marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(405回目)創世記第3章に戻る前に再度何を「罪」と言っているんだ!

2017-08-03 02:03:09 | 日記
 表題について僕が教えられた答えは、前の回の記事に書いたとおりなのだが、新約聖書において使徒パウロのローマ信徒への手紙の彼の理解の記事を再度、読んで見たい。
 ここで、もう一度、一般に説明されている「罪」とは「(神の思いとの)的外れである」ということでした。それに対して、何を持って、何を基準に? といえば良いかと僕らでなくてもそう思うわけですが、共同体としての最低の決まりを第一に守ること(モーセの十戒など)、それ以外にイエスが活動される時代人は細かな取り決めが沢山出来ていたようです。
「的外れでない」ことはやはり言葉で定義しなければ、分からないということで、それら諸々の取り決めを遵守することが「的外れではない」という解釈になるのでした。(無論、当時の話です)
◆しかし、ここでパウロは、アダムからモーセ(言葉で的外れでなくなるための戒律を神からの啓示で十戒を石板に刻んだ)のことを持ち出します。パウロはこのモーセを律法の祖としているようです。それで、アダムからモーセまでの間に、アダムと同じような違反の罪を犯さなかった人へも死は支配したのであると述べています(ローマ5:14)。ここでパウロが述べてるのは、最初の人アダムが違反を犯したので、以降の人はどんな人でも(立派な人でも)罪の中にある状態になったと・・・律法以前の状態で律法を知らないすべての人が命に預かれない状態になっているということです。
◆「実にアダムは、来たるべき方を前もって表す者だったのです。」(5:14b)の、「来たるべき方」とは、イエス・キリストの事になりますがここで分かるようにパウロは書いてくれていませんね。ここで言おうとしているのは、アダムが罪を犯したので、律法に関わらずそれ以前の地上のすべての人が罪に汚染され死ぬことになったが、しかしいまや、キリストは来られた。アダムと真逆に同様に天に帰る、永遠の命を受領すべく、イエスは、信ずるすべての者(全人類)を、いかに多くの罪があっても無罪の判決を下してくださり永遠の命へ導き入れるものであるという解釈をパウロは、展開しているのです。(イエスは、天に帰る基点となるべく新しいアダムとなる)
◆ここで、彼の視点は、永遠の命の始原(パラダイス)そのロストが、イエスを信じる事によりアダムとは真逆の永遠の命へと導くのがイエス・キリストなのであるという論を展開しているのです。神はイエスをキリストとして地上に使わしたと。
◆ここでさらに、罪の状態で、我々は死を迎えなくてはならないが、それは、今、この肉体を持っているからで、イエスを信ずる前の自分の肉体をキリストと共に十字架につけて、罪の奴隷となる元を絶ってしまうと考えよ、そして、キリスト。イエスに結ばれて新しい自分は神に対して生きているのだと考えよ・・・という展開をしているのです。罪の自覚が深いところ、イエスの恵みが増すのであると。
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 さて、ここまできて、聖書で語られているところの「罪」とは、その深い基は、神の霊との断絶、その表層としては、三次元的な「的外れも」指摘はできるであろうけれど、だからそれが途絶えれば、完全な「死」なのであるという解釈になります。厳しくも、それが途絶えている人を肉体が生きていても「死ねる人」と聖書は語るのである。
◆神は、人の創造時に特別にその鼻に息を吹き込まれたのである。僕ら、この地上の生命の誕生と活動は、神のそのときの創造のエネルギーの余韻で生きているようなものに思えてしまう。神の霊との断絶により、悪魔の霊もうろつきまわっているということをも忘れてはいけない。僕らは常に天上界からの霊(聖霊)の導きによって、生きるべく、この地上での肉体をも整え、神に捧げてしまえ!、そのように生きよ! とパウロは今も力説しているのです。・・・イエスは、いつもわたしに繋がっていなさいと言われているのだから。 Ω