こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

今年はどんな年だった?来年はどんな年になるかな?

2018年12月31日 | 日々思うこと、考えること

僕が庭掃除をしに外に出たら、お向かいのおばさんと出くわした。「こんにちは。やっと、暮れらしいお天気になりましたね。」と言われたので、「そうですね、お天気はいいけど、寒くて。」と僕は応えた。少し日が傾いた時間で、ちょっと雲が出ていた。そして弱い北風が吹いていた。
もう、大晦日。この正月休みこそ、積み残しの仕事をしようとあれこれ持ち帰ったのだけど、どれにも手を出していない。毎日、ほんの1時間かそこいらやったら、それだけでずいぶん進むはずなのだけど、やろうという気力がなかなか湧いてこない。僕にその理由はわからないけれど、やっぱり年のせいなのか、それとも慣れのせいなのか。でも、慣れて手を抜いたりするようではやっぱり来年もイマイチな生き方になってしまう。

今年はどんな一年だっただろう。新しい大学病院に移っての二年目で、大学教員としての仕事にも少し慣れてきたが、いろんなことも見えてきた、そんな年だった。でも、そんなことより何より僕にとって良かったのは、人間関係のストレスがほとんど無かったということだった。もちろんそれは同僚らが気を使ってくれたからに他ならず僕の努力なんてほんの少しだけだったに違いない。それでも周囲の人がそんな風に接してくれるだけのことはできてきいたのだろう。

さて、来年、僕にはどんなことが起こるだろう?元号も変わることだし。そう考えると年甲斐もなく楽しみになる。来年は今年より少しはいい人間になりたいけど、そんなに簡単に変わることもできない。結局のところ、なるようにしかならないのだけど、そんな中でも少しはいい方に向くように努力は惜しまないでやっていきたい。

良いお年をお迎えください

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今年のボツ記事 2018

2018年12月30日 | あの頃のこと…思い出話

さて、恒例の今年のボツ記事、今年はそんなにないと思っていたけど、案外ありました。

並びは、古い順ですが、シリーズ物(くずれ)など、書いた日が前後しているものがあるので日付はつけません。どれも出来損ないで申し訳ありませんが、私の備忘録のようなもので。

『』内がタイトル、続く文章が記事(もちろん書きかけ)。・・・以下は一言コメント。


『わたしはしあわせ』・・・本記事『分相応であるべし』と比べると、こっちの方がお気楽でよかったかな。

新年明けましておめでとうございます。
 今年もこんな気持ちでいられたら、よろしくお願いします!

 それにしてもブログ主、不肖コロ健、しあわせです。
 こんなにたくさんの読者の方に支えていただき、かれこれ10年

『ネガティヴ・ラヴ』・・・ホント、出だしは傑作だったんだけど。小説書くのって、難しい。

「先生さ、自分の年、考えたことあるの?そこそこイケメンのつもりかもしれないけど、どうやったってこんな若い子の恋愛対象になれるわけないじゃない。地位とか金とかに寄ってきているだけで、先生が自分で考えるドキドキするような恋なんて今さらできないんだからさ。こんなところでいつまでもクダ巻いてないで、早く帰って奥さんと昔話でもした方がいいよ。」
 こんな出だしの恋愛小説を書こうと思ったのだけどやめた。残念ながらこういう状況に対して気持ちが動くことがなくなっているためで、日常生活では多少の下心のようなものを感じることはあるけど、それを増幅させての不倫小説なんかはなかなか書けない。

『こんな雪の中お仕事ありがとうございます』・・・これ、頑張るべきだったのでは。

予想通り、関東地方は大雪に見舞われ、私も帰宅難民になりかけたけど、なんとか家に帰りつくことができた。

首都圏の交通が雪に弱いというけれど、これほどの過密ダイヤにもかかわらず、30分程度の遅れで運行しているなんて、驚異的。鉄道各社の努力に感謝します。道路を走る車は少ないけれど、路線バスはがんばって走っている。ありがたいことだ。

便利さを当たり前のように享受しているけれど、それぞれの人が仕事をしてくれるから私たちはやっていられる。

『他人の足を引っ張る』

他山の石として自ら気をつけなくてはいけないことはたくさんある。

最近気をつけているのが、卑怯な手段で他人の足を引っ張ること。ライバル、競合者というのはいつも突然に出現する。商売をしている人ならそんなことしょっちゅうだろうけど、医者の世界でもしばしばある。もし私がそんなことに巻き込まれたとしても、インチキなどしないで対抗しようと思う。もちろん、斬新な発想、とか仕事上の工夫は尽くさないといけない。

『ちゃんと働いたらそれだけのことを』

ブラック労働が問題となって久しい。
 医療の現場は、残業代度外視の医療従事者の働きが半分くらいを占めてきたが、労働環境の見直しが始まり、大混乱をきたしている。大学病院、名門病院に労基署が指導に入り、残業代の支払いで経営危機に瀕しているところもあるらしい。

