退屈しないように シニアの暮らし

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さて何をしようか

止まってみて、はじめて見えること

2014-06-30 10:45:33 | 韓で遊ぶ

宗教が違って
つらい
あなたのために






今、付き合っている人と宗教が違ってつらい人、
伝統的な祝日の度に宗教が違って家族の中でぎこちなく感じる人、
結婚や葬式のような儀式の時、宗教により家族同士争う人、
周囲を見ると意外に多くいます。

血を分けた両親、子供、兄弟の間でも
本当に好きあっている恋人同士や、夫婦の間でも
どうしたものか、それぞれ違う宗教を信じることになり
心の平和と愛を持ってくるはずの宗教が
むしろひどいストレスを起こす要因になる。

私たちはこんな時どうしなければならないか。
一体、何が問題なのでしょうか。
一旦、これから先に超えなければなりません。
私たちをつらくするものは宗教自体ではなく
自分の宗教をちゃんと認めてくれない、その心が悲しいのだということです。
家族の多数を占める宗教が、少数の宗教を無意識的に差別することと
改宗を暗に勧めるその暴力性がいやなのです。

すなわち、自分がぎこちなく感じ、居心地の悪さは相手の宗教自体ではなく
自分のものをちゃんと認めてくれない、その人の態度だということです。
「違い」に対するその人の心使いだということです。
なぜならば、同じ宗教を信じても、ある人は寛容で尊重するが、
また、ある人は度量が小さく自分のことだけ正しいと言うからです。

こんな場合を克服していくいい方法は、実は
相手の宗教を自分の宗教を知っていくように
本当の心で勉強してみることです。
聖書や仏教の経典、
神父、牧師、僧のエッセイや教理の載った本を
ゆっくり読んでみたら感動する部分があります。
「あれ、違うと思っていたのに自分の宗教と似ている教えも多くて、いいね。」
このようにひざをポンと叩く瞬間が多いと思います。

そうして、相手の宗教人の中に
法頂僧、姜元龍牧師、イテソク神父のような
尊敬できる人の人生と思想をはじめて知ってみると、
自分と自分の周辺の人の偏狭な宗教形態が全部違っていたと
悟ることになります。
そうやって、本当に相手の宗教の美しさと優れたところを
胸に深く感じたら
他の宗教を持っている人に会っても全然、違和感がありません。
むしろ自分が相手の宗教がどれだけ優れているのか話す事になります。

そして相手が宗教に対して偏狭な態度をしたら
今度は堂々と話してください。
あなたの宗教の先人たちはそのように行動しなかったと、
キムスファン枢機卿と姜元龍牧師がどれだけ互いに尊敬し合って
法頂僧とイヘイン修女が文章を通して互いにどれだけ交感していたか
ダライラマ尊者とトーマスマートン修士がどれだけ親しかったか
知っていますかと。
宗教の本質を見て、それを実践する人同士は
互いにみな通じています。
霊性の深くない、言葉だけ学んだ初歩の信仰者だけ
形と形式がすべてであると思って洗脳されて
自分の方式だけ正しいと戦うのです。

もう、自分の宗教、他人の宗教を問うことに
時間と精神的なエネルギーを浪費しないで
深い理解と実践を通して、宗教のために苦しむことなく
みな楽になることを願います。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-29 09:49:40 | 韓で遊ぶ


あなた、今もその人と仲良くするために「努力」していますか。
それは、おそらくその人と仲良くすることを契機に
何かを得ようとする心があるからではないですか。
本当に仲良くなるためには
まず、得ようをする心から捨てなさい。
人間関係の中の人為的な努力は言わなくてもすぐに目に付きます。
純粋に人対人として近づいていけば、むしろ簡単にもっと仲良くなります。



初めて何かを始める時を見ると
多くの熱情を持って仕事に飛び込むことになります。
ですが、熱情があふれて
人に必要以上の努力とやる気を見せる場合があります。
こんな場合、必ず逆効果が出ます。
なぜならば、私の心の中心が
自分の助けを必要とする相手に行っているのではなく
自分の熱情に自ら陶酔して相手を見ることができないからです。




人にはよく対しているのに
家族や自分の側近には
「自分の一部」だと思って、その人たちに疎かに対して
悲しくさせる人がいます。
ですが、それは本当に大きな間違いです。
自分の側近の心が離れると
この間、積み上げたことが一度にだめになることがありえます。



本人に以下のひとつ以上あれば
所信を持ってこの時代を生きることが
簡単ではないようです。
貧しさ、出世の野心、扶養家族。
あぁ、悲しい。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-28 06:21:37 | 韓で遊ぶ


