こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

人生に正解はない、でも不正解はある

2016年03月31日 | 生き方について考える

日々、いろいろな出来事がおこる。

国家間の戦争・紛争からテロに始まり、地域、会社、そして個人的にもさまざまなことがおこる。

そこには、多くの人がいて、それだけの人生がある。

いろいろな局面で、人は選択して生きていかなくてはならない。

人間の人生はその選択の積み重ねからなっていて、その時々の選択が正しいかどうかはわからない。

すなわち、人生に正解はない。

その時々の選択の結果などどうなるかわからないのだから。

けれども人生の選択に不正解はある。

正解がなければ、不正解もないはずだけど、人間にはしてはいけないことがある。

してはいけないこと、それが人生の不正解。

一言で言えば罪。

罪に対して、人は罰を受ける。

だが、人生の不正解は、不正解をした人が罰を受けるだけでは済まない。

罰を受けないような不正解もある。

世の中に最も多いのはこのような不正解行為。

そして、人は自分が人にどれだけ迷惑をかけ、どれだけ傷つけているかに気づく必要がある。

自分だけは正しいと思っている人がいる

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鎌倉もいよいよ春本番

2016年03月30日 | 鎌倉暮らし

我が家の春の訪れは、ミモザからはじまる。やがてサンシュユ、クリスマスローズが咲き始める。裏山のウグイス、シジュウカラの歌が始まる。

やがて、妻の育てたクレマチスが満開となる。ここのところしょっちゅう写真を載せているが、最初はほんの小さな苗だった。これを、隣家との間の柵に絡め、目が詰まっていまでは壁のようになっている。これがちょうど玄関の前にあたり、むせぶような甘い香りがする。

小さかったのは、このモミジもだった。裏山の倒木で一部折れてしまったが、元気に立ち直ってくれた。

モミジといえば紅葉だけど、春のこの時期の花も可憐で美しい。

鶴岡八幡宮の段葛は今日、修復が終わり歩けるようになった。八幡宮の桜は六分咲きぐらいだろうか。

週末、すなわち4月になったら満開だ。

朝、明るくなるのも早くなる。

4月からは仕事も忙しくなるだろうけど、早起きして、だいぶ元気になったナイトを連れて散歩に行こう。これから毎日が楽しみだ。

 明日は満開

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不倫について思うこと(下)

2016年03月29日 | 愛と女性とジェンダーと

物事には何事も終わりがあるとすれば、不倫にも終わりはある。不という字から始まるような言葉に、それほど幸せな終わりの形があるとは思えない。いずれにしても、自分たちが不倫(という不という字から始まる行い)をしていると認識した時点ですぐに終わらせるのがいいのではないか。そして、そうすることが、たとえかりそめであったにせよ、その愛が真実であったことの証しとなる。


不倫を終わらせるとき、たいていはどちらかが強い意志をもって、関係を終わらせることを宣言するしかない。互いに愛し合っているのに別れなくてはいけないということは、つらいことだが、始まりが始まりだけにしかたあるまい。一旦は終わりにして、頭を冷やして回りをみるのがいい。それでも、一緒になりたいならば社会的しがらみをすべて清算してからでも遅くはない。そうしている人はたくさん居る。


別れを切り出されて、狂ったようになったり、ストーカーのようなことをして、相手を苦しめるのは愛情表現としては格好よいものではない。二人が不倫という袋小路に入っていることを認識して、どちらか一方が踏ん切りをつけようとしているのを妨害していることになる。相手を愛しているのならば、相手の考えを尊重することも愛だ。そして、どのような形にせよ、遅かれ早かれ不倫は終わる。

 

こうして書いてみたけれど、不倫は不倫で愛の1つの表現型であり、他人がとやかく言うことではない。人のことを好きになったり、愛してしまったりするのは、止めようのないことだ。だけど、自分の心のおもむくままに行動することで、傷つく人もいるということを忘れてはいけない。それは、連れ合いであったり、不倫をしている相手であったり、家族であったりする。

まずは、自分を大事に思ってくれる人が、たくさんいるということを忘れずに生きていくということが、人間としての第一歩のように思う。

 袖振り合うも多生の縁か

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不倫について思うこと(中)