『日本の愛国心のありかた』・・・日本人としての誇りが揺らいでいる。

昨日、ロイアルウエディングとのことでイギリスのハリー王子の結婚式が中継されていた。その中でコモンウェルスという言葉があるしばしばでてきた。
 これは言わずと知れた英連邦、すなわち旧植民地に発するイギリスの富の源泉のことだ。何ということはない、数百年前から、イギリスは世界を征服し、英語は共通の言語となっている。その、コモンウェルスを愛国心の象徴としている。
 第二次世界大戦後の枠組みは、戦勝国が作ったものであり、負けた日本はこの枠組みの中ではいつまでたっても敗戦国だ。かといって、非核保有国で新しい国際的な連合体を作ったところで、核保有国によってバラバラにされて終わりだろう。
 戦勝国側はナチスドイツ、悪魔のような日帝から世界を救ったという自負があるから、堂々としているし、それへの誇りが愛国心日本繋がっている。
 一方で、敗戦国である日本はどんな愛国心を持ったらいいのだろう。
 幸い、昔からの日本の国土はほぼ残されて、分断もされなかった。そうした日本への愛情を、私たちはどう持っているだろうか。

『やってはいけないことをやってしまったら』・・・政治家が責任を取らなくなって久しい。

この国、日本は法治国家で、民主的な方法で選ばれた政治家が公明正大な政治を行っていることになっている。だから、政治家は不公平なことをしてはいけない。不公平なことは政治家としては犯罪なのだ。

 犯罪者は犯罪を犯したらその罪を認めて償わなくてはいけない。そしてその場からは退場する。

『母は強くて頼りになる、はずなのに』・・・お母さんはどうして止めることができなかったのか。

5歳の女の子が継父に虐待され、死に至ったという痛ましいニュースが流れている。


『私のプレゼンテーション考(1)私は何を伝えたいのか?』・・・このシリーズは復活させたいが。

大山鳴動鼠一匹となってしまった、「私のプレゼンテーション考」改めて書いてみようと思う。

『私のプレゼンテーション考(2)テーマと内容』

昨日、”何を伝えたいか?”ということについて考えたのだけど、その”何”とはすなわちテーマだ。

『私のプレゼンテーション考(3)発表内容に関する制限』

”発表内容は先生のご判断に任せます”と言われても、大まかなテーマが決まっている場合、判断なんてそうそう簡単にはできない。

『私のプレゼンテーション考(4)プレゼンの技術』

手が震えるかもしれないから、レーザーポインターは両手でしっかり握る。とは、むちゃくちゃ厳しかった指導教授の言葉。

発表はハンズフリーで、は発表をイロハから直接指導してくれた先輩の言葉。

両方とも、しっかりいまでも覚えていて、体に染み付いている。

『私のプレゼンテーション考(4)プレゼンの技術』

手が震えるかもしれないから、レーザーポインターは両手でしっかり握る。とは、むちゃくちゃ厳しかった指導教授の言葉。

発表はハンズフリーで、は発表をイロハから直接指導してくれた先輩の言葉。

両方とも、しっかりいまでも覚えていて、体に染み付いている。

『私のプレゼンテーション考(5)聴衆と幸せな時間を共有する』

講演では会場にいる聴衆とともに、その幸せな時間を共有する。

『許せない心』・・・テーマが大きくなりすぎるとまとめられなくなってしまうう。

人を許す、許さない、というのは結局は自分の心一つだ。
 無差別テロは世界中で起きている。
 オウム真理教事件、秋葉原通り魔、無差別銃撃、自動車テロ。規模の大小、関わった人間の数はまちまちでも、結局はそれぞれの人の身勝手な思い込みが、それまで何の関係もなかった無辜の人々の命を奪う。

『ナンパをしている若者を見て思うナンパのテクニック』・・・他人をネタにするのは、よほどのことがないと文章にできない。

とある駅前で、友人と待ち合わせて立っていたら、真横で大学生ぐらいの男が高校生ぐらいの女の子を口説いている。

二人がどのような状況でその場に連れ添っていることになったのかはわからないけど、わかるのはその男がその女の子を”お持ち帰り”しようとしてるということだった。なにせ、真横なので口説き文句も聞こえてくる。

男「ウチに来たら、親もいるから安心しなよ」女の子「・・・」男「今日はもう遅いからさ、ウチに来て寝てって、それで明日の朝早く帰ったりいいじゃない」あれこれ考えたのだろうか、女の子がやがて家に電話しているが、「ママ、出ないなぁ」とかいっている。男の方はあとひと押しということであれこれ一緒に帰ってくれるよう懇願している。

大したものだ。人を見かけで判断してはいけないけれど、その男それほどパッとした風貌ではないしかといって遊び人風というわけでもない。それでもそうやって”お持ち帰りしたい”という一念でそこまでやるかという感じだ。そういえば、私が浪人している時に、憧れていた女の子をやすやすと持っていった男がいたが、ちょうどそれを思い出した。彼女のことが気に入っていると言ったら、その1週間後には肩に手を回して私の前を歩いていた。そういう、天性のナンパ野郎、というのはどこにでもいて、この私の横で必死に口説いている男もその口なんだろう。

