離して考えることのできるものというのは、どれほどあるのだろうか。ほとんどないのではないか。

これらのことをひとつひとつ吟味して、哲学的に検討するということは大変な困難を伴うこととなる。それに、上記のことにしてもはじめにあげた病院と一番最後の脳死は密接に関係しているし、献血と手術だって関連づけることができる。
どれもが、密接に関連し合っていて、組み合わせは無限にあって、区切りをつけることは不可能に近い。



ということで、僭越ながら不肖コロ健、自分なりに、大きな分類を作って、それぞれについて考えてみることにした。

おおざっぱに2つ、それをさらに2つに分け、4つの分野、すなわちカテゴリーに分けることにした。

まずは、ソフト面とハード面とに分け、これらのうち、ソフト面を患者と医療者、ハード面を医療経済(マクロ)と医療現場(ミクロ)に分ける。この順番で考えることにし、タイトルは次の4つ。

(1) 患者の視点からの医療とはなにか
(2) 医療者の視点からの医療とはなにか
(3) 医療経済とはなにか
(4) 医療現場とはなにか



まずは、患者の視点から医療とはなにか、を考えてみよう。


どこまで考えられるか
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失くし物 (なくしもの)

2014年01月26日 | 日々思うこと、考えること
このところ心が落ち着かない。これには理由がある。

万年筆を失くしてしまったのだ。
普段、よく使っているもので、気がついたら白衣の左胸のポケットから消えていた。
いったいどこにいってしまったのだろう。

顕微鏡の周りをはじめ、切り出し台の周り、解剖室も探した。医局の机の周りにも無いし、鞄を逆さまにひっくり返しても落ちてこない。
ノートの間にも挟まっていなかった。

現在、手詰まりの状態。
そして、ふとした時に思い出して心が騒ぐ。



おみくじには、待ち人、仕事、学業、転居などとともに失せ物についても書いてある。正月にひいた鶴岡八幡宮のおみくじは、吉だったが、失せ物については何と書いてあっただろうか。

2週間ほど前、解剖室のロッカーにクロスのボールペンが落ちているのを見つけた。幸い、それにはネームが入っていて、持ち主がわかった。ネームは、以前私の勤務先に一時期勤務していた女医さんのものだった。異動後の連絡先は知らなかったのだが、Facebookでは友達になっていたので、連絡を取ることができた。ある施設で仕事をしたときにいただいたものだったとのことだった。私の勤務先に来てすぐに失くしてしまい、悲しい思いをしていたそうで、手元に戻してあげることができてよかった。もう、あきらめていたとのことだった。

私の万年筆も誰かがみつけてくれるだろうか。でも、みつかったとしてもそれは彼女のように数年待ったあとだろうか。

私の万年筆には、ネームが入っていないので誰かが拾っても私の手元にくる可能性は低い。

それともやっぱり、私の散らかった机の上のどこかにかくれているのだろうか。


海の中から探し出すよりは
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医療を哲学的に考える(8)・・・医療者による”手助け”

2014年01月25日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
前回(「患者の願いはなにか」)で「医療者による”手助けということ”の意義について考えてみたい。」と書いたので、今回はその続き。

最近、がんをきらずに治す。ということが話題になっている。
慶応義塾大学の近藤誠先生がそのようなことを提唱して、最近では「医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法」と言うような本を出版されている。近藤先生の本を読む気はないし、それに対する反論についても読む気はない。要するに、これらの議論に参加する気はない。



医者が行っていることというのは「”直前の状態に戻すという”患者への手助け」にすぎないと考えたのだが、要するに怪我をして血がドクドク出ているのを止めるというようなことであり、そのような医療は必要なものといえる。だが、それ以上の医療は必要か、ということだ。

結論から言えば、放っておけば3ヶ月で死んでしまうとすれば、がんに対する治療も必要である。
それが医療というものである。
医療には患者と医療者が登場し、厚生行政を行う人そして医療現場がある。

それぞれの立場からいろいろな人がいろいろと勝手なことをいって、収拾がつかなくなっている。
そして、不肖コロ健、残念ながらどこから切り込んでいけばいいかよくわからなくなってしまっている。



でも、今年の目標の一つは、『医療を哲学的に考える』を完結させる。である。ここでくじけてはいけない。
そこで、次回から系統立てて考えてみることにする。
しばらくのあいだ、この話題を続けますが、よろしくお付き合いください。

心機一転
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メールの整理は仕事か否か

2014年01月24日 | 電脳化社会
一昔前(20世紀の終わりごろ)まで、メールというのは、゛携帯メール゛というような私的なものが主だったように思う。そして、公的な仕事は紙媒体、すなわち手紙(郵便物)のやり取りかせいぜいFAXまでで行っていたように思う。