歴史を見ると、社会を変えることは
年をとった人たちではなく
熱情を持った若い人たちだ。
正義が崩れたと判断した時
何とかして不義に立ち向かおうとする心、
自分のことを守ろうとするのではなく
弱者の権益を守ってやろうとする心、
自分より苦しい人たちを見れば切なくなる心、
歳月が過ぎても絶対にその心、
はじめの心、初心を忘れるな。



知識人というのは、人のことに口出しする人だ。
正義と自由、善と真実、人類の普遍的価値が蹂躙されるなら
人のことでも自分のこととして受け入れ
干渉して闘争する人だ。
ジャンポールサルトル







その政治家が、これからどんな政治をするのか
その人が言う、いい話よりは
その人が現在、所有しているものと
その人が今までどのように生きてきたのか
詳細に覗いてみればもっと正確に現れる。
人は自分が言う「言葉」の通りに生きません。
この間、生きてきた方式通りに生きるでしょ。



どんなに勉強を一生懸命やっても
「一生懸命やった気分」に陥らないでください。
仕事と勉強を一生懸命しなければ、
「一生懸命やる気分」に陶酔すると、形だけ生きて中身がありません。
だから偉大な僧はいつも、勉強する時
琴の弦を選ぶようにきつくもなく緩くもなくしようとしました。








世の中の人のせいで
あなただけの色と熱情を隠して苦しまないでください。
あなた自身をなだめることを恐れないでください。
あなた自身の固有感こそが最も真実となり、美しいのです。
あなたの色と熱情が明るい光としていっぱいになるように
私が応援します。


イウェス先生に苦しく生きている若い人たちに
言ってあげたい言葉があるのか尋ねてみると、このように答えました。
「すごがん精神を忘れなければいいです。」
「あ、すごがん精神、、ところで、先生、一体すごがん精神とは何ですか。」
「すごがん精神はすごくがんばって耐える精神です。」


今、小ざかしく振舞わないで誠心を尽くして仕事をすること、
時には誰もわかってくれないと思う時があるが、
時間が経てば経つほどにあなたの誠実性は光を出すようになります。

良い自身をもっと苦しく打ってこそ、遠くまでその声が広がります。
今のつらい努力がなければ世の中を感動させることはできません。
世の中は自分がどれだけ熱情を持って力を入れたか
思ったより早く見分けます。



大きな岩が私たちに教えをくれます。
人の賞賛や非難にも
簡単に動揺せずバカ正直にその場を守っています。



人は誰でもはじめて会う人に親切です。
問題はその親切感がどれだけ長く続くかということです。
誰かがはじめに良くしてくれたと、ひたすら良く思ってだまされないでください。







一緒に仕事をする人を選ぶ時
その人の能力とか経験よりもっと重要なことがあります。
まさにその仕事をしたいという熱情と
その仕事をしながら楽しむ気持ちを持っていいる人です。
楽しければ勉強も修行も成功もすることができます。


すべて、はじめのボタンを上手くかけないと
「一旦、このように大体やっておいて後で変えよう。」とすると
実際に思ったように上手くいきません。
なぜなら、
後には今のような意欲が残っていないこともありうるし、
今と違って一人しなければならない状況になることもありうるし
そのためもっと面倒になることもありえるし
はじめの状態にただ慣れてしまうこともありうるからです。

まるで、引越しした後、ある程度整理した後に
家を自分の気に入ったようにゆっくり直そうと決心するが
実際にはこんな場合、引っ越して何年が経っても直すことができず
ずっとそのまま暮らすことになるのと同じです。

自分が勉強を一生懸命やって、自分の点数を上げなければ、と思う人と
自分が勉強を一生懸命して、貧しさのため勉強できない自分の妹に
勉強をさせないと、と思う人は
目つきが完全に違います。
人を助けるという大きな望みは
すごいエネルギーを自分の中から引き出します。
菩薩の願いもこれと同じです。
だから人を助けるという菩提心があってこそ悟ります。



何かを判断する時は
自分が出した決定がどれだけ多くの人に
利益を与えることなのかに基準を合わせなさい。
自分自身にだけ満足を与え、多くの人の心を傷つけたら、
それは、違います。



自分が望むものを他の人に施す
そんな人になりなさい。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-27 06:53:00 | 韓で遊ぶ