女性は、男性とそういう関係になる時には”なんらかの理由が必要”だというけれど、この男はそれを実践している。

『次のミッション』

一昨日のプレゼンはまあまあよかった。一度に二つも三つもの仕事はできないので、結局、次の仕事はこれからということになる。

『PPD(Pack per Day)というよりは』

タバコの数え方としてPPDという方法があることを話題にしたことがあった(PPDはタバコの数え方 2017年07月27日)。

『”人生”という大きくて長いトンネルの中で(4)魂を感じ、コントロールする』・・・このテーマも大きくなりなりすぎた。

”人生”が大きくて長い真っ暗闇のトンネルのようなものであることを思いついてからというもの、そのことの意味をよく考える。とくに、心に乱れを感じたとき、目をつぶって、自分はトンネルの中にいるだけなのだと思い出す。でも、ここでいつもそう思うことの邪魔をしてくるのが、肉体だ。私が魂を感じ、コントロールすることをまるで邪魔するかのように、刺激を送り込んでくる。それは、匂いであったり、音であったり、触覚であったりする。さらには、痛み、空腹感のみならず様々な精神的苦痛といったようなものも、”気を散らす”ように襲ってくる。

心頭を滅却すれば火もまた涼し、という言葉がある。極端な暑さや寒さは別だが、それ以外の大小の刺激ですら、なかなか除外することは難しい。逆に肉体と魂を分離するということにこだわる必要なんて無いという考え方もある。心休まる音楽と香りに身を委ねて全てが渾然一体となった中で過ごすのも良い。それはそれでとてもいいことだけど、自分自身の魂のありか、というか存在が純化されない危険がある。自分の世界がその中で閉じてしまって、暗闇の中の自分周囲が照らし出されるだけで、もっと広い世界に心が広がっていかない。

自分の知覚を自分の存在する周囲に限ることなく、もっと広くしなくてはいけない。世界は広く、果てしないということを意識しなくては、魂を解放することはできない。自分の魂、感覚を内向きのものにしてしまわないためにも外部からの刺激を切り分ける術を身につけたい。その一つが瞑想だろう。瞑想といっても、それほど難しいものではなくて、静かな場所と椅子があればできる。そういうところで、目を閉じて鼻の頭あたりを見つめて、自分の心の中にある魂を感じる。寝てはいけない。

そうするうちに、自分が大きく長いトンネルの中にいるということが感じられるようになる。やがてはその外により広い世界があることを感じることができるようになるかも知れない。

『”人生”という大きくて長いトンネルの中で(5)肉体を解放するには』

魂を感じ、コントロールし、やがて解放することができても、でも肉体はどうやって解放したらいいか?

芸術とかスポーツとかさらにはゲーム、賭博は魂と肉体を結びつけてします。

『”人生”という大きくて長いトンネルの中で(6)肉体は消滅に、魂は解放へ』・・・でも、なんとかまとめないと。

矛盾した関係

『麺類の食し方』

私は蕎麦が好きだ。学生の頃はうどんが好きだったが、ここ20年ほどは8対2ぐらいで蕎麦を食べる。お腹の調子が今ひとつの時は消化の良いうどんを食べる。だから、月曜日には妻にうどんを作ってもらって食べた。

『国際学会に行ける人、行けない人、行かない人。』・・・ひがみっぽい文章もダメですね。

今年の国際病理アカデミー年次総会が中東のヨルダンで開催されている。日本からも多くの病理医が参加していて、早くもFacebookに死海の写真をアップしている人もいる。どうやって休みをとって、渡航費を捻出しているのか教えて欲しいが、先生方それぞれなのだろう。残念ながら、私の場合は貧乏暇なし、とても1週間も仕事に穴をあけることなんてできない。それに海外に一人で行ってもそう楽しくない。

国際学会では、公用語が英語で、英語がそれほど流暢でない私はつい二の足を踏んでしまう。学会場では英語が上手でないことは、ディスカッション能力がかけているということで、よほど良い論文でもを持っていなければ、英語が下手な人は下に見られてしまう。語学力でしたに見られるというのもなんだか悔しいので呼ばれなければ行かない。

何しに行くのだろう?と思える人もいる。とくにこれといった研究をしているわけではないのだけど、とにかく勉強目的で行く人なんて、すごい。

私は、国際学会に行こうと思えば行けるけど、諸般の事情で行けないというか行かない人だ。国際学会に行けないのならば、せめて論文を書いたらいいのだけど、ここのところ書いていないというのは良くない。全部ただの僻みになってしまうので、気をつけたい。

『スイカもパスモもイコカも対象に?』・・・消費税、どうなるんだろう。大混乱じゃない。

消費税増税に際して、軽減税率が話題となっている。

『笑顔はなぜすぐ忘れてしまうのか』・・・いつも笑顔で。

油断すると、すぐ仏頂面。
 誰かが、ちょっと気にさわることをすると、きつい目で睨む。私はなんてつまらない人間なんだろう。

(ありがとう 平成 @海ほたる)