ところが近年、メールは私的なツールから完全に仕事になくてはならないものとなってしまった。その理由の一つに、数年前にラインが登場したというのもあるかもしれないが、理由はさておき、メールを使った仕事について。
私の場合、ほとんどすべての業務連絡はメールで配信される。PCの前に座ったらまずはメールを開くことになる。少なくとも朝、昼、夕方、帰る前。学会関連の連絡、コンサルテーション、などなど、ここで私がどのようにメールを使っているかを挙げたところで別に珍しいものではないのでやめておこう。

いずれにせよ、メールは“整理”するものではなく、メールを使って“仕事をする”、ということになっている。
と、ここまで書いて、バカバカしくなってきた。

゛電脳化社会゛というのは、私なりに考えた(もちろん、他の人も使っている)言葉だが、結局、メールにせよラインにせよ人が電気信号によってどんどん密接につながってきているということで、現実との境界がわからなくなってきている。

メールの整理はすでにれっきとした仕事の一部だが、仕事というのはいったいどのような形になっていくのだろう。
医療だって、どこまで電脳化が進んでいくのかなんてわからない。

そして、そのことを考えると、私はその進歩にどこまでついていけるか心配になる。


PCは使えませんが
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何も出てこない日

2014年01月23日 | 日々思うこと、考えること
今日は何も考えが浮かばなかった。
考える時間が無いということもある。
まあ、こういう日もあるということだろう。



でも、こういう日が続くと困る。

逆にいうと、考える余裕がある、というのは素晴らしいことである。



明日は、なにかよい考えが浮かんでくるといいのだけど。


・・・・・・
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日の出の勢い

2014年01月22日 | 鎌倉暮らし
今朝、起きたら昨晩からの雨はやんでいて、とてもきれいな夜明けをみることができた。


日の出の勢い、という言葉があるけれど、日の出はあっという間、一瞬で終わってしまう。

「ああ、今日は晴れか」と、天気を確認して、顔でも洗いにいって、戻って窓の外を見たら、だいたいの場合、太陽は黄色く空高くにいる。

こういう風景を見ると、日の出というのがすべての始まりだとわかる。
このあと、太陽は大地を照らし、生命に息吹を吹き込む。
その瞬間を拝める、というのはけっこう幸せなことだ。



年をとると、朝、目覚めるのが早くなる。
目覚まし時計に合わせた時間よりも30分は早い。かといって、目覚まし時計をセットしない訳にもいかない。うっかり二度寝でもした日には目も当てられない状況になってしまう。
サーカディアンリズムのずれは、年をとるとともにひどくなる。
だけど、日の出をみると、わたしのそれはリセットされる。



もう少し辛抱すれば、春がやってくる。
明けない夜は無いし、終わらない冬は無い。
季節は巡り、新しいときが訪れる。


春よ来い
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寒中見舞い その2

2014年01月21日 | 日々思うこと、考えること
昨日(1月20日)の大寒を過ぎたら、なんだか少し気が楽になった。
日の出の時間は少し早く、日の入りの時間は少しずつ遅くなり、日は目に見えてのびてきた。



“寒中見舞い”というタイトルで結構書いているかと思ったら、前回は2008年1月8日だった。それ以来、ということで゛その2゛。
あの頃はまだ、もう少し歩く距離の短いルートで通っていた。川面からもやが立っていたなんて、これはこれで風情のある景色だった。




巷ではインフルエンザが流行っているようだ。ノロウイルスの被害もずいぶん出ているらしい。
皆さん、お疲れがでて、体調をくずしたりしませんよう十分気を付けてお過ごしください。




油断大敵
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こんなところにも歴史が隠れてた

2014年01月20日 | 鎌倉暮らし
先日、妻とフラットコーテッドレトリバーのナイトと散歩していたら、こんな境界票が道路に打ち込まれていたのを妻が発見した。

宮内庁と鎌倉市の境界。

場所は、後醍醐天皇の皇子、護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)の墓の下の道路。



親王の墓というのはいつからあるのか知らないが、鎌倉市が制定されるより前であることはたしかだろう。
なにせ、大塔宮(鎌倉宮)が明治初年にできているわけで、すでに皇室が管理していたと思われる。



境界票があるということは、現在は宮内庁が管理しているということだろう。
親王が暗殺されたのが、1300年代、それから700年、いまもって宮内庁が管理している。

鎌倉というのは、いたるところに歴史があるが、こんなところにもあったとは、あらためて感慨深かった。


やっぱり世界遺産?
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心配しなくても大丈夫よ、あちらから断ってくるから