冷静と
熱情の間






心はまだ学生のようだけれど、ある瞬間振り返ってみると、いつの間にか私の名前の後ろに「博士」と言う二文字がついていて、アメリカ北東部にある美しくこじんまりした村にある大学の教授になっていた。
講義を「聴くため」でなく「聴かせてあげるため」はじめて学校へ行った日、私はまるで見合いをしに出かける若い人のように、ときめきでいっぱいだった。学生に対する期待と、共にする時間に対する計画で、胸と頭が力強く駆けていた記憶が、今も生々しい。今まで私に教えをくれた多くの先生の長点だけをそのまま受け継いで、自分も学生たちにいい教えを与えたいという考え、それこそ熱情でいっぱいの時期だった。
私が1学期の間、教える2科目中のひとつは、自分が学生の時、最も関心があった分野である「仏教瞑想概論」であった。私はその授業を単純に哲学的な理論の接近方式にだけ終わらずに、実際に瞑想できる実践の機会を共に与えたかった。後日、その学生たちが卒業して社会にでて困難な状況にぶち当たった時も、瞑想を通して心の平和を見つけることを願った。心の中からあがってくる多くの考えに引きずり回され苦しまずに、自分の心を見守ることができるようになったら、それこそ自分が学生たちに与えることができる大きな贈り物ではないかという考えだった。
今でもはっきりと思い出す初めての授業の時間、私はその授業に入って行く前に、初授業にどんな話をどのようにしようか悩み、また、悩んだ。結局、仏教で言う因縁の大切さについて丁寧に、少し震える気持ちで話をした。私たちの出会いもしかしたら、偶然ではないともいえる点、もしかすると何回かの生を置いて今日この席で再び会うことを願っていたからこのように会うことになったのかもしれないという点を話し、だからこのような因縁を大切に思って、よい学期を一緒に作っていこうと話した。大学1年生の学生たちが主となる概論の講義だと思うと彼らもまた真摯で、近づいてくる大学生活に対する期待もまた非常に大きく見えた。学校の規定上1クラスの大きさが25名を超えなかったので、私は学生の名前を簡単にみな覚えられ、短かったけれど一人ずつ個人面談をして、この講義を聴く理由と何を学びたいのかチェックした。

しかし、時間が経つにつれてだんだん自分が上手くやっているのか疑問になり始めた。今になって思うと、自分が上手く教えようと言う熱情におされ、必ずしもしなくてもいいことを必要以上にしたようだ。
例をあげると、ひとつでも多く教えたい気持ちで、私は学生たちに他の教授に比べて多くの課題を与え、そのレポートを受け取る度にいちいち細々とチェックしてやった。そして、はじめから計画したとおり瞑想の実践を必須事項とし、学生たちは授業以外の時間に寄宿舎でウィッパサナ、看話禅、チベット観法などの瞑想をしなければならなかった。また、他の教授は学期末に一度するかしないかの「学生たちとの夕食の集まり」を、私は学期中3回ずつ行った。学生たちと共に学校の近くの仏教寺院にピクニックも行った。アメリカの著名なウィッパサナ仏教瞑想指導者であるジョセフコールドステンが、学校の近くの教会で法文をするといえば、学生にその法会にみな一緒に参席するように勧めた。
しかし、時間が経つほどに自分の熱情が何か問題を起こしているいるという事実を悟り始めた。自分が最善を尽くして学生に教えるほどに、学生たちも私の指導するとおりに一生懸命ついてくることだけを、無意識に期待したのだ。もちろん大多数の学生は、私が彼らに多様な経験を与えるために努力している姿に感謝を表した。しかし、すぐに彼らも一人ずつ疲れていく姿が歴々と見えた。課題をしない学生、読んできなさいといった本の内容を読まないで授業に参席する学生が現れ始めた。ある学生は、仏教寺院やジョセフコールドステンの法文を聞きに行くことは、授業の一部ではないから参席しないと大胆に宣言した。私はそんな話を学生から聞いた時、自分でも知らないうちに悲しい気持ちになった。私は彼らのためにこんなに心を砕いて努力したのに、彼らの反応は呼応ではなく拒否だったので悲しい気持ちにならないではいられなかった。