『自分の歳を考えよう』

人が誰かと接する時、年齢差が問題となることは少なくない。

スポーツとか将棋や囲碁のようなゲームならば同じルール内で戦うので、年齢差はほぼ関係ない。でも、一般社会では”年齢”を相手に対して優位に立つために利用する人は少なくない。

私が小学生の頃、担任の先生は30代、40代、50代といたように思うが、それぞれ同じようなおじさんおばさんだった。大人なんて、子供の目から見たらそうだ。中学、高校あたりになると、若い先生、年配の先生の違いぐらいは認識できるようになってくるけど、やっぱりみんな大人だ。結局、いつまで経っても年上の人は、みんなある程度年配者であり、自分から見たら”ずっと”年上の存在だ。

でも、自分の立ち位置はあまり変わっていない。いつも自分が一番若くて、自分より年上の存在が重しというかプレッシャーになってある。

『一度死んだと思えば』・・・交通事故は怖い。

私は一度死んだ。
 そう考えることにした。
 奇しくも55歳の誕生日に私は一度死んだのだ。
 だからといって、また死にたいとは思えない。少なくとも(あの時のように)意味もなく死ぬのは遠慮したい。

『たとえ、週一だとしても』

ここのところ、スポーツジムには週に1度程度しか行けていない。

『タバコの匂いはどこからくる?』

スポーツジムのあるエリアでは

いつか書こうと思っていただけなんだけど

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お墓参り、初海ほたる

2018年12月29日 | 日々思うこと、考えること

その、娘に期待してると言ってくれた親戚のおばさんの体調がすぐれず、暮れのお墓掃除に行けないということで、妻と私が代わりに行ってあげることにした。私も不義理をしていて、かれこれ、7、8年行っていなかったのでちょうどよかった。お墓は千葉県にあり、いつもだったら首都高湾岸線からいくのだけど、ナビの渋滞状況をみると東京湾アクアラインがすいている。いつも横目にしながら通り過ぎていたのだけど海ほたるには妻も私も行ったことがない。ちょうどいい機会だから海ほたる経由はどうかと提案したら妻も喜んでくれた。1997年の開業から20年目にして初めての海ほたる。

西には富士山がよく見え、東にはスカイツリーと筑波山が見える。いざ来てみたらこんなものかという程度の景色だったけど、一度は来てみないとそうも言えない。ほとんどの人は川崎方向に引き返してしまうようで、千葉方向に行くのは木更津にあるアウトレットモールに行くバスぐらいで道はガラガラ。お墓のあるお寺に着くまでは1時間ほど遠回りした計算となった。

良い天気で、お墓掃除もはかどり、心を込めてお参りした。

まっすぐ帰るのももったいなかったので、寄り道したらあっという間に暗くなっていた。

明日は家掃除

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残念、仕事納まらず

2018年12月28日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

仕事納めの今日、診断業務のルーチンはほぼ終えることができた。

でも、年明けの研究会の準備ができていない。

さすがにこれはまずい。

ということで、終業後、顕微鏡写真を2時間ほどかけて撮った。

病理のプレゼンは組織の顕微鏡写真が99%を占める。

それ以外?それ以外は病理医以外がやればいいこと。

というと言い過ぎだけど、上手に撮れた写真を見せてこそ病理医。

とにかく、この休み中に今夜撮った写真を並べるだけはしてみたい。

でも、年賀状もまだだし。

こまった。

とにかく休み

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なにが平等か

2018年12月27日 | 日々思うこと、考えること

昨夜、妻と息子と私で鍋を囲んでいろいろ話していたら、話題が留学中の娘のことになった。親戚のおばさんが、世界には女性に教育を受けさせないという国や地域がたくさんあるけど、娘には色々な国に行ってそんな絶望的な女性差別の現状を見聞きして、女性が正当な教育を受けることができるような社会を実現する女性になってほしい、と妻に言ったそうだ。

私は、これまでにも何度も書いてきたが、(男性の持っている)アドバンテージを放棄する必要なんてない、というこのブログへのコメント(「これでは女性はつらかろう2014年09月25日 へのコメント)を思い出し、「世界中には、いや、日本ですら同じように考えている人というのはいくらでもいるからね。(世界中の女性に教育を受けさせるようにするのは)難しいと思うよ。(ノーベル平和賞を受賞した)マララさんだって、いまだに命を狙われているわけだし。」

妻が「せめて(男女問わず)すべての子どもが同じ教育を受けることができるようになってほしいというだけなんだけど、難しいわよね。」と言ったら、息子が「それって、平等って何かってことで、実現するのは簡単なことではないと思うよ。そもそも試験による大学入試の選抜だって平等性ということを考えたら適切であるかなんてわからないでしょ。それに、(高等)教育を受ける能力の有無だって差別になると思うよ。」と返した。「医学部入試(男女差別、年齢差別)でのこともいい例だよね」と私。

