marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(404回目)あの「罪」とこの「罪」とそして例の「罪」とは同じ事なのか〔創世記第3章〕

2017-08-02 02:00:00 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 どれがどれでも比較ですから言い訳なのですが、身近な指示語からいいますとここでは「この罪」とは先のブログの新約のイエスが「赦された罪」(ルカによる福音書第5章20節「あなたの罪は赦された」)、そして「あの罪」とは、使徒パウロがローマ信徒への手紙で自分の神学的展開を語っているもの(ローマ信徒への手紙第5章12節 ひとりの人によって罪が世に入り・・・)、そして「例の罪」とは、創世記で人類の始祖のアダムが犯した罪(創世記第3章)のことを言っています。
◆ここでパウロのローマ信徒への手紙(第5章12~]2節)の一部を書きます。使徒パウロの罪に対する神学的展開は創世記のそれを書いているのは、アダムというひとりの人から罪が世に入りと書いているので、同じ罪のことだと分かります。つまり、神の創造された人の初めに罪に汚染されたので、それ以降のすべての人類は罪人であるという。つまりエデンの園からの追放者として歴史を苦労しながら歩んでいるということ、ひとりもそれから免れる者はいないという彼の動かぬ神学的基があります。
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12節:〔・・・・〕一人のひとによって罪が世に入り、罪によって死が入りこんだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。
13節:律法が与えられる前にも罪は世にあったが、律法がなければ、罪は罪と認められない訳です。
14節:しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違反と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。実にアダムは来たるべき方を前もって表す者だったのです。
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◆ここから、パウロ自身のイエスの十字架の意を理解し、信ずる者の事前了解が個人の中でなされた上での論理展開が書かれます。つまり、イエスの十字架という神の子のひとりの犠牲により、信ずる者は、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるのである(16節)という結論が書かれています。
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18節:そこで、一人の罪によってすべての人に有罪判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。〔・・・・〕
21節:こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
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◆さて、最初に書いたイエスが、中風の男に言われた「あなたの罪は赦された」という言葉の意味は、罪を赦す権威は神にしかあらずと律法学者、ファリサイ人が承認していたが実情、神が地上に現れてそのことを行わない限りは、その認識は、実現不可能な空論を強く認識していたに過ぎないということになる。ここで、イエスは、御自信が神であるということを表明し、実際にその証明を提示したことになる訳です。(「わたしを見たのは父を見たことになる」と弟子達に言われたという記事も他にある。)
◆「どちらがたやすいか」とのイエスの投げかけは、永遠の命への選択肢なのだ。中風の男は、現代であればその病は直るであろう。しかし、永遠の命は、イエスの犠牲を信じる事なしには得ることができないであろうと。結論から言えば「罪」が「的外れ」だけであるならば何の基準からの的外れなどということになり、そこから基準となる律法、その他多くの取り決めが出来る訳だ。しかし「罪」とはそれ以前の神との永遠の命への霊的な交流(それは生きている霊をもつすべて、今もである)が断絶さている霊的な死(完全な死)に繋がる関係事態ことを「罪」というのが正解なのである。 ・・・ Ω