私は、その悲しい気持ちをじっくりと覗いてみた。その状況を客観的に眺め始めると、その間どれだけ愚かだったのかすぐに悟ることができた。学生が受講した瞑想概論、この授業は彼らが聞いていた4つの科目のうちのひとつだった。私にとって私が教える科目が大切なように、彼らには学んでいる他の3つの科目も大切だったのだ。私の授業ばかり多くの時間を投資することができないことは確実で当然なことだったのに、私はその状況をちゃんと見ることができず「自分が一生懸命やる味」にばかりはまっていたのだった。
そして、私は利己的にも、私のこんな熱情をなぜお前たちは受け入れてくれないのだと言う気持ちを抱いていたのだった。その悲しい気持ちはすぐ、「学生がどれだけよく学ぶことができるか」という考えよりは「自分がどれだけ熱情を噴出しているか」という考えに重点を置いていたということを反証していた。どんなにいい薬も飲みすぎるように強要したら毒になるものだ。この悟りがあった後、学期の後半からは適当な熱情と適当な冷静の間を行き来する授業となるよう変化を与えた。そうして私が「熱情」という名前で強要して飲ませようとした薬を客観的に判断して調整していった。そうしたら不思議にも学生がその前よりも強い「熱情」を帯びて授業についてくるのだった。本当に意外だった。その瞬間私が悟ったことがある。
どんなことでも、はじめてのことを任されたならば、私たちは自分でも知らないうちにそのことを上手くやろうとする考えで、強い熱情を抱くようになる。しかし、重要なことは「自分がその仕事を上手くやらなければならないこと」ではなく、「その仕事が上手くいかなければならないということ」だ。共に仕事をする人と調和をなすことができず「自分が一生懸命する味」にだけ陥るとか、誰かに被害を与えたながら道徳的な問題を無視して「自分が一生懸命する味」にだけ陥ったならば、その仕事は目標とした通りに上手くいくはずがない。
自分の熱情がこのように強いのに人が気づいてくれず、自分の熱情がこのように強いのに、他人は自分ほどに一生懸命しないように見えて、自分の熱情がこのように強いのに仕事が上手くいかないように感じて、私たちは簡単に傷ついて挫折する。しかし、必ず自分の熱情の本質を確認しなければならない。自分の熱情が仕事を損ねているのか、いないのかをだ。
湧き上がってくる自分の熱情をなだめることができる術を知る時こそやっと他人と調和して平和に仕事をすることができ、アイロニーであるが、その時こそやっと自分の熱情を自分の周囲の人にまで転移させることができるのだ。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-26 05:40:39 | 韓で遊ぶ


頭がよくて正しいことを言いながらしょっちゅう批判をする人より
心が温かく何かを分け与えようと思案する人、
友達との過ちも抱いてあげることを知っている人、
他人の苦痛を敏感に感じる人になりなさい。



相手を説得するために会ったとしても
自分が相手の立場に十分に共感ているという感じを与えることができなかったら、
相手は説得されません。
自分の言葉ばかりしゃべらないで、十分に相手の立場を尊重して聞かなければなりません。



私たちの人生の多くの対立といさかいは
易地思之(相手の立場になって考える)の心を練習すれば解くことができます。
相手の立場からも考える習慣を持ってみなさい。
自分の考えばかりすることは世間知らずの子供と変るところがありません。



正しい、そんなことを言い争っていて
先に怒ったならば
その人が負けです。



批判は簡単です。
しかし批判する者が実際に主人になって運営したならば
何でも、決して簡単ではないということを重々、実感します。
だから代案のない批判は
批判する者のエゴだけを増大させる行為としてしか
見えないのです。



腹のたつ言葉を聞いた時
すぐに携帯や、パソコンのメールで返答しないでください。
知恵のある人は、いったん寝て
次の日の朝に送ります。
言葉を聞くなりすぐに反応すると
後々に後悔させられる場合が多いからです。



人々は大概、話を聞くことよりも
自分が話をすることが好きです。
相手が自分と楽しい時間を過ごしたと感じさせる方法は
いい質問をたくさんして、相手が話をたくさんできるように
誘導して、その人の話に楽しく合い槌を打ってあげるといいのです。
実は考えるより難しくありません。



大物の周辺にイエスマンばかりいて
主にその大物の自画自賛を助長することします。
自分の周辺の人が、自分が自画自賛することを助長したならば、
その事実を知らなければなりません。
自分の周辺に奸臣ばかりいて忠臣がいないと言う事実を。



質問に対する答えが
複雑で長いが論理的な答えと
簡単で幼い子供でも理解できる短い答えがあったら
真実は簡単な答えが正答です。


何かを訊ねる時
答えがなければ
沈黙も実は答えです。



完璧な人はいません。
ただ、自分の不足していることをよく知っている人と
よく知らない人だけがいるだけです。



人には誰でも両面性があるでしょう。
ある人が完璧に見えたならば
それは明らかに、自分がその人に対して
よく知らないからです。










「完璧に作ろうとしないで
面白く作るようにしなさい。」
あるインテリアデザイナーの忠告



自分に正直になってみてください。
一体、何が自分を幸福にさせるのか。
世の中の一般的に決められた成功の基準ではなく
自分の中で何を望んでいるのか。
他人に幸福に見えることが重要ではなく
自分自身が本当に幸福であることが重要です。



