marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(406回目)神のかたちに創造されたが人の中味は不完全だったの?

2017-08-04 02:00:00 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 創世記第3章・・・
 学生時代、友人と話して出てくる事は、神がこの世を救おうとするなら初めから悪などということの無い世界にすれば良かったのではということだった。そこで、僕は答える。光が光りであることが、自分の(つまり創造した神なのであるが)創造した最高傑作に(つまり自分の似姿にかたどった人)に知ってもらうためには、闇も無ければ光としたことが分からないだろうさ・・・なんていうことを話した覚えがある。
 何事にも比較があっての、認識なのだ。言葉で決めても、言葉で知っても本当に知ったことにはならないなどとは良く言われること。光あれ!だから、つまり反対の暗闇も同時に出来たということなのさ。それで、困難なことは、何も行動を起こさなければ、混沌(カオス)と闇のままなのである。
◆もし、まったく純粋な人間が創造された場合に、その中にすでに肉体の五感があり判断するとすれば、それはやはり「われわれのかたちに・・・創造した」のだから、その価値判断、基準がすでに「われわれに」つまり神から、投影されていたものだったということになる。
そもそも、理解するとは、これはブログの書き出しの時にも書いたのだが、生まれつき備わった、あるいは生育環境によって体に(脳みそに)刻みつけられた判断があって、その基準との比較により、「分かった、分からない」ということになる訳だ。(3:6)「女が見るとその木はいかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していた。」・・・木が無論、唆していたのではなく女の気持ちにすでのそのような誘惑に弱い部分があったことになる。
◆とすれば、創造された人が、何らかの判断をするということは、その判断の思考機能は、そもそも神のものからであると言えないか。ここで人は純粋無酷であったに対して、神と同等の御使いの長が、神から禁止の命を直接、受けていなかった女に会話をしているのは、
①その指示命令系統の逸脱であること。狡猾な蛇はそういったからといって、行動を起こすにはその前に確認することがあろうということ。旦那に尋ねるとか・・・ね。(突然に、以前、フランスの女性哲学者シーモーヌ・ヴェーユについて書いたが、女性は気質的に自分で決め、自分で判断し(ここで良く考えるはgoodだが)そうだと(悪く)思い込んでしまうのはいかがなものかである。
②それ以前に、神の指示が深刻な内容であるにも関わらず、その認識が薄かったこと。これは、今の僕らもいつもそうだが、話されている内容がまさに話だけでの受け取りで自分の身体のこととは無関係であると何も疑わずそう思っていること。人というのはそういうものか。
③又聞き。ここでは、アダムから神がこう命じられたとの又聞きであったと推測されること。最終、行動を起こすには自分の言葉での判断をしなければいけない。噂による話の伝搬は、確認が必要と言うことだ。こういうとこころから、パウロが手紙で女性はお話を慎むことの奨励をしているのか・・・当時の教会の集まりにあっての事ではあったが・・・
④人への責任転嫁が始まる。自分を正当化するそのもともとの基準は常にどこに有るのかはいつも問われる事である。
⑤いずれ、女は又聞きであたっとしても直接会話した悪の化身の蛇のいうことの言葉の方を信じたのであった。旦那にその実を食べさせる。ここで、神からの断絶が始まり(2:9)神は言われた「どこにいるのか」、(3:12)「女が取ってよこしたのです」と横の断絶も始まった。
◆いずれ、人類の祖、アダムが罪を起こして創造主なる神からの霊的な断絶により、最終死が入り込んだという神学をパウロは展開しているのでした。・・・ Ω