その後も3人で、男女間の問題だけではなく、障害のある人はどうしたら平等な立場になれるか、さらには国境のこと、言語のこと、最終的には地球外生命がやってきたら地球人として平等になるとかいうことをしゃべっていた。

そろそろお腹がいっぱいになってきたあたりで、息子が「すべての人が同じ遺伝子を持つようになったら、平等といえるかも」。私が「ああ、そうかスターウォーズ(のクローン・トルーパー)ね。」「そう、でもね、それでなんらかのウイルスでみんな一斉にやられちゃうの」「なるほど、クローンのおおもとの遺伝子に致死性となる遺伝子配列を入れておいて、その配列を特異的に攻撃するウイルスを用意しておけばいいのか」。ということで、この話は終わった。

逆に言えば、真の平等の実現とは不可能だということになる。それでも、今の世の中のように一部の人が富を独占している状況というのは異常だ。政治家には多くの人が幸せになる道というものを探してほしいのだけど、2世3世議員が幅をきかせる世の中、それは不可能なようで、暗い気持ちになる。

どんな人が応援してるのだろう

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副流煙というタバコの罠

2018年12月26日 | いじめ飲酒とタバコとギャンブル

私は40代半ばまでニコチン中毒症で、毎日朝から晩まで常習的に喫煙していた。中毒からの離脱は自力でできたけど、結構時間はかかったし、いろいろ悩み、苦労もした。なんとかタバコ無しでも生きていられるということを理解し、この10年は吸っていない。最近タバコの煙、すなわち副流煙のことが心配になってきた。こちらにもニコチン、タール、一酸化炭素ほか多数の発がん物質が含まれている。何より心配なのは副流煙のせいでニコチン中毒が生じてしまうかもしれないということ。そう、副流煙にはタバコの罠が仕掛けられているということに気がついたのだ。

タバコを常習的に吸っている人から吐き出される副流煙中のニコチンを常習的に吸わされていたら、吸わされるほうもニコチンを吸収してしまうということになる。主流煙(喫煙者が吸う煙)の3倍近くのニコチンが副流煙に含まれているそうだ。そうすれば、当然のことながらニコチン中毒に陥る可能性が高い。

「俺も吸ってみようかな?」そんな感じで、喫煙者の輪は広がっていく。もしかしたら、かつての私の友人で、私がきっかけとなった人がいるかもしれないと思うと、心が痛む。もしかすると、駅のホームで毎朝私の吐き出した煙をすわされていた人の中にそういう人がいたかもしれない。

「親父が吸ってるタバコ、面白そうだな」ということで、軽くニコチン中毒になっている中坊が吸う最初の1本は親父のタバコで、それが見つかって親父に殴られる。考えてみると無茶苦茶な話だが、昔は副流煙なんて気にもしていなかった。子供のいるところで、親は絶対にタバコを吸ってはいけない。時々、タバコの煙を子供に吹きかけている親がいるが、あれは虐待だ。

「あなたの吸っているタバコ、私も吸ってみたいな」私の周りの女性喫煙者がタバコを始めたきっかけは、付き合っている喫煙者の男性のタバコが最初だったという人が少なくない。そういう女性にとって、喫煙はかつて付き合っていた男のニコチン中毒という影をニコチン中毒(=喫煙者)という形で引きずっているということになる。物理的に別れていても、ニコチン中毒という形で昔の男が潜んでいるということになる。そんなことを問いただしても認める女性などほとんどいないだろうから、有無を言わさずやめてもらうように頼むか、そのことが我慢できなけれが別れたほうがいい。

友人、親族、恋人、なんでもいいけど、そういう身近な人が振りまく副流煙の中のニコチンにも中毒症状を発症するメカニズムが隠されている。

私は今ではニコチン中毒からはほぼ離脱できている、というかニコチンがなくても生きていられるが、一体いつどこでタバコに手を出してしまうことになるかいつも不安だ。一緒に飲んでいる人が喫煙者であったりすると、その人のタバコをもらいたくなる気持ちが起こらないわけではない。アルコールはニコチンとの親和性が高いので、副流煙中のニコチンがアルコールの力で体内に吸収され、さらにアルコールのせいで前頭葉機能が抑制されて気がでかくなってしまって、「一本ちょうだい」と言って、つい吸ってしまうということは十分起こりうるのだ。

今年の忘年会はあらかた終わったところだろうけど、年明けにだって酒を飲む機会はいくらでもあるので、気をつけないといけない。ニコチン中毒でない人(非喫煙者)は、副流煙のそばすなわち喫煙者のそばにどうやったら近づかないで済むかを考えたほうがいいだろう。