人生の目標を成功ではない幸福に決めなさい。
成功しても幸福でなければ
それが本当の幸福でしょうか。
幸福は他の人との関係の中に見つけることができます。
前に突進だけしないで
友達、家族、同僚の面倒を見ながら前に進んでください。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-25 04:57:48 | 韓で遊ぶ

自分が正しいことが重要ではなく
共に幸福なことが
より重要です






人は誰でも
自分が絶対に譲歩することができない
信心や価値観、考えがあります。
自分の観点から見る時、これらは本当に正しいのに
悲しいことに共に、正しい感じを共有できないとか
自分とは正反対に考える人に
会う時があります。

親しい友達や恋人、家族の中にも
人生の価値観が違って
政治的な性向が違って
宗教が違って
そっちの話をするのが少し気まずい、そんな関係のことです。

そして、話題がそっちのほうに流れた時
私たちは意図しないけれど
言葉一つみても、自分でも知らずに自分がどれだけ正しいのか
激しい感情まで露にして話をすることになります。

ですが、
そんな対話の後に残るものは
結局、傷だけではないですか。
自分の考えの純粋性と高潔感のために
人々が傷ついているのではないか
また、自分が傷ついているのではないか考えてみなければなりません。

私たちはもう
自分の心や思想の純粋感とか高潔感よりは
自分の前に座っている人をもっと見ましょう。
思想とか信心よりももっと重要な
大切な人が前にいることを忘れないでください。

自分が正しいと思うことで他の人を説得しようとすることは
結局、自分の自我、エゴの活動です。
そんな活動は自分が正しいことをどんなに証明しても
結果的に誰も幸福にはなれません。

成熟した人になるためには
自分の前にいる人、やはり自分と同じで
幸福を追求する同じ人なのだと言う考えで
時には自分が正しいと考えることでも、引き下がる術を知ることが
必要です。

忘れないでください。
自分が正しいことが重要なのではなく
私たちが共に幸福であることがずっと重要なのです。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-24 02:06:51 | 韓で遊ぶ


友達、家族、同僚、自分の周囲の人たちの心を
楽にしてあげることが修行です。
よく知りもしない遠くにいる人が
どんなにあなたを尊敬して、何になりますか。
まさに自分の周囲の人たちが
自分のために苦しんでいたらの話です。
よく知らない人が尊敬することは
自分ではなく虚像を想像してするうそです。うそ。



自分自身を低くすることは人に負けることではないかと
訊く人がいます。
ですが、自分が少し負けても、自分がより大きいものを成就するならば
それはまさに勝つことです。
少しかがめば心の平和、家族の中での幸福、みな同じく上手くいく
大きな結果を得ることができます。







他人を簡単に判断する道徳的潔癖主義者は
本人が持っている傷をちゃんと観照することができない未成熟者です。



下の人だという理由で業務と関係のない使いを頼まれました。
嫌気がさっと上がってくる時、何度も考えながら嫌気を出さないで
上司が頼んだ使いをただやってあげなさい。
嫌気を出すと大したことでもないことが何倍にもつらくなり大きなストレスになります。
ただやってあげれば、すぐに忘れることができるじゃないですか。



自分の周りの人々を自分にあわせて変えようとしないで
むしろ変えようとする自分の欲望を捨てることがずっと早いです。
自分の心も自分の心のままにできないのに
どうして人を自分の方式通りに変えられますか。



幼かった頃好きだったのに今はそうでもないもの、
エアコンの風、食べ放題、恐怖映画、飛行機に乗ること、大都市、夜遊び、、
幼い頃は嫌いだったのに今好きなもの、
雑穀米のご飯、歩くこと、瞑想、一人でいること、モーツアルト、運動、車、、、

自分でも知らないうちに変ります。そして今も変っています。



過去に執着しながら世の中と人が変ったと感嘆しないでください。
過去の枠にあわせて現在を裁こうとする悲しいことです。
今の変化を受容しなさい。
望もうと、望むまいと世の中と私たちの人生は変り続けます。








無所有は
何も持たないと言う意味ではない
持っているものに対して執着しないと言う意味です。
違うと思う時、すべて捨てて旅たつことができてこそ、本当の自由です。
反対に、なくて葛藤を感じても無所有と言う理由で
我慢して暮らすことは本当ではありません。



僧の間で本当に尊敬された偉大な僧は
法文が上手いとか
姿がかっこいいとか
名門大学を出たとか
大きな寺の住職をしているとか
未来を上手く予測するとか
病気を治してくれる僧ではなく
行で若い僧たちに教えをくれる方です。
偉大な僧だと後ろに下がっているのではなく
自身が率先して模範を示す姿に
僧たちは大きな感動を受けて下心するのです。