2016年03月28日 | 愛と女性とジェンダーと

互いに夢中になってしまってからしばらくの間、なにも怖いことはない。互いの都合のつくときにあって、逢瀬を楽しむ。大抵は既婚者の都合にあわせることになるのだろうが、とにかく会っている間は楽しいし、別れたあともいろいろな通信手段を講じてつながっていようとする。メールでもLINEでもなんでもいい、そうやって相手のことを常に確かめていたいと思うようになる。少しでも離れることにがまんができなくなると、朝帰り、旅行などということになってしまい、本人たちは大真面目なのだが、はたからみると滑稽な状態となる。


そりゃ、こうしているのは楽しいに違いない。自分の結婚生活というか家庭は連れ合いに任せ、自分は外に遊びに出ているだけだ。家庭がない方にしても魅力的な相手と濃密な時間を過ごすことができるのだから、これ以上の時間はない。でも、こういう時間はあっという間に過ぎる。そんな二人にとって、半年や一年は瞬く間だ。
未婚の者なら自分の若さが失われていくことに気づかず、既婚者は連れ合いの愛情が減っていくことに気づかない。そして二人して、自分たちのしていることは自分たち以外の誰も知らないことだと高をくくっている。

さらには、自分が一緒にいない時、相手が一緒にいる人に対して嫉妬の念も抱くようになる。自己矛盾が進み、心の制御が効かなくなってくる。


これが不倫の第二段階で、この先にそれほどすばらしい幸せは待ってくれてはいないと思う。

 ボクは復活

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不倫について思うこと(上)

2016年03月27日 | 愛と女性とジェンダーと

不倫ということはしてはいけない悪いことなのか、そもそも定義としてどういうことをいうのかも考えてみるとよくわからない。好き合った二人がすることなので他人がとやかく口出しすべきことではないということはわかっているが、これほどまでに有名人の不倫が連日のように報道されていると気になるし、一度は考えをまとめておこうと思う。

不倫というからにはどちらか一方が結婚していて、報道されているほとんどは男性が既婚だ。有名になるような人だから、さぞかし魅力的で、まわりにいる人も放ってはおけないのだろう。

その人が結婚していてもいなくても好きになってしまうのは仕方ない。


ほんの小さな恋心が、やがては収まりのつかない愛情へと発展し、交際が始まる。いつでも別れることができると思ってたのに、いつの間にか四六時中、相手のことばかり考えている。

始まりがどうであっても、これが愛だと思うようになり、連れ合いや家族への愛情もあるのにそれをおろそかにするようになる。

そんなところが不倫の第一段階だろうか。

 もう戻れない

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ナイト、重体

2016年03月26日 | 犬との暮らし

我が家のフラットコーテッドレトリバーのナイト、二、三日前から元気が無い。少し変だと思っていたら、今朝、マルチーズのコロがずいぶん吠えて、私たちを起こした。ついていったら、ナイトがもどしていた。

大慌てでかかりつけの犬猫病院に連れて行ったのだが、検査をしても原因ははっきりせず。
吐き止めをいただいて帰ってきた。
帰ってきてからも元気はなくて、食欲もない。コロ健、生き物たるもの、食べられなくなったら深刻だと考えているので、素人目にもナイトは重体ということになる。

風邪をひいた程度であって、また元気になってほしいのだが。

 まだ5歳

 

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通う道にある神社

2016年03月25日 | 通勤・交通・旅行

せめてもの健康維持のためと思って、通勤経路を変え朝晩40分歩くようになってから6年半。ずいぶん歩いたものだ。

およそ3.5キロ。駅から病院までのルートはいくつかあって、この神社はその一つの途上にある。この神社のことはこれまでにも、何度か書いてきた。

朝、ミツマタの横の石段を上がって一息つくと、私と同い年、昭和38年生まれの石灯籠が迎えてくれる。その石灯籠も先の大震災ではばったりと倒れてしまった(『病理医の仕事』2011年3月14日)。いまでは、すっかり直してあるけれどつなぎ目をみるとあの日を思い出す。