2014年01月19日 | 妻の名言
研究会議とか共同研究、研究会の講師とか、不肖コロ健も50近くになってときどき声をかけていただく。
私のような未熟者にとっては、年に数度でもそれぞれに対する負荷は大変なものとなる。
あるとき、準備があまりにつらく、妻に、
「あー、もう大変。最初っから引き受けなけりゃー良かったんだ。
だいたい、僕にこんなに大変な仕事できるわけなかったんだよ。
”私には無理です”って、頼まれた時点で断れば良かった。」
などとこぼしたら。

妻は私に、
「(コロ)健ちゃん、心配しなくても大丈夫よ。あなたが断らなくっても、あちらから断ってくる、というか、声をかけてこなくなるから」
と言った。
うーん、たしかにそうだ。
だれも、頼んだところでやってくれそうもない人間に、仕事を頼むようなことはしない。
私のことを、やれると見込んでくれた人が仕事を頼んでくるのだ。



思い起こせば、いくつかの研究グループとは縁遠くなっている。すなわち、私はそこでは戦力外。ちゃんとみられている。
世の中シビアである。

頼んでいただいた仕事は、できる限りお受けして、全力で務める。
人様からの期待を裏切っては、人間生きていても面白くない。

できる限り頑張ろう
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大学入試センター試験の日のあられ

2014年01月18日 | 日々思うこと、考えること
今朝あられが降った。
今日と明日は、大学入試センター試験。昨年(2日目)はちょうど大寒だったが、暖かったらしい。だが、一昨年はやはりあられが降ったとある。一年で一番寒い季節である。



去年は、息子が受験していた。
昨晩、そのことで息子に「ねえ、去年のこと覚えている?」と聞かれた。

私「・・・」「なにかあったっけ?」

息子「えー、忘れちゃったの?全然眠れなかったじゃない。」

私「おおー、そうだった。ずいぶん緊張しちゃったんだよな。」

息子「そうだよ。いまでも、緊張してたの思い出すな。」

私「そうそう、でも二日目は大丈夫だったよね。自己採点がよかったの?」

息子「いや、そういうわけではないけど、なんか、落ち着いて受けることができたよ。」



時間はあっという間に過ぎていく。
最近、こういうふうに以前の記事を開くことが多い。

あれから、もう2年、700日以上生きながらえてきたのか、そしてその折々にはいろいろあり、いろいろな人の人生と触れ合ったり、離れたり、生きているというのはとても奥深く、不思議なことだ。

私の頃は共通一次といった。現役のときと一浪のとき、2度受けた。2度ともその結果が入試に役立つことは、残念ながらなかった。
徒労と言えば徒労。努力が足りなかったと言えばそれまで。
だけど、こうして思い出は残っている。


頑張れ 受験生
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Brainstorming (ブレインストーミング)

2014年01月17日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
先週、今週と2つの研究会議に参加した。
私のような未熟者が参加するなどというのはおこがましいのだが、声をかけていただいたからには馳せ参じない手はない。



いずれの会議も、わが国を代表する教授クラスの先生方が集まったのだが、ほとんどが臨床医。病理医はというと一つでは病理医二人、もう一つでは不肖コロ健一人であった。
こういう会議は出席者が虚心坦懐、真摯な態度でかつざっくばらんに様々な意見をたたかわせる。
高名な先生でも、内科の先生は外科とか産婦人科のことは知らないことはあるし、小児科の先生でも、専門が違えば詳しくないことはたくさんある。
そういった、様々な科の専門家が集まって、それなりにレベルの高いブレインストーミングをするわけだが、病理医であるコロ健が聞いているとなんだか物足りない。



証拠が乏しいのだ、血液検査や画像のデータはたくさん出てくるのだが、病理所見はあまり出てこない。
前々から、臨床系の学会に出ると病理の検討が少ないことでいじけていたのだが、実はあまりよくわからないから病理のことがディスカッションにならないのではないかと思えるようになった。
病理は組織、すなわち目に見えるものである。病理医はそれから所見をとり、解釈して言葉にして組織をとってきた臨床医に伝える。
だけど、せっかく苦労してとってきた組織の所見を臨床医は十分には理解できない。その仕事は主として病理医の仕事だから。

だから病理医の仕事は大変である。誰もが納得できる解釈をして、それはどこにでも通用しなくてはいけない。

ブレインストーミングに参加させてもらっただけで満足しているようではいけない。
私の進まなくてはならない道は、まだまだ長い。


脳も汗をかく
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