修行者が心を改めて悟ろうとしたら
通り過ぎる幼い子供にも学びを得て
自分が侮辱される状況にも大きい悟りを得ます。
実は世の中全体が私たちの師匠です。



自分の心を覗いて見させるようにしてくれる人は
自分をほめてよくしてくれる人ではありません。
自分の心の勉強は
自分を侮辱して、叱って
自分を失望させて苦しませ
そんな人たちによって始まるのです。
その人たちこそ菩薩の化身です。



誰が本当の修行者なのか、そうでないのか判断する方法があります。
思いっきりほめてやって、また思いっきり批判してやってください。
心の動揺があれば、その心の根本の場を忘れていると言うことです。



自分を悪く言った時、カッとなって押して上がってくるその心や、
自分をほめた時に笑ってしまうようなその心は
実は二つではありません。



修行者は多くの人と共に生きる時
一人生きるように生きなければならず
一人生きる時、多くの人と共に生きるように
生きなければなりません。



私たちが他の人と深く正直な会話をしながら
互いに共感してひとつになれば本当に幸福です。
ですが、その対象を外にだけ見つけないで
自分の心を深く知って、自分の心を理解する状態になってみてください。
それ以上比較できない自由と幸福をいただきます。






道人(仏道の修行をする人)の他に道人はありません。
知っているが言わないで我慢する力、
変化させることができるが、その人が自ら学ぶことができるように
黙って放っておくことのできる力があってこそ道人です。
人に見せてやる道は、まだ、未熟な道であるだけです。
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とまってみて、はじめて見えること

2014-06-23 05:46:37 | 韓で遊ぶ


心が傷ついた時、報復心を起こすと
自分の苦痛だけが見えます。
その代わり自らを落ち着かせ
内面の慈悲の光を光らせ、相手を理解する努力をすれば
自分に苦痛を与えた相手も結局は苦痛を受けているという事実を
見ることができるようになります。



腹が立つ、だけどその怒りをなだめることができない。
すなわち怒りが自分の話を聞かない、、、
そうならば、どうやって怒りが自分のものだと言えることができるか。
自分のものだというならば、自分の思い通りに調整することができなければならないのではないか。
怒りと言う客が入って来て出て行くことを黙って見守りなさい。








上がってくる感情は
放ってしまいたいといって、放れるものではありません。
自分の心の中に上がってくる感じと考えは
実は、自分のものではありません。
いろいろな条件と原因によって、しばしの間起こった
主人のいない雲のようです。
考えとか感じを「ちょっと入ってきた客だ。」と離れて
静かに観察してみなさい。



心の中にはヒットラーとテレサ修女が一緒にいます。
自分の存在自体に対する恐怖と憎しみが基盤になれば
ヒットラーになり
他人に向う慈悲と理解心が強ければ
テレサ修女のようになるのです。










誰かが私に「だめだ。」だと言った時
嫌気が差したり争わないですぐに「はい。」と言いなさい。
新しい状況は
自分をまた他の世界に誘導して、また、他の人生の門を開いてくれます。
誰かが私に「だめだ。」と言った時、
抵抗すればするほど、状況は変らず、自分自身だけもっとつらくなります。



人の感情であれ、仕事であれ、現象であれ、その間に
前になかったことが、今起こったならば、
時間が過ぎるとそれはまた、変って消えていきます。
変らない永遠な真理を求める者は、
そのように起こった、消えたということに執着したりこだわってはなりません。









映画やドラマを見ている途中でやめることがあります。
よい主人公はずっといい人で、悪いやつはずっと悪いとそうです。
人はずっといい人も、ずっと悪い人もいません。
人と状況と因縁によって、また見る人の観点によって
よくもなり悪くもなるものです。



批判ばかり受ける人とか、ほめられてばかりいる人はいなかったし
これからもいません。
ほめることも批判も、皆どうしようもないから
皆が自分の名前と自分の利益の観点から言うことなだけ。
法句経 품노품(プンノプン)



誰かが非難する声を聞いてみると、
非難される人が非難されるようなことをしたと聞こえる。
しかし、もっと深く聞いてみたら、
実は、非難する人が、自分の言うことを聞かなかったと
非難するのです。
だからだまされないでください。

他の人を攻撃することは
自らが堂々としないで不安だからそうなのです。



自分が嫌いな人に対して
ある友達が悪口を言い始めます。
そうだ!と自分が相槌を打ちます。
そしてその友達と別れながら考える。
私がいなかったらあの友達は私に対しても、ちょっとあのような悪口を言ったのでは。
その瞬間は痛快でも悪口は結局自分の肉をそぎ食べることです。