この神社を通るときは、もちろんお参りする。

二拝二拍手一拝

お祈りすることは、その都度いろいろあった。

家族のことがあれば、自分のこと。

何より願ってきたのは、自分がよりよい人間になりたいということだった。“よい人間”というものがはたしてどんなものか、人それぞれのものなので、定義することは難しい。

ただ、よい人間になるというのはなかなか難しく、未だにそうなれたという自信はない。

 

 これからもよろしくお願いします

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荷物整理をしていたら出て来た写真

2016年03月24日 | 電脳化社会

片付けものをしていると、思いがけず昔の写真とか手紙が出てくることがある。

こういうものをみると、若い時のすばらしく楽しかった思い出がよみがえってくると同時に、旧悪、というほどではないけれど、ほろ苦い思い出もおまけについていたりする。

流れゆく時間とともに、思い出は薄れていくものだけど、写真はそれをとどめてくれる。

もちろん、私の世代はまだカラープリントの時代。こどもたちも小さい頃のものはそうだ。それが今の時代はすべてデジタルデータ。未来永劫色褪せることのない鮮明な画像が残る。これがいいのかどうかわからない。人それぞれだろう。

ただ、いつでも見ることができると思うと、いつまでたっても希少感が出てこないような気もする。

 

このブログには人物の写真は極力載せないようにしているが、それでも記事と写真を見れば自分がそのときなにをしていたかを思い出す。これはこれでなかなかいい。

 かくして片付けのスピードはがた落ち

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親切な花

2016年03月23日 | 鎌倉暮らし

鶴岡八幡宮の段葛の桜並木の花もほころび始めた。植えたばかりだからか咲いているのとそうでもないのとに差がある。

それでも、よく咲いてくれたものだ、この先の満開が待ち遠しい。

段葛の桜はもちろんいいのだが、うちの近くのゴミ集積所にもつい先日、親切な花が植えられた。ショカッサイとハナニラ。

集積所のところに、少しだけ地面があってご近所の人が植えてくれたのだ。こうしておけば、ここを汚す人も減るだろうか。

優しいというか、気が利くというか、こういう人が世の中にはいるものだ。

 雑草にまぎれないでくれるといいが

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私の人生にとってたいせつなもの

2016年03月22日 | 家族のこと

疲れきってしまい、これではいけないと思って、家族と一緒にいる時間をつくった。その結果、家族への愛しさを感じることとなった。

オンとオフ。仕事をオンとすれば、それ以外の時間はオフか。なんだか、これまでの人生、オンオンオンできて、家族のことを忘れて生きてきた気がする。

そして、自分だけ家族から浮いていると思うようになっていた。

他人と自分を比較するというばかばかしいことも、これまでの人生の中で何度も繰り返してきた。自分よりも仕事をしている人、自分よりも何かが上手な人、自分よりも遊んでいる人、自分よりも権力を持っている人、そんな人たちに対してその都度劣等感を持ったり、羨ましいと思ったりしてきた。

自分に家族がいて、仲良く暮らしていられたらそれだけで十分すぎるほど幸せだということに今まで気がつかなかいできた。

いろいろあって、とても疲れてしまったけど、いろいろ考えて、いや、何も考えないで過ごしてみて、私にとって大切なものが何かということがわかった。

そのようなことを通して、人間として社会にどうやって貢献していくべきなのかもわかったような気もしている。

 私にできることは?

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同期会の準備

2016年03月21日 | 日々思うこと、考えること

先日、高校の同期会の準備の集まりをするということで横浜まで出かけた。前回開いた同窓会は2010年(『大同窓会 なんと、100人超!』)。今回は入学40周年記念。とのこと。途中マイナーな集まり(『男子校の同窓会』)を2013年に1度行っているのだが、この時は母校の校舎を使わなかったので、数に入れなくていいらしい。とにかく同期会をやりたい奴はどうしてもやりたいらしい。そんなに頻繁にやらなくてもいいだろうと言っても、「次やるのは還暦だぜ」と言われると、確かにそうかともおもう。というようなわけで、「中学入学40年記念同期会」を開くことになった。これは私の出身校が、高校からの募集のない中高一貫校だからできるのだろう。