ニコチン無しでもあなたは生きている

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過去には幸せ、未来には希望を

2018年12月25日 | 日々思うこと、考えること

昨晩は少々だらしのない記事となってしまい、申し訳ありませんでした。だからといって今日、すばらしい記事が書けるかというとそういうわけでもなくていつもどおり。

最近、ニュースで流れる記事で明るいものが少ない(ように感じる)。過去の幸せを回想することは悪くはないが、将来への希望を語るということがほとんどでてこない。オリンピックへの意気込みを語る選手たちの話は若々しく頼もしいけど、スポーツの持つ求心力はかつてほどではない。それにオリンピック開催に投資される税金を考えたら複雑な気持ちになる。さらには、平和国家日本の防衛費が過去最高の5兆円となったところで、まったく嬉しくはない。税金をアメリカの軍需産業に渡すということをどう受け入れたらいいのだろうか。

一昔前のように、何も知らずに暮らしていた方が楽だったかもしれない。多くの情報が大量に流れるようになり、世の中にはいいことばかりではないというのをみんなが知るようになった。さらには、貧富の差だけではなく、いろいろな埋めることのできない差があることを知るようになって、未来に希望を持つことが難しくなってきている。”頑張ればなんとかなる”という、一昔前だったら当たり前だったことが、もう当たり前ではなくなってきている。

可能性のない社会は息苦しくて暗い。せめてクリスマスツリーの灯りが、世の中を明るく照らしてくれたらいいのだけど、LEDの光は明るいけれどなんとなく冷たく感じるのは私だけだろうか。

希望のもてる世界はどうしたら

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しまった、不覚。

2018年12月24日 | 日々思うこと、考えること

久しぶり(たぶん、24年ぶり)の妻と二人のクリスマスイブ。

調子に乗って、ちょっと、飲み過ぎてしまいました。

Happy Holidays!

日本ではクリスマスは普通に仕事

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雨にも寒さにも負けないで

2018年12月23日 | 日々思うこと、考えること

気温はそれほど低くはないけれど、雨のせいだろう、ずいぶん寒く感じる。

こんな日は、家に1日こもって、今の時期なら年賀状の準備でもしていたいところなんだけど、今日は今年最後の研究会議。雨にも負けず、そして惰眠の誘惑にも負けないでかけなくてはいけない。そうはいっても、関東地方、北国に比べたら楽なものだ。

オンライン会議がもう少し楽にできるにようなったらいいのだけど、それはもう少し先のことになりそうだ。会話だけなら大丈夫だけど、プレゼンとディスカッションをライブ感を持って行うというのは、なかなか難しい。

ずいぶんな雨なのに、鎌倉にはとても多くの人と車がやってきていて、駅まで行くのは一苦労だった。

街はクリスマス、そしてお寺は新年の準備。

 

準備万端

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ほかの言い方をみつけよう

2018年12月22日 | 日々思うこと、考えること

私が弟に出会ったのは、53年前。弟が私と違うと気がついたのは幼稚園に入るか入らないかの頃だから4歳ごろだっただろうか。ダウン症という言葉を知ったのは、小学校中学年ぐらいの頃で、それはいつか治る病気だと思っていた。だから、弟の病気を治したいと、大きくなったら医者になろうと思っていた。高校生になって弟のことに興味がなくなってきたら、医者よりももっとなりたいと思う職業がでてきて、そちらを目指そうと思った。でも、私がてっきり医者になるものと思っていた父は、猛烈に私を説得し、結局私が折れ、医者になった。

それはさておき、弟のことを障害者といわれることには抵抗がある。私の弟は、ダウン症という染色体異常症だけど、名前があって喜怒哀楽がある。それなのに、障害者とか、異常症とか、そう表現されてしまう。前にも書いた(3月21日はダウン症の日 (World Down Syndrome Day ; WDSD)

2012年03月21日)が”健常者”のスタンダードに合わないというだけで”異常”ということ自体、おかしい。そもそも、”健常””異常”という表現そのものが、人間に差をつけているという点で、異常なのだ。
 

”ボケ”という言葉が差別的だということで、認知症という言葉に置き換えられるようになったけど、それなら、もともと”障害”を持っている人に対する表現方法を変えることはできないだろうか。

考えよう

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私と僕とコロ健と

2018年12月21日 | 日々思うこと、考えること

昨日、私はブログを別な自分で書いてみた。それは、”僕”という表現で自分を表したということでしかないけど、ナイトとのことをそうやって書いたら今までになく新鮮な感じがして驚いた。僕が僕として考えたことを文章にするということはこれまでしてこなかった。

私が私と書くのをやめることはない。病理のこと、医学のこと、仕事のことを書くときは、”私”が喋った方が良いと思うし、ブログの記事とは言っても、どこかで仕事に結びついていくので、しっくりくる。

最近、コロ健というハンドルネームを使うことが少なくなってきている。表現として誤ってはいないし、私としてはお気に入りの名前だ。ただ、”コロ健としては”とか、”コロ健的には”とか、そういう文章の時にしか使えないのだけど、そういうタイミングが最近少ない。どうしてだろう。精神的に、犬のレベルから人間のレベルに進歩したからだろうか?このブログを成熟した大人が書いているものに育てようとしているからだろうか?