あなたが私を純粋で善いと感じる理由は
まさに、あなたが純粋で善いからです。
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とまってみて、はじめて見えること

2014-06-22 06:08:09 | 韓で遊ぶ

自分の心と
親しくなりなさい。





人々との疎通のためツイッターをはじめた後、多くの若い人たちが私に質問してきた。上手くいかない恋愛問題、人々との関係で生じる問題、家族の不和、かなわない夢に対する未練、就職問題など。そして、その中でも一番よくある質問は、怒ったり、嫌気が差したり、悲しかったり、する心の不安定な感情が押し寄せてきた時、どうすれば心が動揺しないで平常を維持し、なだめることができるかと言うことだ。
実はこの質問を受ける度に感じることは、その人がこのように質問するということ自体が、わかってみると半分は成功したということなのだ。なぜならば、自らそんな感情が上がってくる時、その感情の螺旋にはまって苦しんでいる自身の心の状態に気づいているからだ。だから、その不安定な感情からどうやって抜け出すことができるのか、ツイッターを一生懸命やっているある僧に聞いているのだ。
ところが問題は、多くの人がそんな感情が上がってきた時、その心を自分がなだめなければならない対象としてだけ考えているというところにある。その心を理解が必要な対象として考えないということだ。もう一度言うと、何か不安定な感情が自分の心の中に生じた時、その感情からどのようであろうと早く抜け出したいという考えだけするだろうし、その否定的な心の状態を理解したり、その心と親しくなろうとしない。だから、おそらく人々は「マインドコントロール」あるいは「心をなだめること」のような表現をよく使用しながらも、「心を知っていくこと」あるいは「心と親しくなること」のような表現は上手くないようだ。

どころが、押し寄せてくる怒り、嫌気、不安、憎しみの感情を変えようと努力してみる人ならば知っているだろうが、これは決して簡単なことではない。まさに、憤怒、憎しみのような否定的な心の状態が「泥」だと言うならば、心と言う水の中に泥がいっぱいに解けていって泥だらけになったのに、どうすればその泥を早く和らげることができるのか聞くことと同じだからだ。
早く泥を和らげようと、すなわち否定的な心をちらして平常を維持しようと、心の水の中に手を入れて泥を下に下に押さえつけて和らげてみよう。結果はどうだ。例をあげると、誰かに強く嫉妬して憎む気持ちが上がってきた時、その心をなくすため他のよい考えをしようと努力すれば努力するほど、その憎む心が再びこじ開けて上がってこないか。だから、否定的な心の状態を変えようと心の中に入っていって何かをしようとすれば、根本的な問題は解決されず、否定的な心の状態だけをもう一度ほじくり返す結果だけもってくることがありうる。

ならば私たちはどうすればいいのだろうか。どうやって自らが泥水のような否定的な心を理解してまた、その状態から脱出できるだろうか。実は答えは簡単だ。
その上がってくる心をまるで映画やドラマを見るように第三者的な立場で一歩離れて静かに観察すればいい。私たちが普段よく知らない対象を理解しようとする時、既存に知っていた考えを置いておいて、静かにその対象を観察すればよくはなかったか。すなわち、泥水のような心の器の中に自分が入っていって何とかしようとするのではなく、心の器から出て黙ってその感情を映画やドラマを見るようにじっと見守るということだ。
この時、重要なことは熟視するものが怒り、嫌気、嫉妬のような言葉に執着せず、その言葉が指している怒りのエネルギー、嫌気のエネルギー、不安のエネルギーを静かに見守ることだ。まるで、鏡が何かは映すが何かは映さないと選ばないように、自分もやはり上がってくる感情のエネルギーを選ばないで、静かにじっと眺めることだ。鏡が自分が映す対象に対してあれだこれだと評価しないように、自分もやはり分別したり言葉をつけないでいるそのままの感情をただ眺めることだ。
そのようにして観照する者の立場で自分の心を眺めると、自分の意識が少し後ろに下がっていくような感じ、頭の後ろで自分の心を眺めるような感じを受けることができる。そして、そうやって眺めていると、いくらもしないうちに、不安な心の状態がひとりでにゆっくり他の状態に変りながら消えていく姿を、本当に見ることができる。
もう一度言う、自分がその感情を心の器の中に入っていって直接変化させようと努力しなくても、その器の外で静かに観照していれば、いくらも経たない内に、ひとりでに感情のエネルギーの形態が変ることを見ることができる。自分が不安な感情を、心の器の中に入って行って直接なだめようとすれば、むしろその感情をよりほじくり返す結果だけをおくことになることとは対照されることだ。