同窓会をやりたがる人間が多いのがいいのか悪いのかわらかないが、こういうことは誰かが言い出してやらないと絶対にできない。こういう話を誰かにすると、「みなさん仲が良いのですね。」などと言われるけど、それよりは音頭取りをしてくれる奴がいるから開催できているのはあきらかだ。高三の時の体育祭で優勝した色の団長だったということで、死ぬまで世話人代表をやれと言われている。この間の会では誰かほかにやってくれる奴はいないか、俺が世話人なんていやな人もいるだろうし、と言って誰かに代わってくれるように頼んだのだが、お前のこと嫌いな奴はいないんじゃないか、などとおだてられて結局今回も、案内状は世話人代表として、コロ健の名前でだすことになった。

 いつの間にやらお彼岸で

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病理に関する誤解(7/7)おわりに

2016年03月20日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

病理に関する誤解のいくつかについて、申し開きをさせていただいた。

このようなことになるのは、何より病理医が少ないことが原因であることは間違いない。

このブログを読んでいただいた方や、テレビドラマをご覧いただいた方は病理医という存在を少し身近に感じてくださったかもしれない。

少しずつでも、臨床現場における病理の知名度が上がったら、もう少し病理医も増えて行くように思う。そして、それは日本の国民の幸福につながって行くことだと確信している。

 

明日からいつも通りにできるかな

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病理は治療方針に関わらない・・・病理に関する誤解(5/7)

2016年03月19日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

この言い方は、根本的に間違っている。なぜかというと、病理診断があってはじめて病気が確定されて、その後の治療方針が決定されるからだ。

病変が良性腫瘍なら切除だけだが、悪性腫瘍なら切除に化学療法を加えたりする。このような治療方針の決定には、臨床医だけでなく、カンファレンス等を通じて、病理医や放射線科医が加わって行なう。

今はコンパニオン診断という、腫瘍の性質を診断するようなことも行なわれる。そういった診断についても病理医が決定する。

たいていの病変はすでに治療方法が確立されているので、病理医が“わざわざ”参加しないでも治療を行なうことができるので、いないだけだ。

 治療方針決定の根幹は病理診断

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病理は患者に接しない・・・病理に関する誤解(6/7)

2016年03月18日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

ご遺体ならば解剖でいつも接している、というのは品の悪い言い方だけど、病理医も最近は患者さんやその家族と接する機会が増えてきた。病理診断科が標榜科となって病理外来を開設するようになったからだ。 この標榜科というのは、その病院にある診療科を外部に向けて知らせてよい科のことで、内科、小児科、耳鼻科、眼科とかいったようなものだ。

それまでは院内表示までだったのが平成20年に、病理診断科も診療標榜科の1つとなった。

院内で患者さんのため、臨床医のため、病院のために仕事をしているのに存在が消されていたのが、“病理診断科”と、その病院の看板に名前が出るようになったのだから、病理医自身のアイデンティティーもずいぶん確かなものとなった。 そうなると、病理医がいるのなら、直接その人から話を聞こうという人もいる。そのような方のために、病理診断科でも外来を開いて、われわれの下した診断を直接説明するようになった。

私も含め、患者さんに外来で説明する病理医は少しずつ増えて来ている。

 案外、おしゃべりも多かったりして

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病理は定時に帰れる・・・病理に関する誤解(4/7)

2016年03月18日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

べつに長時間労働がいいというわけではない。長時間労働そのものが能力の低さを示しているとも言われるほどだから、定時出勤退勤があるべき姿だろう。 以前、臨床医に私が鎌倉から都内へと通っていることを話したら、「病理だからそんなことか出来るんだよ」と言われたことがある。

どうして、こういう言い方ができるのだろうと思った。

たしかに、目の前に瀕死の患者さんがいるわけではない。だが、外科の手術のための迅速診断の待機や、時間外の病理解剖も少なくない。

そもそも、あんたら人数が多いだろう。

実際のところ、多くの病院が一人病理医の状況に喘いでいる。そのようななかで、サービス残業を繰り返していては病理医はますます疲弊する。

臨床の科でも一人医長(科の医者が医長一人)のところは、定時を守っている人が多いし、当直はしない。

 無理は利きません

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