これから先、このブログに私が考えることだけではなくて、僕が考えることも書いていこうと思う。ブログを書いていく上で、スタイルが乱れてしまうのはあまり良くないだろう。私の書く文章が好きで、読んでくださっている方にしてみたら、”僕”の書く文章はつまらないと思うかもしれない。

実験というほどの大それたものではないけれど、この試みは面白そうな気がする。私と僕、ついでに(たまにだと思うけど)コロ健がいろいろな形で出てくるブログになったらどんなになるだろう。一本の小説では主人公は私か僕かそれ以外の誰か(神の視点?)で統一されてしまう。筒井康隆だったと思うけど、そのことを打破しようとしてか、多重人格者を登場させる小説があったけど、毎日文章が完結するブログの中で複数の語り手(でも、同一人物)によって記事が書かれるというのとは、違う。結局しんどくなってしまうかもしれないけど、やってみよう。

コロは僕、私はナイト?

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そうか、いつかお別れするんだね

2018年12月20日 | 犬との暮らし

ナイトの抗がん剤治療はおとといで終わり。僕が家に帰るとナイトは股の間に顔を突っ込んで甘えてくるのだけど、抗がん剤治療の日はしっぽだけを振って、潜り込んだままいつもよりずっと長い間じっとしている。

犬猫病院の先生はこの先、分子標的薬を使うという選択肢もあるけどと、妻に言ったらしいけど、僕と妻はこれ以上の治療はしないでいいと考えている。僕が考える最大の理由は、イヌの血管肉腫に対する効果のエビデンスが少ないということで、ある程度の抗腫瘍効果が見込まれたとしても、肺線維症など副作用があり、そちらで寿命を縮めてしまう可能性がある。そんなことになったらつらいばかりでナイトがかわいそうだ。

化学療法で腫瘍細胞をたたき切れていないとしたら、再発は免れられない。発見時すでに脾臓にできた腫瘍が破裂していたということを考えたらお腹の中にがん細胞がばらまかれている(播種)可能性が高いわけで、そんな腫瘍、再発したらあっという間だということはわかっているし、僕も妻もその覚悟はできている(つもりだ)。せめて娘が留学から帰ってくるまでは生きていてほしいと思っているけど。

先週までに貧血がずいぶん進行していて、ナイト自身も辛そうだ。腫瘍が見つかる前までは、毎朝、妻とナイトは僕のことを鎌倉駅まで歩いて送ってくれていた。近頃はそんなに遠くまで歩くこともできなくなってしまった。今は、僕とナイトが妻より5分ほど先に家を出て、途中(ほんの4、5分歩いたところ)で車で拾って、駅まで送ってもらっている。妻が運転する車の荷台にナイトを飛び乗らせて、尻尾が挟まらないように「ナイト、座って!」と僕が呼びかけると、ナイトは慌てて座る。この前、ハッチバックを慌てて閉めたときに一瞬挟んでしまったのを覚えているようだ。ハッチバックの扉に挟んでしまって”キューン”と泣かせてしまった。幸い、しっぽを怪我させるようなことにはならずに済んだけど、あのときは、悪いことをした。

毎朝、僕が”でかけるよ!”と声をかけると、ナイトは尻尾をたくさん振って玄関まで来る。寒さが心配だけど、コロと違って嫌がらないので多分大丈夫なのだろう。その、朝、一緒に歩く4、5分の間、僕はナイトと話す。

「ナイト、朝焼けだね。朝焼けの日は天気があまり良くないんだって、知ってる?」と聞くと、ナイトは僕の方をちらっと見やって、尻尾をふる。「それにしても寒いよね、ナイトは寒くないの?」と聞いたときは、無視された。そんなの当たり前だけど、歩くしかないじゃない、とでも言っているよう。ナイトと喋りながら、背中を見るとずいぶん年を取ったなと思う。いつのまに?と思うけど、これが犬の命の長さなのだろう。ヒトでいえばナイトは僕と同じ年代。この歳で抗がん剤治療を受けたら、普通以上に老ける。それでも、ナイトは楽しげに僕と歩く。

そうか、犬たちとはこうやってすこしずつお別れしていくのだなと僕は思うようになった。一緒にいることができるのも、この冬が最後かもしれない。それとも(希望的観測だけど)、あと数年生きてくれるかもしれない。そうしたら、僕も妻も嬉しいけど、やっぱりいつかはお別れの時がやってくることに変わりはない。今よりもっと若い頃のことをたくさん書いておけば良かったと思うけど、コロは12年、ナイトも7年となると、そうもいかない。これまでずいぶん長い間一緒にいてくれてありがとう。これからもよろしくね。

ナイトは、今回の治療から回復したらだいぶ元気になるだろう。身体的、精神的ダメージは大きかっただろうけど、立ち直ってほしい。この冬を乗り切ったらいい季節もくる。そんな、先のことまで言っていたらきっと鬼に笑われてしまうだろうけど、親バカと同じで、飼い主なんてみんな同じようなものだ。