ある人はこのように聞いてくることもある。「そうやっていつも見ていたら何がいいですか。」「現実回避ではないですか。」
いいえ。むしろこの過程は現実回避ではなく現実直視だ。あるがままに眺める、現実直視。現在繰り広げられている自分の心の状況を直視する練習をしてみると、ある瞬間、悟らされる。心の中から起こる感情は固定された実態がないということを、心というものは虚空のような空間に自分の意図とは関係なくちょっと起こって、自分の意図とは関係なく消えていく雲のようだということを。この悟りがあると、怒り、嫌気、不安、憎しみの感情が起こっても、大きく引きずられなくなる。それが自分のものだとしがみつかなくなる。なぜならば、自分の心の空間にしばし留まって行ってしまう雲のような客だから。
心をなだめようとするな。ただ、この心と親しくなってその心を静かに見守りなさい。
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止まってみて、はじめて見えること

2014-06-21 07:00:30 | 韓で遊ぶ


心はまた、何か考えているとその考えの途中では
本人の考えであるという事実を認識できません。
考えたなぁ、知るのは、考えが終わった後で知ることになります。
本当にそうなのか見てください。
ずっと考えている時、考えていると言う覚醒がいつくるのか。
考えている最中に来ますか。出なければ考えが止まった後に来ますか。
考えながらも本人は考えていることを知らないこと、
本人が何かをしているけれど、それをしていることを知らないこと、
本当に不思議ではありませんか。
だから、目を開けているといっても自分が覚めていることではありません。



「覚めているということ」は自分の意識空間の中に
何か事が繰り広げられているかどうかをすぐに認識したと言う言葉です。
考えとか感じが生じた時
それについていくのではなく
考えや感じが生じたと言うことにすぐに気づくことです。


食堂でご飯を食べている最中にはわかりません。
全部食べて立ち上がった時にやっと
どれだけ食べ過ぎたのか、はじめてわかります。
修行は瞬間瞬間覚めていることから
はじめます。
食べている瞬間、すぐにわかる人は修行をたくさん行った人です。



自分の意識は、無意識が本当に何を願っているのかよくわかりません。
意識ではこれを望んでいると言うけれど
いざそれをしたり、手に入れることになるとその時になってやっと
自分が究極的に望んだものはこれではないことを知らされます。
自分の無意識の声を聞きたい時は祈りなさい。
深い祈りは自分の無意識の声を聞くことができるようにしてくれる
特別な通路です。





私たちの意識はお金と権力、名誉を望みますが
私たちの深い無意識は自分自身を超越する愛、
合一、共感、疎通、ユーモア、美しさ、新鮮感、静けさを望みます。



静かだといって何もないものではありません。
静かさに耳を傾けて聞いてみると、
世の中をいっぱいに充たした振動を感じることができる。
その世の中の振動を感じながら訊いてみてください。
今、何が聞いているのか、聞いている主人公がどんな姿なのか、
そうしたら、いきなり悟らされます。
聞く自分は元々無く、聞く行為だけがあるという事実を。



水を見ると水になり
花を見ると花とひとつになり
水に流れていく花を見る。
ソオン僧




健康ならば健康なほどに体がまるで無いように感じるでしょう。
だからと言って体が無い訳ではありません。
自然ならば自然であるほどに
全く感じなくなることのように見えます。
ですが、努力が無かったことはではありません。
無いようなことが元々あることで、これがまさに私たちの本性であり真理です。



昔の心ひとつがありました。
そいつが一人でいるのが退屈で
二つに分け合ってみようとしました。
ですが、互いが元々ひとつだと言うことを知っているので
二人で遊ぶことが面白くなかったのです。
将棋をする時に一人で両方をすると面白くないじゃないですか。
だから心は、元々ひとつだったと言うことを忘れてしまって生きようとしました。
そうやってしばらく暮らしてみると元々ひとつだと言うことを
完全に忘れてしまいました。
これがまさに今の私たちの状態です。

あなたと私が元々ひとつだった事実を完全に体得したら
人生は演劇だと言うことがわかります。
それを悟った自分の最高の表現はユーモアです。
平和で神聖でとても善く見える状態は
一手下です。



人生はどうせ演劇です。
少しかっこよく演じましょう。
心の画用紙に望む人生を書いてみれば
いつの間にかその絵が生きて走り出します。
どうせなら、他の人と自分が一緒に幸福になるという、
そんな最高でいい絵を描きなさい。
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