犬はどこにもいけない

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自動改札装置のピッとピピッ

2018年12月19日 | 通勤・交通・旅行

昨日の朝、鎌倉駅の改札口を通ったら、ピピッという音がした。

「あれ?おかしい。いつも(定期の区間内は)”ピッ”なのに。」と一瞬考えた(人間というのは、これだけのことを情報を入力した後、瞬時に考えることができるというのがすごい)。それで、数日前から改札通過時に表示されていた、【有効期限 12月17日】のを思い出し、このいつもと違う音は昨日で定期券が切れているからだと理解した。

定期券を使わないで、勤め先まで行って帰ってきたら相当な出費となる、気がついて良かった。有人改札で今入ったばかりのSuicaの入場記録を取り消してもらい、券売機でカードで定期を買って出直した。そもそも、定期券を駅員に見せて通るようにしていたらこんなことにならなかったともいえるけど、世の中なにがどんな風に進歩していくのかなんて誰にもわからない。それにしても、入場の取り消しだとか、カードで一瞬で定期が帰るとか、便利になった。

「ピッ」というのは、定期券使用者、「ピピッ」の場合は、定期の範囲外。それは前からわかっていたけど、音の違いで、期限切れもわかるなんてよく考えられたシステムだ。これなら、子供のピヨピヨとかオレンジ色の光とかを組み合わたら、いろいろな合図がつくれそうだ。

そのうち、顔写真とか、位置情報と連動して「ピピピッ」とか「ピピピピピー!」とかいうのも出てくるだろう。というか、私の場合Suicaをカードで使っているけど、モバイルSuicaを使っている人はすでにJR東日本に行動を相当監視されているだろう。かくいう私も、まだ慣れないので普段は使っていないけど、Suicaのアプリを入れて非常用のお金も入っている。とすると、私の行動も・・・。

企業の性善説を信じる

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他人の目が気になる人へ

2018年12月18日 | 生き方について考える

自分を見る他人の目が気になる人というのは少なくない。私はそうだし、これを読んでいるあなたもそうかもしれない。他人の目を気にして生きることが自身の人生にとってどんな意味を持つのかがわかっている人なんてたぶんいない。少なくとも、生きる苦しみの一つであることは間違い無いと思う。

他人の目、人はそれをどんな風に”気”にするのだろう?そのことは、自分自身が他人をどう見ているかということでわかる。

他人は他人でしかなく、ほとんどの場合、他人は利用すべき存在でしかないと考えているような人にとっては、他人など気にするような存在ではない。そんな人は、他人の力を借りずに、独力で生きていく自信があるのだろう。だから、他人からの視線なんて気にしないで生きていけばいい。

そんな人とは逆に、他人の力を借りないと生きていくことができないと強く感じている人は、他人の目も気になる。これは当たり前のことで、依存心とかそういうのではない。人間は一人で生きていくことはできないのだから、どこかで人の助けを必要とする。したがって、どんなに強がったところで、ギブアンドテイク、他人を利用することしか考えないでいたら誰にも助けてもらえなくなる。この、ギブアンドテイク、に気を配るということが他人の目を気にするということだ。

他人の目を気にするのは当たり前のことで、それは世間体とか見栄とかでもない。他人の視線を気にしないようになる方法の一つとして、社会貢献があると思う。後ろ指を指されるようなことはせず、社会にどれだけ貢献しているかで、他人の視線は決まるかもしれない。

社会貢献にはいろいろな形がある

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イモトアヤコの演技力

2018年12月17日 | 読書、映画、音楽、美術

今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」が終わってしまった。鈴木亮平の熱演に引き込まれて最後まで観てしまった。西郷隆盛、大久保利通という維新の立役者二人がいずれも非業の死を遂げたというのは、その人生がいかに苛烈なものであったかを物語っている。西南戦争を描いた、先週、今週は泣けるシーンが多く、自分も歳をとったものだと自覚する。NHK大河ドラマのあとは、TBSの日曜劇場「下町ロケット」。このところ、日曜の8時から10時まではこの二つの番組を続けて観ている。いつの間にか東芝の名前が消えているけど、もうどのぐらい経つのだろう。

このドラマでびっくりしたことがある。優秀なエンジニアを演じている女優さんの演技がとても上手なのだ。はじめて見たときは、脇役ぐらいでまあ知らなくてもいいかと思っていたのだけど、どうやらキーパーソンだとわかってから気になってきて、妻に「この女優さん誰?」と尋ねたら、「イモトよ」という。イモトって、だれだろう。井森美幸ではないから、イモトナントカなんだろうけど、そんな女優さんいたっけ?「イモトアヤコよ」と言われて、「え?あの、イッテQの?」「そうよ」。

いや、びっくりした。あの眉毛を濃く書いて、世界中の秘境、高山に挑んで旅している芸人さんが、この演技。なんといっても、目力がすごい。これも、数々の”苦行”の賜物か。このドラマで女優、イモトアヤコのファンになってしまった。これだけの演技力があれば、朝ドラのヒロインだってできるのではないかと思っている。チャンスがあればぜひ、オーディションに挑戦してほしい。

俳優、最後は演技力

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